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離婚道#17 第2章「オウムよく言えども飛鳥を離れず」

第2章 離婚ずっと前

オウムよく言えども飛鳥を離れず

 私が雪之丞の代筆をしていた『邦楽と古典芸能』の連載に、変化があった。
 最初のころは、雪之丞が書きたい内容を細かく話したものだったが、雪之丞の脳腫瘍を機に、雪之丞はテーマを提示するだけで、私がほとんど全文執筆する形に変化していた。コラムは編集者にそこそこ好評だった。
 連載開始から5年ほど経ったある時のこと。編集者が、
「吉良先生は、本当にいい奥様と結婚されましたね。伝統芸能の世界では、みなさん奥様の内助の功があるものですが、吉良先生の奥様ほど、具体的に先生を支えている奥様はいません」
 と、暗にコラムのゴーストライターが私であることを知っていると言わんばかりに褒めた。それが雪之丞は気に入らなかったらしい。
 私が雪之丞の指示通りのテーマでどんなに面白く書いても、雪之丞は最初の数行読んだだけで、
「違う! 吉良雪之丞はこのような言葉を使わない。私のそばにいて、お前は私から何を学んだんだ!」
 と激昂するようになった。最後まで読めばいい内容だと分かるから読んでと言っても、雪之丞が一度放り投げた原稿は、私が書き直すまで絶対に手にしない。雪之丞は私の原稿にケチをつけたくて仕方なかったようだ。
 スタートから約6年半経ち、代筆業にいい加減うんざりしていた平成22(2010)年3月、雪之丞の連載が終了した。
 私は結婚のひとつの役割が終わった気がした。
 
 そのころ、雪之丞は弟子たちの前でも私のことを平気で叱責するようになっていた。
 ある時、「カメラを持って能舞台に来るように」と指示された。私は雪之丞専属のカメラマンでもあった。
 急いで仕事場へ向かうと、袴姿の雪之丞と着物姿の弟子たちが舞台で鼓を打っていた。
 地方から来た弟子たちのため、私に写真を撮れという。あらゆる角度からシャッターを切って数枚撮り、それらを雪之丞に見せると、「左側の弟子の手が写っていない」とか「背景の松の枝が美しく見えるように考えろ」など、とにかく注文がうるさい。
 やり直しを何度かしているうちに、雪之丞の不機嫌が募っていった。
「まどかは精神性が低いから、こんな写真しか撮れないのだ。まどかはとにかく幼い。ほんとに情けないね」
 弟子の前での叱責がとまらない。
 いまの私は、主役の雪之丞を引き立てるための脇役なのだと割り切ることで、たいていのことは辛抱できた。だが、私よりも若い弟子も数人いて、その中で、私が容赦なく面罵されることに我慢ならなかった。
 ちょうど少し前には、私の「子供のいない人生」が決定していた。
 私の役割だった『邦楽と古典芸能』のコラムも打ち切りとなった。
 いつになったら、舞台革命の仕事が実現するかもわからない。
 いま、人生をやり直せるチャンスかもしれない――。

 私は平成22(2010)年春の休日、考えた末の言葉を雪之丞に伝える決心がついた。
「先生、話があります」
「なんだ、言ってみろ」
「この前、弟子たちの前で『幼い』『情けない』と怒られた時、私はとても恥ずかしかった。私なりに精一杯やっていますが、どうしても先生の意に沿うようにできないから、いつも怒られます。私はもう40歳で、40代からの人生は、人前で罵倒されたり、それを怖れて緊張したりしている生活ではなく、もっと誇り高く生きていきたい。先生の脳ももう心配ないし、ここしばらくは夜間のてんかん発作もないので、私がいなくなっても、先生はきっと大丈夫だと思います。身の回りのことは、以前のように弟子たちがやってくれるはずです。だから私は自分の人生をやり直したい。離婚したい気持ちです」
「言いたいことはわかった。でも、まどかは全くわかっていない。まどかはいま、『怒られた』と言ったが、私はこれまで60年生きてきて、人を怒ったことなど一度もない。吉良雪之丞は怒るような人間ではないのだ。『怒る』と『叱る』は質が全く違うよ」
 ――あぁ、そうだった。
「怒る」と言ってはいけなかった。どうみても怒りっぽい性格なのに、雪之丞いわく「吉良雪之丞という人間は決して怒らない」のだ。どうでもいいことなので、すぐに謝罪して訂正した。
「すみません。言い間違えました。『叱責』でした」
「そう、分かればいい。私は結婚してすぐに脳腫瘍をやり、去年は胆石で急性膵炎になった。まどかには本当に苦労をかけたが、これでやっと、本来の仕事に取り組める。私の人生で、まどかほど私を尊敬し、支えてくれた人はいなかった。私はまどかと一緒にがんばっていきたいと思っている。私の仕事はこれから大きくなる。まどかの気持ちはわかったから、もう弟子の前では叱責しない」
 私が黙って聞いていると、雪之丞はひと息入れ、続けた。
「離婚して働くといっても、40歳から職なんてそうそう見つかるものじゃない。私といれば、生活の心配はない。誰か好きな人がいるというのなら別れてもいいが、そうじゃないなら、また一緒にがんばろう。そうだ、今日、呉服屋に行って、まどかが気に入っていた能登上布を買ってやろう」
 雪之丞には高い自尊心があり、絶対に私に謝罪したりしない。だが、「もう弟子の前で叱責しない」と、雪之丞なりに精一杯の譲歩をしている。高価な着物をエサに私を翻意させようと、雪之丞なりに必死のようだった。
 夫婦となり、8年間一緒に生きてきたから、私には雪之丞に対して家族としての情がある。雪之丞が私を手放したくないのがわかり、なんだか可哀そうに思った。
 雪之丞が言う通り、この暮らしを続けていれば、生活の不安がないこと、それもよくよく考えれば、幸せなことだ。
「先生、分かりました。これからは先生から叱責されないように頑張るから、お弟子さんの前であのような厳しいことは言わないでください」
「わかった」
 ……私は、この道を進むしかない。置かれた場所でがんばるしかない――と現状に満足しようとした。
 そしてそれから数カ月間は、雪之丞は少し私に気を遣うようになった。相変わらず私に対して当たることもあったが、若干口調がマイルドになった感じがした。はじめて「離婚したい」と言ってみて、よかったのだ。……
 そんな中、平成23(2011)年3月11日に東日本大震災が発生。雪之丞と家族であることを再認識する出来事だった。
 福島の原発事故によって、雪之丞は「もう東京に住めなくなるかもしれない」と言い出し、「京都で物件を探せ」と指示した。そのため、私は京都市にひと月ほど滞在し、烏丸御池駅から徒歩5分の3LDKのマンションを賃貸契約した。
 原発事故が落ち着いた後、今度は「日本円の価値が落ち、インフレになる」と金融危機を怖れ、「京都に不動産を持とう」と言い出した。雪之丞は自宅も事務所も賃貸で、不動産を持っていない。
 いろいろ探し、震災から1年後、京都市の烏丸三条の交差点からほど近い好立地の新築マンションを購入した。約70平米で5000万円。初めての不動産購入だった。
 雪之丞は全額現金で支払った。
「私がこの世を去っても、まどかの財産にするといい」と、名義を3:2の共有名義にしてくれた。
 大きな震災が起こっても、私が雪之丞を優先する生活は変わらず、私の両親とは疎遠のままであった。やはり、いろいろあっても雪之丞は私の唯一の家族であり、頼るべきは雪之丞しかいない、と思った。
 ただ、そう思いながらも、現状維持の生活に疑問を持つようになっていた。本当に雪之丞には才能があるのだろうか。私自身が人生をかけて願っている舞台革命など実現するのだろうか――そんな疑問が浮かび、自分の結婚の選択を恐ろしく感じてしまうことがあった。
 ある時、パソコンを開き、
「言うだけ言って一向に行動しないこと」
 とGoogle検索した。
 すると、「鸚鵡おうむよく言えども飛鳥ひちょうを離れず」ということわざが飛び込んできた。
 オウムは人間の言葉をまねて話すが、やはり鳥でしかない。転じて、口先ばかり達者で実際の行動が伴わないことのたとえという。
 いやいや、雪之丞は才能がある。オウムではない――私は頭を振って言葉を打ち消した。そして、悶々もんもんとした気持ちを晴らすために、軽いノリでGoogle検索に頼ったことを深く後悔した。

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