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離婚道#4 第1章「狭き門より入れ」

第1章 離婚もっとずっと前

狭き門より入れ

 マーガレット・ミッチェルに憧れ、「新聞記者になる」とすっかりのぼせ上がっていた私は、千葉県船橋市の同じマンションに住む同級生、坂上大介の家に行った。大介の父親は、憧れの毎朝新聞記者だったのだ。
「新聞記者になるには、どうしたらいいですか?」
 私はじゃがいもみたいにゴツゴツで愛嬌のある顔のお父さんに質問した。
「そうだな、専門の勉強はいらないよ。いろんなことに好奇心を持って、取り組んだらいいんじゃないかな」
 その時、大介の父親は社会部のデスクだった。
 それから約3年後――。
 高3で大学の進路を決めなければならず、私は再び大介の父親に相談に行った。その時、大介の父親は科学部長になったばかりだった。
「新聞記者になるためには、どんな学部が有利ですか?」
 私の堅固けんごな志に、大介の父親は驚いたようだった。
「まどかちゃん、わが社では毎年、新卒で100人を記者職で採用しても、女子はわずか数人なんだよ。だから、女性が新聞社に入るのは本当に大変なことなんだ。マスコミ志望なら、新聞社にあまりこだわらず、女子を比較的多く採用してくれるテレビ局や出版社などを含め、幅広く進路を考えた方がいいと思うよ」
 まだ女性新聞記者が少ない時代。新聞社に固執こしつする私に、もっと視野を広くしなさいと大介の父親は忠告した。要は、新聞記者はやめた方がいいと、私を落胆させないようにアドバイスしていた。
 しかし、私はマスコミ志望ではない。新聞記者になることしか考えていない。
「女子の採用が少なくても、私は挑戦します。どうやったら、新聞社に採用してもらえますか?」
「う~ん……」
 大介のお父さんは返答にきゅうした。困った顔は、一層じゃがいもみたいになった。
「そうだなぁ……。毎朝新聞の科学部記者は理科系出身者が多いけど、経済部でも社会部でも理系の知識は必要だから、これからの時代は各社、理工系学部の学生の採用を増やすと思うよ。ひょっとして、女性で理系だったら少し目立つから、採用されるかもしれないけどね。しかし、まどかちゃんは文系だからなぁ……」
 とニッコリ笑った。
 大介の父親は私が数学が苦手な文学少女なのを知っている。親心で、私に新聞記者への無謀な挑戦を諦めさせようと、無理な提案をしてみたのだろう。
 だが、大介の父親の目論見もくろみは外れた。
 絶対に新聞記者になるとのぼせあがっている私は、「ラッキー! いいことを聞いた」としか思わなかった。
 私は迷うことなく理転した。受験間際に、理科系に転身したのだ。
 同級生も担任教師も驚愕した。
 理系科目においてはクラスの女子の中でいつも最下位、とりわけ数学は赤点常習者だった私が、「今日から私は理系です」と言い出したからだ。
 現役受験では無理だろう。でも、1浪すれば、なんとかなるんじゃないかと踏んで、浪人覚悟で大学受験に望んだ。
 母妙子は「合格できる普通の大学に行って!」とヒステリー気味に反対したが、私はどうしても新聞記者になりたかった。ただでさえ、女性記者は狭き門なのだ。飛び抜けて優秀でない限り、理系でもないと採用されないと本気で思っていた。
 俗にいう「狭き門」は、競争が激しくて入学や就職が難しいことをいう言葉だ。それは『新約聖書』にあらわれるイエス・キリストの言葉に由来する。
 
《狭い門から入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだすものが少ない》(『新約聖書』―マタイ伝・七)
 
 すなわち「狭き門」とは、本来は、救いに至る道が困難であることを意味する言葉。本当に自分にとって価値ある成果を得たいならば、困難な道を歩んでいくべきだ、という意味で使われるようになり、そこから転じて、難関校への入学や難関な就職などを指すようになったという。
 
 さて、現役受験はやはり全滅で、私は想定通りの浪人生活。浪人1年間が勝負だ。
 が、どんなに勉強しても、物理は理解できないし、微分積分はさっぱり。
私は集中力が足りないからだと考えた。
 もっと机上の参考書に集中し、それ以外の情報が入ってこないようにすべきだと思いついた。そこで、物理的な手段として、箱をかぶって勉強することにした。適当な箱がないから自分で作るしかない。
 浪人してまもなく、私は箱作りにとりかかった。
 もともと図工が得意で幸いした。設計図を起こし、箱の素材として、首に負担のかからない軽さで適度な強度の厚紙を選んだ。前面は太めの針金2本で左右を固定、顔が出るような形である。設計から数日かけて製作し、幅約25センチサイズのかぶる箱は完成。私はそれをかぶって勉強した。
 驚いたのは母妙子である。「ねぇ、まーちゃん。あのさぁ……」と、なにげなく私の部屋に入ると、机に向かう娘が箱をかぶっているではないか。
 ――ガタン!
 母が、ドアのあたりで膝から崩れ落ちているだろう音が聞こえた。
「まーちゃん、もう勉強はいいから。そんなことしなくても、そのまま入れる文系の大学でいいじゃない。まーちゃん……」
 母は声をつまらせている。
 構造上、箱は体ごとくるりと向き直らないと、少し背後にある横のドアが見えない。だから、集中しようと箱をかぶって問題集を解いていた私は、泣き崩れる母の姿を見ていない。
 箱は耳部分に開ける穴の個数や大きさを変えたり、肩にあたる部分のクッションを改良したりして、3号まで作った。箱は進化し、箱作りは間違いなく上達したが、箱をかぶっても微分積分は克服できなかった。夏が過ぎ、紅葉になったと思ったら、受験シーズンが来てしまった。
 物理と数学はダメなので、英語と化学が頼みだった。化学式や化学反応式をひたすら暗記し、なんとか模試では、第一希望の私立理系専門大学の薬学部が合格ラインに到達した。この大学を目指したのは、就職試験で理系をアピールするため。大学名だけで理系だと分かる方がいいと思ったからだ。
 受験では、同じ大学の理学部、理工学部、工学部の化学系学科を全部受験した。これだけ受ければ、どこか合格するはず、と信じた。そのほか、理系国立大学にも望みを託した。
 ――が、全滅! すべり止めの私立総合大学の工学部1校のみ合格という結果だった。
 箱までかぶって勉強したのに……大学受験は大失敗である。
 母妙子は、模試のA判定が出てから、多少期待していたようだ。それだけに、激しく失望した。だから、落胆する娘をなぐさめるなんてことは一切なく、
「のぼせあがるのもいい加減にしなさい! 大介のお父さんは、まーちゃんに新聞記者を諦めさせようと思って理系の話をしただけなのに、人生を棒に振って、理系受験なんて、バカじゃないの⁉ 大介のお父さんは東大工学部出身なんだよ。新聞記者というのは、そういう優秀な人じゃないとなれないの! いい加減に諦めなさい! 実力もないのに、まーちゃんは自分の能力を過信し過ぎる!」
 と激怒し、最後には「お願いだから、地に足をつけて」と懇願してきた。
 受験で挫折したうえ、母の悪口雑言あっこうぞうごんはさすがにキツかった。
 しかし失敗したら挽回すればいい。私は、先のことばかり考えていた。だって、一応はリケジョ(=理系女子)になれたし、4年後の新聞記者への道が閉ざされたわけではないから。
 持ち前ののぼせ体質もあるが、「若さ」とはこういうことだろう。私は新聞記者になることを信じていたし、全く諦めていなかった。

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