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2024.4.28「3-5.「DNA縄文人」である高句麗物部(蘇我)朝



3-5.559年の「DNA縄文人」である高句麗物部(蘇我)朝の初樹立と642年の高句麗の事実上滅亡

(1)蘇我馬子と物部宇麻呂と高句麗第25代平原王とサーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世は皆同一人

 倭国、四韓の歴史において、通説と大きく外れていたことの一つが、物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)と物部宗本家15世代物部宇麻呂と高句麗第25代平原王(在位:559~590年)とサーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)は、皆同一人であることです。
これらは、状況証拠と論理的考察から成立します。

 記紀は、「DNA縄文人」である倭国政事統括者を裏に隠した金氏史書ですが、表に出さざるを得ない事情ができ、物部(蘇我)馬子、蝦夷、入鹿は二人の悪人と善人の人格に分けて記しました。表に出さざるを得ない事情とは、高句麗末に「DNA縄文人」である物部王朝が樹立され、その王朝の「DNA匈奴金氏」である高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)であった第40代天武の皇位正統化のためには避けて通れなかったからです。

これと類似した例に、新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香と娘の新羅朴氏摂政只召(チソ)太后=新羅・息道夫人=尾張目子媛は、新羅・尾張氏を表に残していることがあります。つまり、新羅・尾張氏は二人で終ったことを示し、統一新羅から尾張氏を排除するためです。

先ず、「記紀の蘇我馬子」と「先代旧事本紀 (平安時代初期に成立したとされる)の物部宇麻呂」との同一人性について説明します。
 記紀では、蘇我馬子(551年生~628年歿)の父は蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明(キンメイ)ですが、この通説は第29代欽明(キンメイ)の高句麗王の即位と追放や、淵蓋蘇文の高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=物部(蘇我)蝦夷]の殺害、等を説明できません。
 先代旧事本紀は、物部宇麻呂/宇麻乃/馬古は、父が物部13世代物部目、子が石上氏麻呂とし、第36代孝徳天皇の時に朝廷を護衛する衛部に所属し、649年から664年まで用いられた上から七番目の冠位「大華上」にあったとしています。日本書記には、「大華上」はありません。これを物部宇麻呂/宇麻乃/馬古は、蘇我馬子(551年生~628年歿)とは別人の説の根拠としています。先代旧事本紀は、物部弓削倭古=蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明(キンメイ)を物部宇麻呂/宇麻乃/馬古の祖父としていますが、事実は、物部弓削倭古=蘇我稲目は物部宇麻呂/宇麻乃/馬古の義父であり、母方祖父です。

物部宗本家宗主『大連』の継嗣がいない不安定になった時期が、物部弓削守屋や物部宇麻呂/宇麻乃/馬古の時代です。
 物部宗本家第12代物部布都久留(フツクル)(20安康の時代)、物部宗本家第13代物部木蓮子(イタビ)、物部宗本家第14代物部麻佐良(マサラ)(27安閑、29欽明の時代)、物部宗本家第15代物部麁鹿火(アラカビ)(536年歿)(27安閑の時代)と続いた後継嗣がいなくて、枝流の14世代物部尾輿(オコシ)[物部宗本家第11代伊筥弗(イコフツ)の曽孫](第29代欽明の時代)が継ぎました。物部尾輿(オコシ)は、大伴金村を政界から引退させた実力者です。
 14世代『大連』物部尾輿(オコシ)の子には、継嗣の15世代物部弓削守屋(587年歿)(31用明の時代)と弟の15世代物部石上贄古(ニエコ)(33推古の時代)がいましたが、まだ幼少のため、姻族傍系の「DNA匈奴金氏」である物部御狩/大市御狩(506年生~570年歿)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=蘇我稲目=第29代欽明]を暫定的な繋ぎの『大連』にしました。
 545年、14世代物部尾輿(オコシ)と大伴金村は、39歳の『大連』物部御狩/大市御狩[=蘇我稲目=第29代欽明]を、新羅・尾張氏系の高句麗第23代安原(アンゲン)王/安岡上好王(在位:531~545年)[=新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)=第28代宣化(センゲ)]を退位させて、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)に擁立しました。
 551年、14世代『大連』物部尾輿(オコシ)の祖父である12世代物部目(メ)A)[物部宗本家第11代伊筥弗(イコフツ)の子]の晩年の子に物部宇麻呂/宇麻乃/馬古[=蘇我馬子]が生まれます。物部宇麻呂/宇麻乃/馬古[=蘇我馬子]は、実世代は14世代ですが、15世代『大連』物部弓削守屋より年下です。先代旧事本紀は、これを隠すために13世代物部目(メ)Aと同一人の14世代物部目(メ)Bを創作し、物部宇麻呂/宇麻乃/馬古[=蘇我馬子]と物部弓削守屋を同世代としました。
 物部弓削守屋が成人になって、物部御狩/大市御狩[=蘇我稲目=第29代欽明]の『大連』を継ぎます。
 物部弓削守屋にとって、物部宇麻呂[=蘇我馬子]は自分の『大連』の地位を危うくする存在です。

559年、物部弓削守屋は、朝鮮半島での新羅・尾張氏の興隆に対処するためもあって、4歳の物部宇麻呂[=蘇我馬子(551年生~628年歿)]を倭国から呼び寄せて百済に待機させ、そして、8歳の物部宇麻呂を高句麗第25代平原王(在位:559~590年)に擁立します。高句麗第25代平原王は、物部弓削守屋の傀儡と言えます。
 物部弓削守屋は、物部氏が高句麗の表の支配者になる野望をもったのか、物部宇麻呂[=蘇我馬子(551年生~628年歿)]を倭国物部氏中枢から排除することが目的だったのかは不詳ですが、後者の要因の方が大きかったと思われます。これは、満州建国や日韓併合と場合と似ています。いずれも、大局的、長期的シナリオ無しの場当たり対応です。
 
587年、15世代物部弓削守屋は、血縁上の誤解により高句麗第25代平原王=蘇我馬子により殺されました。物部弓削守屋の弟の15世代『大連』物部石上贄古(ニエコ)(33推古の時代)が継ぎます。
 15世代『大連』物部弓削守屋の子には、母が布都(フツ)姫(=御井夫人)[=額田部皇女]の物部氏16世代・朴井 (物部)雄君、那加世の二人がいます。15世代『大連』物部石上贄古(ニエコ)の子には、母を未詳[推測:宝皇女(593年生~661年歿)、あるいは、間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)]とする物部氏16世代・石上氏麻呂(539年生)がいます。
 額田部皇女(554年生~628年歿)は、物部弓削守屋より年の近い物部宇麻呂[=蘇我馬子(551年生~628年歿)]の妻の方を優先します。  

先代旧事本紀の「物部馬古」と記紀の「蘇我馬子」は別人として多くの人が片付けていますが、同時代人であること、同じ音韻や似た家族環境より「物部馬古」=「蘇我馬子」と考えるのが自然です。「蘇我馬子」の同母妹とされている「額田部皇女」は、「物部太(フツ)媛」という別名をもっています。「蘇我馬子」の父(先代旧事本紀では祖父)の「蘇我稲目」も「物部大市御狩」という別名をもっています。先代旧事本紀では、「物部馬古/宇麻子」と「物部豊媛」とは兄弟と記載されています。しかし、DNAから見ると、蘇我馬子=第31代用明は「DNA呉系倭人混血縄文人」・Y-DNA「D1a2系」、蘇我稲目=第29代欽明は「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」であり、実の親子ではありません。

蘇我稲目は、物部氏の姻戚になることによって、軍事管掌していた物部氏の権勢をバックにすることができました。記紀は、物部蘇我宗本家を滅ぼした不都合を隠す為に、物部蘇我馬子の別名の物部氏も記録に残ることになりました。
 先代旧事本紀の豐(トヨ)媛、石上氏宮古(ミヤコ)郎女、物部朴井(エイノ) 雄君(オキミ)の系譜です。

*豐(トヨ)媛【先代旧事本紀】
 ・父:物部 目(メ)B【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
 ・母:石上氏宮古(ミヤコ)郎女(先代旧事本紀)
 ・伴侶A:物部朴井(エイノ) 雄君(オキミ)【先代旧事本紀】
 ・子(父:物部朴井雄君):物部忍勝(オシカツ)【先代旧事本紀 】
 ・子(父:物部朴井雄君):物部金弓(カナユミ)【先代旧事本紀 】
 
*石上氏宮古(ミヤコ)郎女
 ・父:物部 贄子(ニエコ)【先代旧事本紀】
 ・母:未詳
 ・配偶者:物部大市御狩[蘇我稲目=第29代欽明=高句麗第24代陽原王]
 ・子:物部大人(ウシ)、物部目B
 
*物部朴井(エイノ) 雄君(オキミ)
 ・父:物部守屋
 ・母:不詳(豐媛)
 *672年の壬申の乱で大海人皇子(=第40代天武)に従って活躍した。
 
次に、高句麗王がいきなりサ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)に就くのは飛躍がありすぎるようにみえますが、流れがあります。
 物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)の母である蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃誕生)=新羅・阿陽公主=弓削阿佐姫は、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻です。ホスロー1世は、物部(蘇我)馬子の実父ではありませんが、義父であり、物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)がホスロー二世(在位:590~628年)は就くことはあり得ます。
 そして、直接証拠として、法隆寺夢殿の救世(グゼ)観音の法冠等のサ-サ-ン朝ペルシア帝国のものが我が国に現存しています。小林恵子等が明察したように、救世(グゼ)観音の法冠は、サ-サ-ン朝ペルシア帝国ホスロー二世(在位:590~628年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]が使用し、達頭と同一人であるサ-サ-ン朝ペルシア帝国第17代皇帝シャフルバラーズ(在位:629年4月27日~629年6月17日)[=西突厥の第2代西面可汗達頭可汗(カガン)阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)(在位:576~603年)]が受け継いで使用したものです。救世(グゼ)観音の法冠は、達頭(553年頃生~630年歿)と宝皇女(593年生~661年歿)=百済王妃・宝公主[=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)=新羅・涓花夫人=第35代皇極B宝皇女=重祚第37代斉明B宝皇女]との子の間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=中宮皇后に蘇我馬子、達頭の遺品が届けられ、中宮寺に隣接した夢殿に安置されている由縁です。
 
不明朗なところがあるサーサーン朝ペルシア帝国の皇統譜は、570年頃に生まれたホスロー2世(在位:590~628年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]は、ホルミズド4世(在位:579年-590年)の息子、ホスロー1世(在位:531年-579年)の孫です。母はグルガーン(英語版)のアスパーフバド家(英語版)の出身です。ホスロー2世が初めて記録に登場するのは580年代、カフカス・アルバニアの首都パルタウ(英語版)に彼がいた時です。彼はその地でカフカス・アルバニア王国の総督を務めていました。更に、ホスロー2世はこの頃アルベラの総督も務めていました。
 サーサーン朝ペルシア帝国の皇統譜によれば、ホスロー2世は、三度結婚しています。最初の結婚はビザンツ帝国皇帝マウリキウスの娘マリア(英語版)[=推測:額田部皇女]であり、彼女はカワード2世を産みました。次はゴルディヤ(Gordiya)であり、彼女はJavanshirを産みました。最後はアラム人もしくはアルメニア人の皇女シーリーン(英語版)であり、彼女はマルダーンシャーを産みました。
 トルコ国、キルギス国、ウクライナ国の現在も伝えられている伝承の「自分たちと日本人は同じルーツを持つ東と西に分かれた“兄弟”だ」は、誰を指すのでしょうか。

以上のように、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明=(捏造王)百済第28代恵王(在位:598~599年)]は、架空の話ではなく、サーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)に比定されます。
 夢殿の救世観音に聖徳太子の伝説が付加され、開扉できない秘仏とされたことは、救世観音は達頭の写しでないことを示しているかもしれません。

倭国は、縄文時代以来現在まで続いている「DNA縄文人」である父系制の政事統括者『大連』と「母系DNA呉越系倭人」である母系制の非政事統括者『大后』との同位共同統治という稀有な統治体制でありました。朝鮮半島から渡来した「母系DNA呉越系倭人」である倭国『大后』は、四韓の扶余族盟主の王権の人的象徴であったため、倭国と四韓の王妃族は連枝しており、特に、新羅の王妃族とは同体家族でした。「DNA縄文人」である倭国政事統括者は、朝鮮半島に伴侶が滞在している時も親衛軍をもって王妃と四韓王を共に護衛していました。結果的に、朝鮮半島の四韓は倭国との二重の政事体制となり、実権は倭国政事統括者にありました。
 しかし、倭国政事統括者は、実権を掌握しても四韓のすべて、あるいは一部を倭国に併合することはありませんでした。これは、倭国と四韓とは国体が違い、倭国『大后』自らは、倭国と朝鮮半島の二拠点体制を基本方針としていたからです。「DNA縄文人」である倭国部族同盟盟主が四韓の事実上の覇権者であるということから言えば、四韓の物部(蘇我)朝ないし尾張氏朝が樹立しなかった方が不思議です。
 ところが、「DNA縄文人」である倭国部族同盟盟主は、倭国に併合しませんでしたが、短期で滅亡した高句麗物部朝を現実化していました。

(2)559年の「DNA縄文人」である高句麗物部(蘇我)朝の初樹立と物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)

 「DNA呉系倭人混血縄文人」である蘇我馬子(551年生~628年歿)は、物部宗本家14世代あるいは15世代物部宇麻呂と同一人に比定され、母が蘇我稲目=第29代欽明の娘のペルシアから帰国した時の蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃誕生)=新羅・阿陽公主=弓削阿佐姫、実父が「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部氏14世代・『大連』物部目B(第26代継体時代)=物部氏13世代・『大連』物部目A(第22代清寧時代)で、4歳まで倭国で育ちました。
 通説では、蘇我馬子(551年生~628年歿)は、父が「DNA匈奴金氏」である第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)、母が蘇我堅塩(キタシ)媛としています。これは、8歳の物部宇麻呂を「DNA匈奴金氏」である高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明を親として継承させる口実でした。悲劇のハプニングを起こす原因となりました。母の蘇我堅塩(キタシ)媛の父は蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明であり、伴侶ですので、系譜上は義父となり、「父」という記載は全く出鱈目ではないことになります。
 
532年(欽明は26歳)、「DNA匈奴金氏」である新羅第23代金氏法興王 (在位:514〜531年)=尾張連草香は、独立の支配権をもった新羅檐魯(タムロ、注:王族統治の分国の意)の金官加羅国を併合しました。以後、金官加羅地域は新羅の一地域となり、国王と妃は存在しなくなります。
 
551年、サーサーン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻になっていた蘇我稲目=第31代欽明の娘の蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃誕生)=弓削阿佐姫=新羅・阿陽公主が、高句麗に帰国しました。この時、母が尾張目子媛である蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃誕生)=弓削阿佐姫=新羅・阿陽公主、母が手白香皇女=新羅・朴氏思道夫人である石上氏蘇我小姉君=弓削加波流(カハル)姫=新羅・太陽公主、蘇我小姉君と同一人と比定される穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女=新羅・金珍娘主は、揃ってサーサーン朝ペルシア帝国から帰国したようです。
 
552年(欽明は46歳)、西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(=第26代継体)の子(兄)の伊利(イリ)可汗(在位:552~?年)は柔然から独立すると、シル川方面に異母弟の室點蜜[=西突厥のシルジブロス/室點密可汗(シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=蘇我稲目(506年生~570年歿)=第29代欽明(キンメイ)]を配置し、西方の守備と攻略を任せました。
 
556年(馬子は4歳、欽明は50歳)、新羅と新羅・尾張氏の伽耶の興隆に危機をもった『大連』物部入鹿は、4歳の「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部(蘇我)馬子(551年生)=物部宗本家14代・物部宇麻呂を倭国から呼び寄せ、一端百済に待機させました。幼少の聖徳太子像は、実際には物部(蘇我)馬子と思われます。
 559年(馬子は8歳、欽明は53歳)、『大連』物部守屋は、「DNA匈奴金氏」である高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=蘇我稲目=第29代欽明]を追放して、倭国から呼び寄せた8歳の物部氏14あるいは15世代・物部宇麻呂を高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明=(捏造王)百済第28代恵王(在位:598~599年)]に擁立し、高句麗物部朝を始めて樹立しました。

562年(馬子は11歳、欽明は56歳)、「DNA匈奴金氏」である新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)[=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=第28代宣化(センゲ)]は、独立支配権をもった新羅王族分国の高霊(コリョン)伽耶国(一名:大伽耶国)を併合し、また、同年倭国政事統括者の物部氏が支配する倭国分国の日本府任那を滅ぼしました。これによって、朝鮮半島南東部はすべて新羅国となりました。物部氏は、朝鮮半島の出先拠点を失いました。
 日本書紀は、雄略天皇21年(477年)3月に第21代雄略が久麻那利(コムナリ、熊津を指す)を百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)[=第21代雄略]に下賜して国の復興をさせた、と記しています。

587年丁未(テイビ/ヒノトヒツジ)(馬子は36歳、達頭は34歳位)、物部(蘇我)蝦夷の誕生祝いで高句麗に訪れた『大連』物部守屋は、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明]により血統上の誤解によるハプニングで殺害されました。

590年(馬子は39歳)、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=第31代用明=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]は、自責をとって義父の蘇我稲目[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=第29代欽明]を追ってペルシアに移住し、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)に就きました。「DNA匈奴金氏」である金官加羅系は、歴史的に中央アジアの柔然、突厥と深い関係がありました。
 
三国史記は、これを隠すために、物部(蘇我)馬子を2年間の百済第28代恵王(在位:598~599年)に、達頭を百済第29代法王(在位:599~600年)に捏造しました。
 父が蘇我稲目=第29代欽明である達頭は、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=第31代用明=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]の信義に感動し、生涯を物部(蘇我)馬子に尽くします。
 
628年(馬子は77歳歿、達頭は75歳位)、サーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子は、投獄していた子のカワード2世(在位:628年)によって処刑されました。処刑理由は未詳ですが、父が母・額田部皇女[=推測:王妃・マリア]を追放したと思ったことが考えられます。
 ホスロー二世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子と額田部皇女(推測:王妃マリア)の歿年は同じです。
 記紀は、626年に百済第28代恵王(在位:598~599年)[=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=物部(蘇我)馬子=第31代用明]は、蘇我稲目の子の境部摩理勢(サカイベマリセ)連合のクーデターにより唐・新羅勢力に殺されたと改ざんしています。
 
蘇我馬子の妻の額田部皇女(554年生~628年歿)は、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=第31代用明=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]とサーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)[=物部(蘇我)馬子]の王妃として同行しています。額田部皇女は15歳頃に入婚し、593年(39歳)までの約24年間同行しています。
 蘇我馬子の陵とされている奈良県明日香村の蘇我馬子とされている石舞台古墳は、額田部皇女の陵かもしれません。

(3)物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)と子・入鹿(イルカ)(645年歿)

 586年頃(蝦夷誕生)、物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)=高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)=第35代皇極(コウギョク)A蝦夷は、父が高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明]、母が額田部皇女です。高句麗王妃・宝皇女との子は、物部(蘇我)入鹿です。
 
590年(蝦夷は4歳、舒明は13歳頃)、「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明]の継嗣の物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)が弱小のため、繫ぎとして達頭と額田部皇女の高句麗での子の「DNA匈奴金氏」である金舒玄(577年頃生~641年歿)が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明]に擁立されました、
 600年(蝦夷は14歳頃、舒明は23歳頃)、物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)が成人になったので高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明]に高句麗王退位の条件として百済第30代武王(在位:600~641年)が物部氏により用意されました。しかし、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明]は、高句麗王を退位しようとしませんでした。

618年(馬子は67歳、蝦夷は34歳頃、舒明は41歳頃)、物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)は、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=金舒玄=第34代舒明]を追放して、高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)[=第35代皇極(コウギョク)A蝦夷]に就きました。金舒玄(577年頃生~641年歿)=第34代舒明は、金官加羅の第二本拠地である中央アジアに永住移動します。
 
623年(天武が誕生)、宝皇女(593年生~661年歿)と高句麗・高向玄理(父が第34代舒明、母が額田部皇女)との間に、淵蓋蘇文[=第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文=重祚第40代天武]が高句麗で生まれます。

627年、新羅・宝公主[=宝皇女(593年生)]と廃位になった新羅第25代真智王(在位:576~579年)の異父弟の金仇輪との子の新羅波珍飡(4等官)金善品[=第38代天智]が、新羅[多分、伽耶の火自振(ヒジフル)]で生まれます。その後、金善品は、母の宝皇女と共に百済に行き、百済第30代武王(在位:600~641年)[=高句麗26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=第34代舒明]の養子となり、百済・翹岐(ギョウキ)王子を名乗ります。
 新羅波珍飡(4等官)金善品と宝公主[=宝皇女(593年生)]の子の藤原不比等は「DNA源流鮮卑族和邇氏」であるので、第38代天智も伽耶出自とする「DNA源流鮮卑族和邇氏」となります。伽耶の火自振(ヒジフル)が、「藤原」の語源です。
 
628年(馬子は77歳、達頭は75歳位)、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子]は、息子のカワード2世(在位:628年)によって処刑されました。カワード2世は、590年生まれで、母はマリア[=(推測)額田部皇女]です。
 628年、カワード2世(在位:628年)の子のサーサーン朝皇帝アルダシール3世 (在位:628年9月6日~630年4月27日) (621年生まれ~ 630年4月27日歿) が就きました。
 
630年(達頭は77歳位)、達頭(=上宮法王=聖徳太子)は、皇位を剥奪してサ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝シャフルバラーズ在位:630年4月27日~630年6月9日死去)に就きますが、すぐにサーサーン朝の貴族によって殺害されました。
 
632年、達頭=上宮法王=聖徳太子の継嗣の山背皇子が、サ-サ-ン朝ペルシア帝国(末王)ヤズドガルド3世(在位:632~651年)に就きます。山背皇子の母は、(二代目)蘇我刀自古(トジコ)郎女=物部鎌足姫大刀自=宝皇女(593年生~661年歿)です。
 記紀では、643年に聖徳太子の継嗣の山背皇子一族は、物部(蘇我)入鹿に斑鳩(イカルガ)宮を襲われ、斑鳩寺(法隆寺)において一族皆自害したと常套手法で改竄しています。当時は通い婚であり、斑鳩(イカルガ)宮は、宝皇女、娘の間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=中宮皇后の大和の本拠地です。
 
642年(蝦夷は56歳頃歿、淵蓋蘇文は19歳)、「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]が「DNA匈奴金氏」である高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)[=第37代斉明A=重祚第40代天武]により暗殺されました。
 642年に高句麗は事実上滅亡しました。高句麗(末代)第28代宝蔵王(在位:642~668年)は、唐が架空王とし、また、倭王『大王』の付帯称号をもたないことからもわかるように、淵蓋蘇文が演出した架空王です。
 記紀は、物部(蘇我)蝦夷を645年に倭国で戦わないで翌日自死したと改ざんし、殺害者を淵蓋蘇文から中大兄皇子の責に変えています。物部(蘇我)蝦夷は倭国、三韓の覇者であり、戦わずして自死するなどありえません。

645年乙巳(イッシ)(中大兄皇子は18歳、淵蓋蘇文は22歳)、中大兄皇子[=第38代天智]、中臣鎌足等が高句麗太子・物部(蘇我)入鹿を倭国で暗殺し、物部(蘇我)宗家が終焉します。
「馬子」とは、中央アジア、ペルシアの覇者の騎馬族に相応しい名です。
「蝦夷」とは、「DNA縄文人」を指す象徴名です。
「入鹿」とは、倭国から朝鮮半島へ渡ったことを示す名です。
 物部(蘇我)氏は、物部氏の中でも、倭国と高句麗を支配した初で最後の王です。

(4)石上氏麻呂(639年生~717年歿)

 645年乙巳(イッシ)直後に(石上氏麻呂6歳頃)、母系(推測:母あるいは祖母・宝皇女)により母系氏族名の石上氏麻呂(639年生~717年歿)が『大連」物部氏を再興します。
 
石上氏麻呂(639年生)の母は、物部家16世代相当(三代目)石上氏宮古郎女= (二代目)物部鎌姫大刀自(カマヒメオオトジ)で、宝皇女(593年生~661年歿)か間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=中宮皇后に比定されます。父は物部氏15世代・『大連』物部石上贄古(ニエコ)か子に比定されます。
 石上氏麻呂の父は物部氏15世代・蘇我馬子の伝承がありますが、年代からみて、蘇我馬子は祖父です。石上氏麻呂は、物部氏15世代・蘇我入鹿と同世代か、蘇我入鹿の子の世代です。蘇我入鹿の子は存在していましたが、第40代天武、第38代天智の後裔にとっては、祖が物部(蘇我)宗本家を滅亡させたので、「蘇我入鹿」は表に出したくありません。
 
物部(蘇我)宗本家の血統は、終焉後少なくとも母系を通して藤原氏に流れます。
 藤原不比等の先室は蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)生没年未詳)で、長男・藤原武智麻呂、次男・藤原房前、三男・藤原宇合、五百重娘(子:藤原麻呂)です。蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)の父は蘇我連子、母は未詳とされています。蘇我連子(ムラジコ)は、蘇我倉麻呂/蘇我雄正の五男です。蘇我倉麻呂は、蘇我馬子の子です。つまり、蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)は、曾祖父が蘇我馬子、伯祖父が蘇我蝦夷です。
 
石上氏麻呂が幼少のため、淵蓋蘇文[=第37代斉明A=第40代天武]や新羅波珍飡(4等官)金善品[=百済・翹岐(ギョウキ)王子=第38代天智]や新羅・尾張氏が覇権を握ります。

「DNA縄文人」が倭国統括者に本格的に回帰するのは、第50代桓武天皇[=石上氏七代・従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)=(推測)山部親王(母は高野新笠)]からです。和邇氏、秦氏のバックアップがありました。
 平安時代には「DNA源流鮮卑族和邇氏」である藤原氏が政事実権を握っており、「DNA縄文人」である天皇の直祖に関係があることは婉曲的暗示的表現をしています。
 
 石上氏四代・物部宗本家17代『大連』石上氏麻呂の系譜です。
①石上氏四代・物部宗本家17代『大連』石上氏麻呂(639年生~717年歿)
・父母未詳。
・(推測)父:『大連』物部石上贄古(ニエコ)の物部氏16世代・子。
・(推測)祖父:物部氏15世代『大連』物部石上贄古(ニエコ)の子。
・(推測)祖父:物部氏15世代『大連』物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)。
・(推測)母:物部氏16世代相当・宝皇女(593年生~661年歿)、あるいは、物部氏17世代相当・間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=中宮皇后。
  =(三代目)石上氏宮古郎女=(二代目)物部鎌姫大刀
・子:従四位上・豊庭、従三位中納言・乙麻呂(三男)、東人、国盛(長女、三男藤原宇合の正妻)。

石上氏五代:中納言・石上乙麻呂(750年歿)
・父:石上氏麻呂。
・母:未詳。
・妻:久米若売。
・子:宅嗣、息嗣
*739年、石上乙麻呂は参議に登用させないための策謀(故藤原宇合の妻で女官であった久米若売との姦通の罪)により土佐国へ、若売は下総国に流罪されます。石上乙麻呂は、恩赦され、天平15年(743年)に従四位上に叙せられます。後の西海道巡察使・常陸守・治部卿・右大弁・中務卿などを経て、天平20年(748年)に従三位参議に叙任され公卿に列します。久米 若女は、740年に大赦によって京都に召し返され、従五位、累進して従四位下となりました。

③石上氏六代:正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)
・父:石上乙麻呂。
・母:未詳[推測:故藤原宇合の妻で女官であった久米若売]。
・妻:未詳[推測:高野新笠]
・子:未詳[推測:石上継足]。
*道鏡政権時代、第49代光仁を擁立。
 
④石上氏七代:従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)
(推測)山部親王(母は高野新笠)
=第50代桓武天皇(在位:781~806年)
・父:未詳(推測:石上宅嗣)。
・母:高野新笠。
 
第50代桓武の祖血統は、即位にあたって不明朗な出来事があり、国史では父母共に不詳とされています。
 第41代持統B鸕野讚良(ウノサララ)皇女(在位:690~697年)以来、氏族譜を消滅させ、第50代桓武の時にほぼ天皇も含め氏族譜が消滅しました。現在の天皇の「DNA種族」は「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a1b2a1a1a(IMS-JST022457)」と変わっていませんが、第50代桓武の時に尾張氏、大伴氏、物部氏の系統が変わっていることはあり得ます。

「DNA縄文人」である天皇の賜姓皇族が、第50代桓武の孫の桓武平氏から次々と誕生します。平安時代末期は桓武平氏の平氏、鎌倉時代は八幡太郎義家の源氏、桓武平氏の北条氏、室町時代は八幡太郎義家の足利氏の賜姓皇族の武家政権が誕生します。桃山時代の豊臣氏は、Y-DNA「C1a1(M8)」とする説があります。徳川将軍は、八幡太郎義家の源氏系で、Y-DNA「 D1b1a2b1a1(Z1504, CTS8093)」とする説があります。「DNA縄文人」は、倭国時代から殺戮を好みませんでしたが、軍事力には力を注いでいます。明治時代以降も天皇は縄文人系Y-DNA「D1a2系」と変わらりません。
 現在、藤原氏の上級摂家は、「DNA縄文人」とする天皇の賜姓皇族の後裔のY-DNA[D1a2系」に変わっていきます。第107代後陽成天皇(在位:1571年~1617年)の男系12世子孫の近衞文麿、伏見宮家です。

平安朝の統治体制は、天上の非政事統括者の「DNA縄文人」である天皇と、地上の政事統括者の「DNA原始鮮卑族和邇氏」である藤原氏です。平安朝は、父系制『天皇』と母系制『大后』の同位共同統治体制が、非政事統括者の父系制『天皇』と政事統括者の父系制藤原氏という男系のみの統治体制に「DNA鮮卑族」が変えた王朝です。
 つまり、日本の文化は倭国の時代だけでなく、平安時代も含めたルーツの解析が必要です。この時の混乱が現在まで尾を引いています。

(5)「蘇我氏」の氏族名の由縁に関する考察

 蘇我氏の別名を持っているのは、
・蘇我稲目(506年生~576年歿)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562年~576年)。
・蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃に誕生)=新羅・阿陽公主。
・蘇我小姉君=新羅・金珍娘主。
・蘇我馬子(551年生~626年歿)=サ-サ-ン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)。
・蘇我蝦夷(586年頃生~642年歿)。
・蘇我入鹿(645年歿)。
・蘇我刀自古(トジコ)郎女(蘇我馬子の時代の名で、子が山背大兄王)=額田部皇女[サ-サ-ン朝ペルシアのホスロー二世(在位:590~628年)の王妃、西突厥のシルジブロスの妹娘]。
・(二代目)蘇我刀自古(トジコ)郎女[蘇我馬子の娘]=宝皇女(593年生~661年歿)。
・蘇我姪娘(メイノイラツメ)[蘇我刀自古(トジコ)郎女の娘、第34代舒明の娘]=(推測)額田王。
 
「ペルシア」の意である「間人(゙ハシヒト)」の別名を持っているのは、
・穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女=新羅・太陽公主。
・穴穂部間人王子=サ-サ-ン朝ペルシア帝国・シャフリバザール将軍
 =達頭
 =サ-サ-ン朝ペルシア帝国第17代皇帝シャフルバラーズ(在位:629年4月27日~629年6月17日)
 =西突厥の阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)。
・間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)[第36代孝徳の『大后』]=(推測)蘇我遠智娘(生年不詳~665年歿)(オチノイラツメ)
 =中宮皇后=百済王妃・木恩古(モクウンゴ)[百済第31代義慈王の王妃]。
 
 「蘇我」や「間人(゙ハシヒト)」は、中央アジア、ペルシアに由縁があることが考えられます。

(6)「DNA弥生人混血縄文人」尾張氏を統一新羅・朝鮮半島から排斥

 「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏と「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏は、軍事を握った政事統括者で、高句麗王、百済王、新羅王の親衛軍を管掌しており、この軍事力は数1000人レベルと予想される常住軍隊でした。

高句麗、百済の物部氏の軍隊は、百済国滅亡時に倭国に引き上げました。しかし、新羅の尾張氏の軍隊は、統一新羅の樹立に寄与し、継住していました。
 しかし、統一新羅時代が進むと、統一新羅の王族は「DNA匈奴金氏」に純化し、外戚から「DNA縄文人」を排斥したのではないでしょうか。統一新羅から排斥された尾張氏は、暫くして倭国に回帰していきます。
 
百済(660年滅亡)、高句麗(642/668年滅亡)の滅亡後の三韓からの帰化人の倭国歴史です。背景に、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である藤原氏の倭国政事統括者の新興勢力を考える必要があります。つまり、物部氏や尾張氏は倭国中心から遠ざけられていきます。今後の詳細な検討を要します。
・669年、近江国蒲生郡に百済人700余人を移します。滋賀県日野町から東近江市にかけて百済人が配され、滋賀県東近江市百済寺町には「百済(ヒャクサイ)寺」があります。
 百済人700余人の主は、王族関係者、「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏で、これらは残留者の大半とみられます。ヤマトから離れた畿内に居住地を得ました。
・676年、新羅が半島を統一しました。
・684年、百済人23人を武蔵国に移す。
 百済人23人は、「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏でしょうか、尾張氏の監督者でしょうか。
・687年、高句麗人56人を常陸国、新羅人14人を下毛野(ケヌ)国(現在の群馬県全域と栃木県南部)に置きます。
 高句麗人56人、新羅人14人は「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏、統一新羅の配下から排斥された尾張氏でしょうか。この頃から、統一新羅・朝鮮半島からの「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏の排斥が始まったのでしょうか。
・689年、新羅人を武蔵国、下毛野(ケヌ)国に置く。
 新羅人とは新羅に住んでいた「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏で、統一新羅から排斥されたのでしょうか。
・703年(大宝3年)、高句麗の王族と推測される高麗若光が王(コニキシ)のカバネを与えられます。武蔵国高麗郡(埼玉県日高市)の高麗神社の宮司は若光の子孫を称しており、現在の宮司は若光から数えて60代目とされます。若光系の高麗氏としては、この家系が知られているのみです。高麗神社には若光を祖とする「高麗氏系図」が伝来しています。
・711年、上野国に多胡郡を設置する。
・715年、新羅人を移し、美濃国席田郡を設置する。岐阜県本巣市席田(むしろだ)として、地名に残っています。
・716年、高句麗人1779人を、東国の七国に置きます。
 高句麗人とは、百済人、新羅人も含めた朝鮮半島から排斥された「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏の総数ではないでしょうか?三韓の「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏の上級層は、家族も含めて1800人レベルでしょうかの
・716年、武蔵国高麗郡を設置する。埼玉県日高市から飯能市南高麗あたりが「武蔵国高麗郡」でした。日高市には「高麗山聖天院」と「高麗神社」、JR[高麗川駅」、西武線「高麗駅」があります。東京都狛江(コマエ)市には、高句麗系とみられる「亀塚古墳」があります。神奈川県大磯町高麗は花水川の右岸にあり、付近には「高来神社」があります。また、相模一ノ宮寒川神社のある「高座(こうざ・たかくら)郡」は高句麗系渡来人によって開拓された地です。山梨県巨摩(こま)郡や東京都狛江(コマエ)市も高句麗系にゆかりの地名です。狛江市には多摩川左岸に駒井(コマイ)町があり、「こまえ」から派生した地名と思われます。
・750年(天平勝宝2年)、高句麗第19代広開土王の5代孫の背奈福徳後裔の福信ら一族が朝臣の姓(カバネ)を与えられます。当時、渡来人系氏族に朝臣を与えるのは異例でした。なお、後に福信は氏を高倉と改めます。同族に高句麗第22代安臧王の3代孫から発祥した狛氏がいます。
・758年、新羅人74人を武蔵国に移し、新羅郡を設置します。埼玉県新座市・和光市・朝霞市・志木市周辺がこの「新羅郡」とされています。「新羅郡」は後に「新座(しらぎ)郡」と表記され、新座の字面からやがて「にいざぐん」と言うようになりました。
・760年、新羅人131人を武蔵国に移す。
 
 668年の唐・新羅連合軍との戦いで高句麗が滅亡した後、王族を含む多数の高句麗人が日本に亡命しています。
 676年、新羅が三韓統一した後の684年以降の高句麗人(1835人)、百済人(23人)、新羅人(219人)の日本内への移動者全員を統一新羅から排斥された尾張氏と物部氏の総数を見積もると、家族を含めて2077人、内尾張氏が約1800人となります。
 物部氏系が大和に近い琵琶湖沿岸に対し、尾張氏系は離れた東国です。
尾張氏排斥が統一新羅初期の687年頃から始まったと推測され、倭国にほとんど帰還していれば、現在の韓国人の「DNA呉系倭人混血縄文人」の割合は微小となります。
 Y染色体ハプログループの分布 (東アジア)[出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、2021.2]を基に計算すると、現在の韓国人のY-DNA「D」は2.2%程度です。韓国の現在人口を約5,178万人(出典:2019年、韓国統計庁)、韓国の「DNA弥生人混血縄文人」を2%とすると、現在の「DNA弥生人混血縄文人」男性は約50万人レベルとなります。伴侶、親戚等により統一新羅に居ついた「DNA弥生人混血縄文人」は増加していますから、だいたい合理的な数字レベルではないでしょうか。

表11. 朝鮮半島・韓国の朝鮮民族の「DNA縄文人」・Y-DNA「D系」

(7) 追補「3-1-2章」:九州の旧石器人や縄文人を死滅させた巨大カルデラ噴火

 縄文時代の二つの巨大噴火によるその後の縄文人の東北地域への偏在の根拠と縄文人に関する従来の通説を翻す数々の新事実の概要を紹介します。
 
地下のマグマが一気に地上に噴出する壊滅的な噴火形式を表す「破局的噴火」は、約1万年に1度は起こると地質学的にみられています。
 氷河期の終わりの約 2 万9,000 年前に大噴火した「姶良(アイラ)カルデラの噴火」は、桜島を北端とする鹿児島湾の南半分の巨大な噴火口で、通称「姶良(アイラ)カルデラ」と呼ばれています。戦時下の1943年、九州帝大教授地質学者・松本唯一(1892年生~1984年歿)が発見しました。
 火砕流圏外の南九州でも火山灰が3mの厚さで堆積しており、高知県宿毛市で 2m、鳥取県大山付近で80cm、京都市で40cm、東京で1 cm、東北南部にまで飛散しています。
 徳之島ではシラス(火山灰)地層の下に旧石器時代の遺物が発掘されており、九州や中国地方の旧石器時代人は絶滅したと思われています。
 
次に、約7300年前(紀元前5330年)に、鹿児島市南100kmの薩摩硫黄島で、過去1万年内では世界最大規模の「鬼界カルデラ大噴火」が起こりました。九州帝大教授地質学者・松本唯一は、鬼界ヶ島にちなんで鬼界火山と命名し、1943年に「鬼界カルデラ」として学会に提唱しました。1976年には「アカホヤ」と呼ばれていた地層がこのカルデラを起源としていることが確認されました。2016年から2017年にかけて行われた海底調査の結果、直径約10 km、高さ約600 m、体積約30 km3にもなる巨大な溶岩ドームが確認され、現在も活発な噴火活動が続いていることが判明しました。火山灰は、九州南部において30cm以上の厚さ、琵琶湖では3~5cmの厚さ、東北地方の一部、韓国南部にまで飛んでいます。
 縄文時代早期の日本列島では、他の地域に比べ南九州で成熟した縄文文化が発達していました。本州ではまだ屋外で地面に穴をあけてそこに立てるように置いて使われていた先の尖った尖底土器を使っていたのに対し、南九州では平底型の土器が既に使われていました。平底土器は、住居の中での調理や貯蔵にも使うことができ、縄文人のライフスタイルが「定住型」に変化した証拠だと言われています。
 「鬼界カルデラ」の大噴火は、特に、種子島、屋久島、薩摩半島南部および大隅半島南部は幸屋火砕流が直撃し、当時居住していた縄文人の生活に壊滅的大打撃を与えました。また、南九州では火山灰の影響により約600年から900年間は照葉樹林が復活しませんでした。「鬼界アカホヤ火山灰」の降灰によって、南九州の縄文人はイノシシやシカ、エビやカニなどの多くが死滅し、魚も激減し、食料を調達できなくなりました。その後、南九州の最先端文化は壊滅し、1,000年近くは無人の地となったようです。この大噴火は、九州の縄文人を日本列島の北部に移動させ、縄文大遺跡が北海道・東北地方・新潟県を中心に確認されている偏在の根拠となります。
 その後に住み着いた前期縄文時代の縄文人(Y-DNA[D1a2a系」)は、以前とはルーツ(Y-DNA「C1a1系統」)が異なり、土器の様式も以前に戻りました。
 比較的近年、「アカホヤ」の地層の下から縄文時代の大集落が発見され、舟作の工具(世界最古)や燻製施設と大量の炉、独自の貝殼紋の土器などが見出されました。「鬼界カルデラ」の大噴火は、この高度な海洋民族を思わせる縄文人を全滅させました。その後、1,000 年ほど九州は無人の地だったようです。
 
近年、縄文人に関する従来の通説を翻す数々の新事実として以下のようなことが注目されています。
・日本列島からも発生した人類(島根県砂原遺跡から11万年前の縄文人)
 島根県砂原遺跡から11万年前の縄文人が発掘されました。これから、約6万年前にアフリカを出たと。。する学説では説明できず、人類はアフリカの一ケ所から生まれたのではなく、スンダランドや日本列島などの複数から生まれたとも考えらています。
・日本列島から生まれた文字(神代文字、竹内文書)が、中国の漢字の起源。
・稲は日本列島が発祥で、中国に伝搬。
・旧石器時代に縄文人は定住を開始(平底土器)。
・旧石器時代の日本列島は世界の最先端の文明地帯(磨製石器、勾玉)。
・縄文人は海洋民族(外洋航海ができた丸木船、黒曜石・翡翠の交易)。
・朝鮮半島は12000年から7000年前の5000年間は無人。7000年前に日本列島から移動した縄文人が先ず住みつく。
<以上>