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離婚道#9 第2章「夢幻泡影 その1」

第2章 離婚ずっと前

夢幻泡影 その1

 雪之丞取材から数日後、文化面に記事が掲載された。
 掲載日には雪之丞からお礼の電話があり、
「次の日曜日、舞台を観に行きませんか」
 という。
 なにやら「源氏物語」をモチーフにした舞台で、能楽監修で携わった雪之丞の手元に招待状があるそうだ。
 すぐに書くわけではないが、舞台は観たい。雪之丞の押しも強く、私は仕事かデートか分からない展開のまま、買ったばかりの「マックスマーラ」の黒い麻のワンピースを着て出かけたのである。
 待ち合わせ場所の劇場前に着くと、「え?」
 雪之丞は、萌黄もえぎ色のしゃ(※⑥)の着物姿で立っていた。生成りの(※⑦)の帯を締め、足元は質のよさそうな畳表たたみおもて雪駄せった、紺のトンボ柄の印伝いんでん(※⑧)の巾着を手にしている。
(雪之丞、きもの着てる……)
 やはり和服のすごみには圧倒される。着物と並ぶと、完全にマックスマーラが安っぽく感じるではないか。
 私は、子供のころの盆踊りと温泉旅館で着る浴衣以外、和服は着たことがない。和装には全く縁のない人生だった。着物姿の男とふたりで歩くのも初めてだった。
 観劇後は近くの帝国ホテル内の日本料理屋で鱧料理を食べ、雪之丞が支払った。
 その後も度々雪之丞と食事をすることになるが、いつも雪之丞が会計をした。私はそれまで、男友達との食事では、私が払うか、一応割り勘にして私が多めに払うというパターンばかり。ご馳走になることは、誕生日などの記念日以外ほとんどなかったから、私には新鮮なことだった。
 さらに新鮮だったのは、雪之丞との会話。私の質問に、雪之丞は長考しない。また絶対に「う~ん……」とか「そうだなぁ~」などのつなぎ表現を使わない。瞬時に、的確かつ想像を超えた発言をする。
 会話に織り込まれる人生観や精神論にもしびれた。
 たとえば、劇場の客席で俳優を見かけた時、私は「あれ、〇〇さんですね」などと小声で言いながら、服や持ち物などを観察していたが、雪之丞は姿勢や目つき、所作しか見ない。
「寺尾さん、形は質のあらわれで、質は気のあらわれです。その人の気の質が形として見えるんです」とか「人が真に美しいのは、美貌でもスタイルでない。その人の高い精神に触れた時しか、私は人を真に美しいと思いません」などとサラリという。
 また、大きな会社の経営する大富豪が逮捕されたニュースを話題にし、「彼ほどの成功者が……」と言えば、
「私は成功者という言葉には意味がないと思っているんです。何を成したかではなく、何を成そうとしたかでその人の価値が決まります」
 さらには「人間社会なんて有象無象の集まりですから、私は天しか見ていませんよ。私は今生で、自分のやるべきことを役割だと思ってただひたすらに実践するだけです。人からどのように見られようが一向に平気なんです。だから非常に楽ですよ」といった具合。
「幸せって何ですか?」
 そんな質問でも、雪之丞にはひと言だ。
「心の安寧あんねいです」
 さらに続けて、「何によって心の安寧が得られるかは、人によって違います。だから幸せの形も人それぞれです」と補足する。
 雪之丞の人生観はシンプルで、言葉が清くさっぱりしていた。
 その日、雪之丞は私に対して、明らかな好意の言葉を口にした。
「寺尾さんは私のことを猩々しょうじょうだと言いました。寺尾さんほど、吉良雪之丞の仕事を一瞬で理解した人はいませんでした。私には必要な時に必要な人が現れることがよくあります。そして今、寺尾さんが現れた」――と。
 帰り際、銀座のバラ専門店で「好きな色を選んでください」と言われ、オレンジ色の品種「マリーナ」を5本買ってくれた。5本というのは「あなたに出会えたことの心からの喜び」を意味する本数なんだとか。
 とにもかくにも、私は突然テーマパークに迷い込んだかのように非日常の世界で、別次元の精神論、人間観に触れた。
 その後、雪之丞とは何度か映画を観に行った。映画の感想を話題にしても、学びがあり、有意義な時間となった。私は雪之丞に対して、ますます尊敬の念が高まっていったように思う。
 そして6月、雪之丞から「事務所にある能舞台を見にきませんか」との誘いを受け、事務所に行った。
 雪之丞は袴姿だった。
 私を能舞台に招き入れるために絝をはいたのか、その前後の仕事の関係なのか不明だが、またも非日常感に心揺さぶられたことは間違いない。
 雪之丞は2階の事務所の神棚を拝み、続いて神代じんだいけやき(※⑨)で彫られたという「不動明王」(※⑩)の仏像にうやうやしく手を合わせた。すると雪之丞は突然、
仏説ぶっせつ 摩訶まか般若はんにゃ波羅はら蜜多みた心経しんぎょう~ 観自在かんじざい菩薩ぼさつ 行深ぎょうじん般若はんにゃ波羅はら蜜多みった 照見しょうけん五蘊ごうん皆空かいくう……」
 太い声で「般若心経」をたっぷり唱えはじめた。身近な人が目の前でお経を唱えるなんて、初めてのことだった。
 雪之丞が1階の能舞台を案内した。
 4階の建物は、1、2階部分を雪之丞が借りていて、1階部分の半分を改築して簡易な能舞台にしている。橋掛はしがかり(※⑪)はないが、鏡板かがみいた(※⑫)に立派な松の絵が描かれていた。
 雪之丞がおごそかに舞台に上がり、大鼓を打った。
「うぉ~」という低くて長い掛け声で「ポン」と鼓を打ちはじめ、次第に「うぉ、うぉ」とペースが速くなる。「いよ~」と高音からの「ポン」などバリエーションもあり、演奏は最高潮へ向かった。
 幽玄な演奏に、形の美しさ、釘付けになるような目力、全身から放射される気迫……。
 伝統芸能が目の前で、私のために演奏されている。5分くらいの独奏に、私はまたも別世界に引き込まれた。
 続いて、雪之丞は古武術の動きも見せた。すり足で自由自在に動くが、瞬間、瞬間が実に美しかった。私も舞台に上がって古武術の一部を実践させてもらったが、上手く体を使えば、小さい力でも相手を動かせるのには感動した。
 雪之丞は若いころ、山の修行を先達せんだつしてくれた先生に古武術を師事したという。20年ほど一人で修行と古武術の鍛錬を重ねるうち、能と古武術の動きに独自の気功を取り入れた身体操法と呼吸法を編み出したそうだ。
 その吉良流なる独自操法は、心身の健康とパフォーマンス力を向上するとして著名人などに口コミで広まり、紹介制で教えているという。学んでいるのは俳優や人気アーティスト、スポーツ選手など、みな有名人ばかりで、中には私が取材したことのあるタレントや俳優もいて驚いた。
 舞台を降り、私の矢継ぎ早の質問に答えながら、雪之丞は愉快そうに言った。
「一杯やりませんか?」
 私は雪之丞に誘われるまま、2階の奥のひと間、雪之丞の部屋に入った。
 代々木上原の寿司店から出前をとり、新潟の名酒「久保田」の万寿で杯を交わした。
 太い声の般若心経と鼓の音、高音の掛け声が耳の奥で不思議と調和している……酒に酔ったのか、その前からすでに酔っていたのか……。
 現実感がないまま、
「今日は満月だから月を観ましょう」
 と腰に手を当てられ、一緒にベランダに出た。
 月を見上げ、ふと雪之丞の方を見ると月に向かって合掌している。
 アポロ11号が初めて月面着陸した日に生まれた私は、勝手に自分のことを〝月の申し子〟と思い込んでいて、月を見ると祈る習慣がある。途端に雪之丞に親近感を覚えた。
 雪之丞と並んで手を合わせたが、その時私は何を祈ったのだろうか……。
 顔を上げると、雪之丞が顔を重ねてきた。高い体温を感じた。そして、その後のことも、あまり覚えていない……。ひとつ、たしかなことは、記者になって初めて、取材相手が他人じゃなくなった――ということ。
 もういい年齢の大人だというのに、出会って3カ月足らずの急展開。
 ならば、盲目になるほどの大恋愛かといえば、そうではなかったと思う。
 雪之丞に対しては、初めて味わう感情で、強いていえば、「絶対的な尊敬」に「好感」と「好奇心」が混ざったようなもの。そして私の存在が強烈に求められていることへの「恍惚」と。
 雪之丞には、年功を積んだ能力だけではない、持って生まれた英知があるかと思うと、生まれたての赤ん坊のように無垢なところもあった。
 30代にもなると、何か新しく挑戦する人は少なくなる。50歳を超えている雪之丞が、これから新しく大きなことを成し遂げようとしているのがワクワクした。
 そんな新奇な世界にすっかり魅了されていた私は、まるで自分の意思ではとめることのできない乗り物に乗せられた感じだった。しかもその乗り物は、ジェットコースターのようにスピードが早い。
 すべては「猩々」から始まった。この急展開は、猩々の魔力なのだろうか……。
 

※注釈
しゃ 生糸をからみ織にした絹織物。うすぎぬ。うすもの。目があらく、薄く透き通って清涼感に秀でているため、盛夏用の着物や羽織地、雅楽の装束などに用いられる。また、ぼんやりした様子をあわらわす「紗がかかったような」の表現でも使われる。

 紗をさらに複雑化したもじり織の薄い網目状の絹織物。手法が非常に複雑なため技術は一度途絶えたが、昭和の時代に復元された。羅帯は通気性が高く、見ている人にも涼しげな印象を与える。

印伝いんでん 羊または鹿のなめし革。名はインド伝来にちなむ。漆や型紙を用いて文様を描き、江戸・明治時代には袋物やタバコ入れとして珍重された。柔らかで独特の感触がある。

神代じんだいけやき 1000年以上もの間、腐らずに地中に埋まり、地中の成分などの作用で変色した木を神代木という。神代欅は、緑を帯びた灰色をしているのが大きな特徴で、人工の塗りでは出せない深みがある。

⑩不動明王みょうおう 仏教守護の明王。不動尊。大日如来の使者として、すべての悪と煩悩をおさえしずめるため、忿怒ふんぬの相をしている。右手に剣、左手に羂索けんさく(衆生救済の象徴である縄状のもの)を持ち、全身に火焔かえんを負う形が一般的。

⑪橋がかり 能舞台の一部で、本舞台から左手に長くのびた廊下。演技者の通路になり、演技の奥行きや立体感を出すため、舞台の延長としても活用される。

鏡板かがみいた 能舞台の正面の羽目板。老松が描かれることが多い。

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