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「2-12,13. 第五部第12章 高句麗物部(蘇我)朝の初樹立」「2-13.金官加羅国庶子系の中央アジアの突厥とサーサーン朝ペルシアでの活動」:「2.第五部『DNA種族解析法』による倭国皇統の論理的事実」-「四韓の王統と連枝した倭国皇統の系譜体系の『DNA種族』による論理解析ノート」


2-12.559年の「DNA縄文人」である高句麗物部(蘇我)朝の初樹立と642年の高句麗の事実上滅亡

「DNA縄文人」である高句麗物部(蘇我)朝が樹立されていたという説は、直観的な説でも眼にしたことはありませんが、蘇我馬子(551年生~628年歿)は物部宗本家14代物部宇麻呂(先代旧事本紀)と同一人であると仮定すれば、下記に示すように歴史的流れは論理的に自然です。
ただし、物部宇麻呂/宇麻乃/馬古(先代旧事本紀)は、父は物部目、石上氏麻呂の父であるとし、第36代孝徳天皇(在位:645~654年)の時に朝廷の護衛をする衛部に所属し、大華上の位にあったとするも、蘇我馬子(551年生~628年歿)とは別人の説があります。

私見は、「DNA春秋時代呉系倭人混血縄文人」である蘇我馬子(551年生~628年歿)は物部宗本家14代物部宇麻呂と同一人で、母が堅塩(キタシ)媛=新羅・阿陽公主=弓削阿佐姫(第29代欽明=蘇我稲目の娘)、実父が「DNA春秋時代呉系倭人混血縄文人」である物部本宗家13代『大連』物部目B(第26代継体時代)=物部本宗家11代『大連』物部目A(第22代清寧時代)で、4歳まで倭国で育ちました。

通説では、蘇我馬子は、父が「DNA匈奴金氏」である第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(先代旧事本紀では蘇我稲目は祖父)、母が堅塩(キタシ)媛としています。これは、8歳の物部宇麻呂を「DNA匈奴金氏」である高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明を親として継承させる口実でした。悲劇のハプニングを起こす原因となりました。

532年(欽明は26歳)、「DNA匈奴金氏」である新羅第23代金氏法興王 (在位:514〜531年)=尾張連草香は、父・新羅第22代金氏智証麻立干(在位:500~514年)[=第26代継体=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)]の生地であった新羅檐魯(タムロ、注:王族統治の分国の意)の金官伽倻国を併合しました。新羅は、金官伽倻国を滅ぼして併合したのではありません。

556年(欽明は50歳)、新羅と新羅・尾張氏の伽耶の興隆に危機をもった『大連』物部入鹿は、4歳の「DNA春秋時代呉系倭人混血縄文人」である物部(蘇我)馬子(551年生)=物部宗本家14代・物部宇麻呂を倭国から呼び寄せ、一端百済に待機させました。幼少の聖徳太子像は、実際には物部(蘇我)馬子でないかと思えます。
559年、『大連』物部入鹿は、高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=蘇我稲目=第29代欽明]を追放して、倭国から呼び寄せた8歳の物部宇麻呂を高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明=(捏造王)百済第28代恵王(在位:598~599年)]に擁立し、高句麗物部朝を始めて樹立しました。

562年(欽明は56歳)、「DNA匈奴金氏」である新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)[=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=第28代宣化(センゲ)]は、新羅檐魯(タムロ)の高霊(コリョン)伽耶国(一名:大伽耶国)を併合しました。新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)にとっては、大伽耶(=高霊伽耶)は元々祖先の地であり、真興王も生育した地であったかもしれません。この大伽耶(=高霊伽耶)の新羅併合によって、朝鮮半島南東部はすべて新羅国となりました。
562年同年(欽明は56歳)、新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)[=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=第28代宣化]は、倭国政事統括者の物部氏が支配する倭国分国の日本府任那を滅ぼしました。物部氏は、朝鮮半島の拠点を失いました。

587年丁未(馬子は36歳、達頭は34歳位)、物部(蘇我)蝦夷の誕生祝いで訪れた『大連』物部守屋は、高句麗にて高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明]により血統上の誤解ハプニングで殺害されました。

590年(馬子は39歳)、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=第31代用明=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]は、自責をとって義父の蘇我稲目[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)=第29代欽明]を追ってペルシアに移住し、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)に就きました。
三国史記は、これを隠すために、物部(蘇我)馬子を2年間の百済第28代恵王(在位:598~599年)に、達頭を百済第29代法王(在位:599~600年)に捏造しました。父が蘇我稲目の達頭は、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=第31代用明=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]の信義に感動し、生涯を物部(蘇我)馬子に尽くします。

590年、「DNA春秋時代呉系倭人混血縄文人」である高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=第31代用明=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)]の継嗣の物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)が弱小のため、繫ぎとして達頭と額田部皇女の高句麗での子の「DNA匈奴金氏」である舒玄が高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=第34代舒明]に擁立されました、
600年(蝦夷は14歳頃)、物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)が成人になったので高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明]に高句麗王退位の条件として百済第30代武王(在位:600~641年)が用意されました。しかし、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=第34代舒明]は、高句麗王を退位しようとしませんでした。

618年(馬子は67歳、蝦夷は34歳頃)、物部(蘇我)蝦夷(エミシ)(586年頃生~642年歿)は、高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)[=百済第30代武王(在位:600~641年)=舒玄=第34代舒明]から高句麗王位を奪回して高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)[=第35代皇極(コウギョク)A蝦夷]に就きました。

642年(蝦夷は56歳頃、淵蓋蘇文は19歳)、「DNA春秋時代呉系倭人混血縄文人」である高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)=物部宗本家15代物部(蘇我)蝦夷]が「DNA匈奴金氏」である高句麗の淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)[=第37代斉明A=重祚第40代天武]により暗殺されました。
642年に高句麗は事実上滅亡しました。高句麗末代第28代宝蔵王(在位:642~668年)は、唐が架空王と知り、また、倭王『大王』の付帯称号をもたないことからもわかるように、淵蓋蘇文が演出した架空王です。
記紀は、物部(蘇我)蝦夷を645年に倭国で戦わないで翌日自死したと改ざんし、殺害者を淵蓋蘇文から中大兄皇子の責に変えています。物部(蘇我)蝦夷は倭国、三韓の覇者であり、戦わずして自死するなどありえません。

645年乙巳(イッシ)(中大兄皇子は18歳、淵蓋蘇文は22歳)、中大兄皇子[=第38代天智]、中臣鎌足等が高句麗太子・物部(蘇我)入鹿を倭国で暗殺し、高句麗物部朝が終焉し、『大連」物部氏の継承者が断絶します。

645年直後に、母系(推測:宝皇女)により『大連」物部氏を石上氏麻呂が再興します。
石上氏麻呂が幼少のため、淵蓋蘇文[=第37代斉明A=第40代天武]や新羅波珍飡(4等官)金善品[=百済・翹岐(ギョウキ)王子=第38代天智]や新羅・尾張氏が覇権を握ります。

私見では、「DNA縄文人」が倭国統括者に本格的に回帰するのは、第50代桓武天皇[=石上氏七代・従五位下・主税頭・石上継足(生没年は未詳)=(推測)山部親王(母は百済渡来人系高野新笠)からです。和邇氏、秦氏のバックアップがありました。

628年(馬子は77歳、達頭は75歳位)、サーサーン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子は、子のカワード2世(在位:628年)によって処刑されました。ホスロー二世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子と額田部皇女(推測:王妃マリア)の歿年は同じです。記紀は、626年に百済第28代恵王(在位:598~599年)[=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=物部(蘇我)馬子=第31代用明]は、境部摩理勢(サカイベマリセ)連合のクーデターにより唐・新羅勢力に殺されたと改ざんしています。

2-13.6世紀末から651年頃、金官加羅国出自系(第26代継体、第29代欽明系)の中央アジアの突厥とサーサーン朝ペルシアでの活動

新羅国王子の庶子系(第16代仁徳、第26代継体、第29代欽明系)は、金官加羅国で生育していました。新羅王子庶子系の金官加羅国出自系は、中央アジアの突厥との二拠点体制をとっていたという状況証拠が強く見出されました。庶子系が中央アジアの突厥とサーサーン朝ペルシアと連枝していたことは、小林恵子でさえ示唆しただけでしたが、下記に示すように歴史的流れが一貫してあります。

匈奴や鮮卑族慕容部と中央アジアの突厥との関係は、太古にペルシア人の血が入った頃からありました。中央アジアの突厥(トッケツ),鉄勒(テツロク)は,いずれも「トルコ=テュルク」の形成漢字です。

鮮卑族慕容部は、東アジア人種というより北西の住人の身体的特徴を持っており、特別に肌が白く、中国では「白部鮮卑」とか「白捕虜」とか言われています。

「DNA匈奴」であるサカ(坂)族はスキタイ(ペルシア)人との混血であり、「DNA匈奴休氏ニニギ族」・Y-DNA「O2a1c系」、「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」 、「DNA原始鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」、「DNA鮮卑族慕容部」・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」、「DNA秦王・秦氏系鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1a1a(M133)」である秦氏、「母系DNA春秋時代越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」である春秋時代越の第一位祭祀女王族、鮮卑族の一部族である拓跋氏(高句麗王初代、後に北魏を建国)は、スキタイ(ペルシア)人との混血であると推測されます。

朝鮮半島の楽浪[漢語音:le lang(ルーラン)]郡の原郷は、現在の中国領新疆ウイグル自治区「楼蘭(ローラン)」です。「楼蘭(ローラン)」に由来する日本地名には、「楽浪(ラクロウ→さざなみ)」=「笹」=「細(ササ)」、「膳所(ジェンジェン⇒ぜぜ)」、「上田(ジョウデン⇒うえだ)」があります。

朝鮮半島の「帯方(turfan)」郡の原郷は、現在の中国領新疆ウイグル自治区「吐魯番(トルファン、turfan)」です。「帯方(turfan)」に由来する日本地名には、「取方(トルファンの形声漢字)⇒諏訪[「取方」に「ごんべん(言偏)」を付加]⇒諏訪(スファ→スワ)、周防(sufo)」があります。

第16代仁徳は、古代イランの王朝である安息国=パルティア(紀元前247年~紀元後224年)の後裔を自ら任じ、「安氏」の高句麗第19代広開土王(在位:391〜413年)を名乗りました。成人になり、鮮卑族慕容部の前燕に仕官しています。

第29代欽明[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=金官加羅国金武力=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)]の子の堅塩(キタシ)媛は、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の伴侶です。
第29代欽明と堅塩(キタシ)媛の子の額田部皇女(554年生~628年歿)は、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=物部(蘇我)馬子]の王妃(推測:王妃マリア)です。
額田部皇女と達頭の子の宝皇女(593年生~661年歿)は、中央アジアが生地です。

トルコ国、キルギス国、ウクライナ国の現在も伝えられている伝承に、 「自分たちと日本人は同じルーツを持つ東と西に分かれた“兄弟”だ」があるそうです。トルコ国民の多くが日本人に対して好意的な感情を持ち、世界的にも親日国だといわれています。トルコ人の中には、「昔、中央アジアにいた民族の内、西に行ったのがトルコ人で東に行ったのが日本人、なのでトルコ人と日本人は兄弟だ」と言う人がよくいるそうです。トルコ民族の祖先といえるテュルク(中国語は突厥)系民族は、もともと中央アジア由来のモンゴロイドですが、アジアとヨーロッパの交差点であるアナトリアで長く暮らしてきた背景から、現在のトルコ人は遺伝的にバルカン半島やコーカサスの影響が強いとされます。トルコ国民のDNA調査では、遺伝的祖先になっている地域の割合は、ヨーロッパと中東がそれぞれ40%で、残り20%は中央アジアや南アジアという研究結果も出ています。これは実際、紀元前3~4世紀頃ユーラシア大陸で強大な勢力を持っていた「匈奴」が東西に分かれて広がり、一方はトルコに、もう一方は日本にやってきたという説もあるくらいですので、あながち間違っていないのかもしれません。

以上の背景を参考にして、記紀の倭王『大王』の経歴を以下にみます。
新羅金氏12世代・第26代継体(推測:450年頃生~552年頃歿)[=新羅葛文王立宗=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)=金官伽耶国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(552年に追贈か?)]は、朝鮮半島を追放されて、中央アジアの西突厥に永住移動します。第26代継体は、成人して、中央アジアの西突厥に行ったことが推測されます。

新羅金氏13世代・第29代欽明=金官加羅国金武力=蘇我稲目(506年生~576年歿)[=新羅粛訖宗(スックルチョン)=新羅金氏魏花[魏花は摂政・只召(チソ)太后の情人]=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=物部贄古(ニエコ)/石上贄古(ニエコ)(義父は物部尾輿)=物部弓削倭古=物部大市御狩(義父は物部目)]は、新羅檐魯(タムロ、注:王族統治の分国・居留地の意)の伽耶で生育し、成人して、中央アジアの西突厥(晩年にも回帰)に行きます。

第29代欽明=蘇我稲目の後継系統は、次の三系統があります。
(注)〇数字は、相対的な世代数。
A:中央アジアの突厥系統
①西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(552年に追贈か?)
=新羅金氏12世代・第26代継体(△推測:450年頃生~552年頃歿)=新羅葛文王立宗=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=新羅第22代金氏智証・麻立干 (在位:500~514年)=金官伽耶国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)。
 
②(吐務の長男)大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)

②(吐務の二男)西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)
=第29代欽明=蘇我稲目(506年生~576年歿)=金官加羅国金武力=新羅粛訖宗(スックルチョン)=新羅金氏魏花[只召(チソ)太后の情人]=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=物部大市御狩(義父は物部目、先代旧事本紀)=物部贄古(ニエコ)/石上贄古(ニエコ)(義父は物部尾輿)=物部弓削倭古。
 
③(室點密可汗の子)西突厥第2代西面可汗達頭可汗(カガン)阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)(在位:576~603年)
=達頭(553年頃生~630年歿)=上宮法王=聖徳太子[第29代欽明と穴穂部間人との子]=サーサーン朝ペルシア帝国シャフリバザール宰相・将軍=サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝シャフルバラーズ(在位:630年4月27日~630年6月17日)=第33代推古(スイコ)天皇A達頭=[捏造王]百済第29代法王(599~600年)。
  
④(達頭の子)山背皇子
=サ-サ-ン朝ペルシア帝国(末王)皇帝ヤズドガルド3世(在位:632~651年)
         
⑤(山背皇子の子)ベローズ3世(中国名:卑路斯)[在位(亡命中):651~679年]
 
B:欽明の高句麗系
③[第29代欽明と額田部皇女(554年生~628年歿)の高句麗での子]
高句麗・高向玄理。
 
④[高句麗・高向玄理と宝皇女(593年生~661年歿)の高句麗での子]
高句麗・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)
=第37代斉明A淵蓋蘇文=第40代天武。
 
C:金官加羅国系舒明朝
④[達頭と堅塩(キタシ)媛=新羅・阿陽公主の伽耶での子]
第34代舒明(ジョメイ)
=金官伽耶国・舒玄=新羅将軍・舒玄=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)。
 
⑤[第34代舒明と宝皇女(593年生~661年歿)の子]
第36代(倭国末王)孝徳
=百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)。
 
上記の三系統からは、第29代欽明の後継の本流系は、中央アジアの突厥系であると言えます。第29代欽明の子の達頭(=上宮法王=聖徳太子)は、倭国ではなく、中央アジアの突厥の継嗣が論理的事実です。
達頭(=上宮法王=聖徳太子)を百済や高句麗の継承者とするのは、子の第34代舒明(ジョメイ)[=金官加羅国金舒玄=新羅将軍・舒玄=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)]による計らいです。

新羅波珍飡(4等官)金善品=第38代天智は、母の宝皇女が百済第30代武王(在位:600~641年)[=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)]の後王妃となった時に、百済に同行し、百済第30代武王の養子となり、百済・翹岐(ギョウキ)王子を称しました。新羅波珍飡(4等官)金善品=第38代天智の実父は、廃位となった新羅第25代真智王(在位:576~579年)の弟(異父弟か?)の金仇輪です。

第38代天智=新羅波珍飡(4等官)金善品と額田王[=新羅王妃・文明王后文姫(ムニ)]との子が藤原不比等です。
藤原不比等は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である羽山戸神[=第17代履中天皇=応神天皇皇太子・和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)]を祖神として祀っていましたので、新羅波珍飡(4等官)金善品=第38代天智は「DNA源流鮮卑族和邇氏」であると推察されます。平安時代からの地上の政事統括者の藤原朝は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」の回帰であることになります。「DNA匈奴」から「DNA鮮卑族」が日本の中枢に変わったことになります。

「聖徳太子」と悲劇の英雄の「物部(蘇我)馬子」は、意図的かどうかわかりませんが、後世混同されているように思われます。特に、「聖徳太子」の幼児像は、「物部(蘇我)馬子」が4歳の時に倭国を旅立ったことに由縁があるとした方が自然です。
法隆寺境内の中宮寺の百済観音の法冠は、小林恵子が明察したように、ホスロー二世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子の王冠を受け継いで、達頭(=上宮法王=聖徳太子)が使用したものであることが濃厚です。因みに、中宮皇后は、達頭(=上宮法王=聖徳太子)の孫の「間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665歿)=(推測)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=百済王妃・木恩古(モクウンゴ)(百済第31代義慈王の王妃)です。

第29代欽明だけが「蘇我」氏の別名をもち、系譜者は誰ももっていません。「蘇我」とは、本来「物部(蘇我)馬子」の系譜者の氏族名で、第29代欽明の「蘇我稲目」名は、「物部(蘇我)馬子」を金氏朝にするために後世に借用された氏族名であるとも考えられます。あるいは、「蘇我」は、母系氏族名か、ペルシアの関係者を表わす名かもしれません。蘇我小姉君[=弓削加波流(カハル)姫=新羅・金珍娘主=穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女]、蘇我遠智娘(オチノイラツメ)[=(推測)間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)]、蘇我姪娘(メイノイラツメ)=[推測]額田王(父は蘇我倉山田石川麻呂=[推測]第34代舒明)等がいます。同音韻の形成漢字でこじつければ、「蘇我」=「祖・賀」=「祖・大加羅国」で、「祖が母系拠点の大加羅国=大伽耶の意」となります。

記紀と三国史記百済本記は、554年7月(欽明は48歳)に百済第26代聖王(在位:523~554年)[=蘇我稲目(506年生)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明]が大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦い、緒戦で奇襲を受けて戦死したとしています。高句麗王には在位していますので、これらは記紀の常套手法の作り話です。小林恵子によれば、実は、百済聖王[=蘇我稲目(506年生)=第29代欽明]は、西突厥に移動し、シルジブロス(室點密可汗)(在位:562年~576年)に就きました。

556年(欽明は50歳)、「DNA呉系倭人混血縄文人」である4歳の物部(蘇我)馬子(551年生)=物部宗本家14代・物部宇麻呂[=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)]は、物部宗本家14代『大連』物部守屋の後ろ盾により、倭国から一端百済に移動待機しました。

559年(欽明は53歳)、「DNA匈奴金氏」である高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=第26代欽明]は、物部宗本家14代『大連』物部守屋により高句麗王を追放され、中央アジアに永住移動します。

562年(欽明は56歳)、蘇我稲目(=第26代欽明)は西突厥のシルジブロス/室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)に就き、576年にそこで歿しました。

576年、物部氏外戚系の「DNA匈奴金氏」である達頭(=上宮法王=聖徳太子)は、西突厥を連れて新羅遠征し、尾張氏外戚系の「DNA匈奴金氏」である新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)[=第28代宣化(センゲ)]を滅ぼしました。

576年(欽明は67歳。上宮法王は23歳位)、西突厥の両面可汗室點蜜(=蘇我稲目)が歿し、子の玷厥(テンケツ)(=達頭=上宮法王=聖徳太子)が後を継いで、西突厥第2代西面可汗達頭(タルドゥ・カガン)(在位:576年~603年)に任ぜられ、中央アジアの統治を任されました。

590年、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=物部(蘇我)馬子=物部宗本家14代物部宇麻呂=第31代用明(ヨウメイ)]は、義父の蘇我稲目を追ってペルシアに永久移住し、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)に就きます。達頭=上宮法王=聖徳太子は、物部(蘇我)馬子の信義を通したことを忘れず、終生尽くします。

593年(達頭は40歳頃、額田部皇女は39歳)、達頭(=上宮法王)が東突厥を制圧した頃、達頭(553年頃生)とサ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー2世の王妃であった額田部皇女(554年生、推測:王妃マリア)との子の宝皇女(593年生~661年歿)[=新羅・宝公主=百済王妃・宝公主(百済第30代武王の王妃)=新羅・涓花夫人(新羅第29代武烈王の王妃)]が、西アジアで生まれます。
額田部皇女の群婚伴侶は、第一が「DNA呉系倭人混血縄文人」である倭国部族同盟盟主の物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子、第二伴侶が対婚族同盟の「DNA匈奴金氏」である金官加羅国出自系達頭(=聖徳太子)[=[捏造王]百済第29代法王(在位:599~600年)]で、達頭(=聖徳太子)は通婚できます。この頃でしょうか、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子は、後に王妃となるアルメニア王妃の姪である皇女シーリーンと熱愛します。

593年同年、達頭(=上宮法王)は、子の高句麗第26代嬰陽王舒玄(在位:590~618年)=第34代舒明(ジョメイ)に額田部皇女と赤子の宝皇女を預けます。

599年、達頭(=聖徳太子)は隋に敗れ、韃靼、高句麗、百済を経由して日本に亡命回帰しました。

603年(達頭は50歳位)、達頭=上宮法王=聖徳太子は、西突厥の第2代西面可汗達頭(在位:576年~603年)を退位し、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子の腹心であるシャフリバザール将軍・宰相に就きます。
618年(達頭は65歳位)、シャフルバラーズ将軍(=達頭)は、エジプトを征服しました。

623年、宝皇女(593年生~661年歿)と高句麗・高向玄理との間に、淵蓋蘇文[=第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文=重祚第40代天武]が高句麗で生まれます。

627年、宝皇女(593年生)(=百済後王妃・沙宅ヨン)と廃位になった新羅第25代真智王(在位:576~579年)の弟の金仇輪との子の新羅波珍飡(4等官)金善品[=第38代天智]が、新羅[多分、伽耶の火自振(ヒジフル)]で生まれます。その後、金善品は、母の宝皇女と共に百済に行き、百済第30代武王(在位:600~641年)[=第34代舒明(ジョメイ)=高句麗26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)]の養子の百済・翹岐(ギョウキ)王子となります。
新羅・波珍飡(4等官)金善品の子の藤原不比等は「DNA源流鮮卑族和邇氏」であるので、第38代天智も伽耶出自とする「DNA源流鮮卑族和邇氏」となります。伽耶の火自振(ヒジフル)が、「藤原」の語源です。

628年(馬子は77歳、達頭は75歳位)、サ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子]は、息子のカワード2世(在位:628年)によって処刑されました。カワード2世は、590年生まれで、母はマリア[=(推測)額田部皇女]です。カワード2世は、父親が誰か悩んだのでしょうか。
因みに、伴侶の額田部皇女(554年生~628年歿)もホスロー2世と同年の628年に歿しています。飛鳥の蘇我馬子とされる古墳は、額田部皇女の古墳かもしれません。

628年、カワード2世(在位:628年)の子のサーサーン朝皇帝アルダシール3世 (在位:628年9月6日~630年4月27日) (621年生まれ~ 630年4月27日歿) が就きました。

630年(達頭は77歳位)、達頭(=上宮法王=聖徳太子)は、皇位を剥奪してサ-サ-ン朝ペルシア帝国皇帝シャフルバラーズ在位:630年4月27日~630年6月9日死去)に就きますが、すぐにサーサーン朝の貴族によって殺害されました。

達頭=上宮法王=聖徳太子は、朝鮮半島、中央アジア、ペルシアを舞台に波乱万丈の人生を過ごしました。本論からみた達頭=上宮法王=聖徳太子は、現在の平和的な生き方の説と正反対です。
平安時代に達頭=上宮法王が聖徳太子として宗教的に復活し、実像とはかけ離れて今日まで大きな信仰を得ているのは、物部(蘇我)馬子と混成され、その大きな悲劇性と義を通した人間性が基盤にあります。
しかし、政治的に利用された虚偽は、17条の憲法第一条の「和をもって貴しとなす。」の曲解解釈です。私見は、「和」とは「倭=縄文人」のことで、「縄文人には逆らうな」という聖徳太子と第40代天武の体験的遺訓です。この騎馬民族の二人には、現在の平和主義の観念はなく、唯一専権、敵の殲滅が生き残ることでした。縄文人の共存共生は、強力な武力の保持を伴ったものでしたが、記紀の記述と違って通常相手の命まで奪っていません。

632年、上宮法王(聖徳太子、達頭)の継嗣の山背皇子が、サ-サ-ン朝ペルシア帝国(末王)皇帝ヤズドガルド3世(在位:632~651年)に就きます。山背皇子の母は、(二代目)刀自古(トジコ)郎女=物部鎌足姫大刀自=宝皇女(593年生~661年歿)です。
記紀では、643年に聖徳太子の継嗣の山背皇子一族は、物部(蘇我)入鹿に斑鳩(イカルガ)宮を襲われ、斑鳩寺(法隆寺)において一族共に自害したと常套手法で改竄しています。

651年、サ-サ-ン朝ペルシアの首都クテシフォン(現在のイラク)が陥落し、サ-サ-ン朝ペルシア帝国(末王)皇帝ヤズドガルド3世(在位:632~651年)(=山背皇子)はトハリスタン地方のバルブ(現ブハラ)に逃れましたが、メルヴ総督マーフワイフの裏切りで殺害され、サーサーン朝は滅亡します。

651年にサーサーン朝が崩壊し、東方に遠征駐屯していたペーローズ王子(山背皇子の子)とその軍はその地に留まり、長安まで赴いて亡命政府を設立しましたが、成功しませんでした。その後、ベローズ3世(中国名:卑路斯)は、唐の将軍を務めます。

657年、659年、日本書紀に、ベローズ3世(中国名:卑路斯)[在位(亡命中):651~679年]が、祖母の宝皇女(593年生~661年歿)を頼って、奄美経由で筑紫についた、と記しています。

以上のように、今後の根拠の補強を必要としますが、金官加羅国出自の新羅王子庶子系は、中央アジアの突厥やサーサーン朝ペルシアと連枝していたことは、歴史的な流れに一貫性があります。
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