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離婚道#2 第1章「失敗だらけの人生です」

第1章 離婚もっとずっと前

失敗だらけの人生です

「被告は、婚姻前に中央新聞社の記者をしており……」
 こう書面に記される通り、離婚裁判で、私、吉良きらまどかは「被告」である。なぜなら、夫の吉良雪之丞ゆきのじょうが起こした裁判だから。
 被告――いや、私としては、離婚することに合意はしている。別れたがっている相手にすがりつくつもりはない。
 では何が争点なのかと言えば、「財産分与」である。
 離婚裁判の争点といえば、「離婚したい・したくない」の問題や子どもの親権の取り合いなどを思い浮かべる人も多いと思うが、財産分与で紛糾するパターンも少なくない。
「一銭もやらない」と言い続ける原告――いや、夫の主張に反論し、金銭面で細かく争っている裁判なのだ。
 長く裁判をしていると、「原告」も「被告」も、単に記号にすぎないと思えるようになった。
 しかし、私の場合、裁判の書面作成にもかなり関わっているので、「大概バカ正直に生きてきました」と胸を張っていえる自分のことを、自ら「被告」と書くことに最初ははなはだ抵抗があった。
 これまでにやりとりした裁判文書の束は、証拠を含め、もう20センチ以上の厚みになる。その1枚1枚に、ことごとく自分のことが「被告」と呼称されていることを考えると、
「被告かぁ……」
 と、今でもたまに大きな敗北感に襲われ、なんともいえない惨めな気持ちになってしまう。
 
 思えば、失敗だらけの人生だった。
 新聞記者時代の失敗をあげたらキリがない。とりわけ、サツ回りをしていた新人記者時代はひどかった。
「サツ」というのは警察で、「サツ回り」は警察担当のことをいう。地方支局に配属された新人記者が最初に受け持つ役回りで、新人記者はサツ回りをしながら、記者としての基礎を学ぶのが新聞各社の慣わしだった。
 私はこのサツ回りが本当に苦手だった。というか、向いていなかったと思う。
 深夜や早朝、予告なく警察幹部宅などを訪問し、強引に取材する「夜討よう朝駆あさがけ」は、先方の家族の気持ちを考えるとどうしても抵抗感があった。タバコの煙とヤニにまみれた県警や警察署の記者クラブに詰めることも、何カ月経っても一向に慣れなかった。事故現場に駆けつけて死体を見ることは、たまらなく苦痛だった。
 週1、2回の宿直勤務では、夜間と朝方に、所轄の警察署に次々電話し、
「なにか事件事故はありませんか?」
 と問い合わせる。これを「警戒電話」というが、私はこの時ほど「平和な社会」を祈ったことはなかった。
 そういえば、こんな失敗もあった。
 ある日の午後、家屋が全焼する大きな火災が発生。
「おい、寺尾。急いで現場に行って、写真撮ってこい」
 とデスクの指示が飛び、「はい!」と、とりあえず支局を駆けだした。
 寺尾というのは私の旧姓。大きな火災の場合、まずは現場へ急行し、臨場感のある写真を撮らなければならない。
 当時はカーナビなどなかったから、地図で道を確認し、迷いながらもなんとか愛車の紺のいすゞ「ジェミニ」で現場付近まで向かった。だが、目的地の手前で、すでに道路は渋滞。泊まり明けだった私は、遅めのランチ後の満腹状態で、なんとあろうことか、睡魔に襲われてしまった。現場まであと少しという赤信号でとまっていると……
「ゴン!」
 軽い衝撃で目が覚めた。
 居眠り運転による衝突事故を起こしてしまったのだ。誠に弁解のしようもないことだが、心地よい眠りにつられて右足の力が抜け、うっすらとブレーキペダルが浮いてしまったらしい。
 幸い、ぶつけてしまった水色の日産「パオ」に凹みもなく、物損事故扱いにはならなかった。
 しかし、私が路肩でパオの女性ドライバーに平謝りしていると、私の追突事故が新たな渋滞を作ってしまったらしく、火災現場付近にいた顔馴染みの警察官が近寄ってきた。
「中央新聞さ~ん、これ以上、われわれの仕事を増やさないでくださいよ」
 さんざんからかわれた挙句、「火事だったら、ほとんど鎮火してるよ。もう写真は無理だな」。
 結局、肩を落として手ぶらで支局に帰ると、県版2番手のニュースとして火災写真のスペースを空けて待っていたデスクは
「えぇっ⁉」
 と絶句。ついでに追突事故を起こした一件も報告すると、
「……で、ケガはなかったのか」
 一応気づかう言葉はもらったが、ため息と舌打ちから、内心の怒りが伝わってくる。火事は死者2人の大きなニュースだったから無理もなかった。
 翌日、各社の朝刊には、炎と煙が家屋を包む火災現場の写真が載っていた。わが社の紙面に火災写真がないのは、「特オチ」したようなもの。特オチというのは、他紙が報じているニュースを自社の紙面のみ報じていないことをいう。
 この時は失敗要素が重なったため、ジェミニがパオに追突した事故は、「写真特オチ」という仕事上の大きな失敗の影に隠れてしまった。しかし、よくよく考えると、ゾッとする話だ。
 物損事故になれば、事故証明書で加害者の私は甲、被害者のパオのドライバーが乙。さらに悪いことに、人身事故で起訴されたら、私は離婚裁判よりずっと前に「被告」と呼ばれるところだった……。
 振り返ると、これまでの人生、小さい失敗と大きい失敗の連続だった。
 失敗を挽回しようと挑戦するものの、それもまた失敗。たまに特大の失敗をして痛い目にう――そんなことの繰り返しだったように思う。
 離婚は結婚の失敗なのだろう。だから離婚問題を抱える現状において、私は人生の失敗者であることを認めざるを得ない。
 あぁ、人生の失敗者――
 失敗者といえば、私が敬愛する作家、藤沢周平も同人誌のエッセーで次のように書いている。
 
《人はみな失敗者だ、と私は思っていた。私は人生の成功者だと思う人も、むろん世の中には沢山いるにちがいない。しかし、自我肥大の弊をまぬがれて、何の曇りもなくそう言い切れる人は意外に少ないのではなかろうかという気がした。かえりみれば私もまた人生の失敗者だった。失敗の痛みを心に抱くことなく生き得る人は少ない。人はその痛みに気づかないふりをして生きるのである》(『荘内文学』第10号「啄木展」)
 
 藤沢周平はある時、百貨店の「石川啄木展」に行き、「啄木の人生は失敗の人生だった」という湿った感慨を抱く。小説で失敗し、困窮をきわめた啄木にとって、歌は「悲しき玩具」に過ぎなかった。だから啄木の短歌が人びとに好まれるのだと、藤沢周平は、はたと突きあたるのである。
 50歳を過ぎて離婚というのは、もう取り返しのつかないような失敗かもしれない。そう、私は大失敗者だ。しかし私は、まだ絶望していない。
 失敗を自覚し、反省すべき点は反省し、痛みを抱きながら、できるだけ上を向いて生きていくしかない。たとえ挽回できなくとも、少しでもより良い人生にしていきたい。藤沢文学の中の、不遇でも健気けなげに生きるヒロインたちのように。

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