見出し画像

離婚道#16 第2章「子供のいない人生」

第2章 離婚ずっと前

子供のいない人生

 私が結婚を決めた理由のひとつに、出産願望があった。
 30代前半、タイムリミットのある出産を人生設計にどう組み込むか――切実な問題として考えていた時期でもあったからだ。
 結婚前、雪之丞も次のように言っていた。
「まどかには吉良雪之丞の子供を産んでほしい。私には前妻との間に2人子供がいるが、何年も会っていないから、いないも同然だ。まどかとの子供には、私が授かった能力と得た知識、技術のすべてを教えてからこの世を去りたい」
 雪之丞のような真面目で強い父親なら、安心して子供を産める――と、母親になることを夢見た。
 33歳で結婚。妊娠したい私は排卵検査薬を使い、雪之丞も協力してくれた。
 読者もいよいよ分かってきたかと思うが、私たち夫婦は普通の夫婦関係ではなかったし、家長・吉良雪之丞の感性は一般の人とは違う。
 私たちは同じベッドで寝ていたが、たまに雪之丞は自分本位のルールを作り、「次の滝行までは一緒に寝ないし、酒も断つ」とか「いまは毎日瞑想する時期だから私に触るな」という期間があった。しかし、それは長くても数カ月で、妊娠のチャンスはあると思っていた。
 ところが、なかなか妊娠できないまま、私は40歳になろうとしていた。
 平成21(2009)年春、私は雪之丞に産婦人科に行ってもいいかと尋ねた。
 雪之丞は「自然界で生まれない命を人工的に生み出す行為は倫理に反する」という考えから、不妊治療には絶対反対の立場である。不妊治療は夫婦の同意が必須であるから私も治療を諦めていたが、妊娠できない理由を知りたい。私に原因があると判れば「子供のいない人生」も諦めがつく。
 雪之丞は「不妊治療はしない」を前提に、検査を了承した。
 婦人科の検査を受けると、私に問題はなかった。
 雪之丞が病院に来ることはない。そのため医師は「次回の排卵日に診察予約を入れて、朝に性交してきてください。膣内の精液を採取して、運動量を調べてみましょう」と提案した。
 雪之丞に伝え、議論した結果、「女の私が子供を諦めるのはきわめて重要な決断になる。妊娠できる可能性があるならば、ギリギリまで諦めたくない」という私の考えを理解し、提案された方法で精子の検査をすることになった。
 その結果――男性不妊が原因だったのである。
 精子はあるが、運動している精子は皆無だったのだ。雪之丞はすでに60歳。加齢による精子運動量の低下と医師は説明した。
 ……ぼうぜん自失である。
 私は子供を産んで育てたかった。しかし、もう39歳。たとえ離婚して相手を探して再婚するにしても、もう間に合わないだろう。
 舞台革命を達成した吉良雪之丞の本を書くという大志を抱き、雪之丞と結婚したが、現状維持の仕事ばかりで、具体的に大きな仕事ははじまらない。せめて子供ができれば、雪之丞も変わるのではないかという淡い期待もあったのだ。
 ともあれ、吉良まどかの「子供のいない人生」は決定した。
 ショックだったが、仕方がない。「子供のいない人生」を豊かにするためには、雪之丞と仕事でがんばっていくしかない――と思うしかなかった。
 検査結果を伝える時、私は雪之丞を傷つけないことに細心の注意を払った。「私の仕事はこれから大きくなる」が雪之丞の口癖だ。精子の運動量ゼロという衝撃的事実によって、雪之丞の気分を害したり、精力を減退させたりしてはならない。
「検査の結果、運動している精子がないんだって。判ってよかった。これで諦めがつきました。先生、ありがとう」
 私の報告をきいた雪之丞は
「そうか、おそらく脳腫瘍の後遺症だ。まどかには私の仕事のことで頑張ってもらわないといけないから、それでよかった。この話はこれで終わりだ」
 雪之丞はどんな問題も必ず責任転嫁する。雪之丞の気持ちを考え、伝え方に配慮したが、どうやら私の取り越し苦労だったようだ。
 
 雪之丞が、前述した急性膵炎で命の危機に直面したのはその年の暮れで、回復後、性格が一段とキツくなり、利己的な態度も激しくなっていた。
 それまでにも、雪之丞は納得いかない問題が発生すると、新聞社や企業、文化庁に対しても抗議する。雪之丞は何ごともゆるがせにしない。私は雪之丞の指示に従う抗議文ライターとなっていた。
 もちろん、最初のころは「むやみに争わない方がいい」と進言した。世の中、いろんな人がいて、いろいろな考え方がある。それを理解しながら、雪之丞はただ自分の信念を貫けばいいだけのこと。積極的に敵を作ることは、大きな仕事に発展しない。事実、雪之丞に敬意を持って近づいてきた人も、その人間性を知って、一人、二人と去っていた。
 しかし、妻として、雪之丞のためを思って進言しているのに、そんな行為はまったく無意味だった。私の言葉も決してゆるがせにしない雪之丞にかかると、逆に私の方が執拗に責められ、キツイ攻撃を受け続ける。
「吉良雪之丞はそのような生き方はしたくない。私の人生は私が決める」
「まどかは必要以上に物事を恐れる。それは精神性が低いからだ。私から何も学んでいないじゃないか」
「抗議を受けた相手が逃げるのは疾しいからだ。お前は臆病者だ。お前はどっち側の人間だ」……
 雪之丞のための助言が別の精神論にすり替えられ、大きな衝突となる。本末転倒きわまりない。
「私は自分の考えを言ったまでで、先生がそう思うならそれでいい」――そんなことを言えば、さらにやり込められる。
「臆病者と言われて、そうですかで済むと思うのか。お前は臆病者のうえに卑怯者だ」――と。
 およそ夫婦の会話ではない。まるで幕末の志士のような会話が家庭内で繰り返された。
 雪之丞との議論は心底面倒くさかった。おだやかな生活を維持するため、私は雪之丞に言われる通りにするしかなかった。だが、せめて、少しでも雪之丞が奇人変人に思われないよう、抗議文も加減して書くことに心血を注いだ。
 中央新聞に抗議文を書いた時は辛かった。会社でも話題になったに違いない。もともと結婚を機に新聞社の人とのつながりは切れていたが、中央新聞社との縁切りは抗議文で決定的となった。
 私が雪之丞と出会ったころ、雪之丞は52歳だった。そのころは、こんな人ではなかった。いや、こんな人だとは思わなかった。
 入籍するまで、雪之丞は私に相当気を遣っていたのだろう。雪之丞の独善性は内包されていた。だから私は見抜けなかった。あるいは、雪之丞が変わったのかもしれない。この排他的かつ攻撃的な態度は、いわゆる老害というものなのか。これは年の差婚の弊害なのか。……
 私は結婚して数年後から、片頭痛と胃痛に悩まされるようになった。胃の病気を疑い、何度か病院へ行ったが、いつも原因不明と言われた。私の体は悲鳴をあげている。こうした体のSOS反応は、「子供がいない人生」になったとわかってから頻繁に出るようになっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?