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「3-2.第六部第二章 神武B朝前史」:「3.第六部 倭国の論理的概史」-「四韓の王統と連枝した倭国皇統の系譜体系の『DNA種族』による論理解析ノート」                             



3-2.神武B朝前史

二世紀頃までは、「DNA縄文人」族は日本列島全体に分散した緩い部族同盟でした。「DNA源流呉系倭人」である原初出雲王朝も同様です。

少なくとも三世紀になると、「DNA縄文人」族と「母系DNA呉越系倭人」族の同盟が日本列島各地にあったことは、「母系DNA越系倭人」の別名からもわかります。初代戸賣(トメ)・春日建国勝戸賣(カスガノタケクニカツトメ)[=新羅・述礼夫人=初代伽耶媛・神大市比売(カムオオイチヒメ)]の別名には、古志国黒姫命、紀伊国節名草(フシナクサ)姫/ 草名草(クサナクサ)姫/草名節(クサナフシ)媛があります。二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)[=新羅金氏玉帽夫人=二代伽耶媛・宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)=加羅・天知迦流美豆比賣(アメノチカルミズヒメ)]の別名には、九州の大(オオ)国オオゲツ媛、愛知県の尾張国大海媛/大倭媛、日本海沿岸の高志国沼河姫、島根県の意富(オオ)国阿麻(アマ)比売、奈良県の葛木国高名姫命があります。 

三世紀頃になると、分散した部族とはいえ、大きな部族集落になっていきます。この転機は、他種族・他部族である「DNA匈奴休氏」ニニギ族や「DNA鮮卑族慕容部」や「DNA源流鮮卑族」和邇氏等の侵攻の危機です。例えば、「DNA匈奴休氏」ニニギ族の伽耶・新羅の侵攻による第一位祭祀女王の後裔である新羅太子妃二代伽耶媛・宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)と新羅太子・大歳は、「DNA匈奴休氏」ニニギ族の侵攻に際し、加羅から日本列島へ、更に奥まったヤマトに避難移動し、侵攻に備えます。記紀は、これらをヤマト東遷として脚色し、「DNA縄文人」である尾張氏、大伴氏、物部氏の三氏族の同行を記しています。

渡来弥生人の四つの基層の「DNA種族」は、「DNA縄文人混血源流呉系倭人」熊族・Y-DNA「O1b2系」、「DNA源流匈奴」野(ノ)族・Y-DNA「O2a1系」、「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2a系」、「DNA濊(ワイ)」ヤ(八/矢/夜)族・Y-DNA「O1b1系」です。

3-2-1.「DNA縄文人混血呉越系倭人」

(1)「DNA縄文人混血呉系倭人」が建国した原初出雲王朝

(出雲・原初出雲朝⇒筑紫・早良(サガラ)国⇒新羅朴氏王朝)
「DNA源流呉系倭人」の最初の日本列島への渡来は、左回りの南海ルートの奄美経由であることを小林恵子は示しています。その後、朝鮮半島から自然海流に乗ると、島根県出雲地方か能登半島に着きます。当初は、大陸から移入される先進文化圏は北九州ではなく、日本海沿岸でした。日本海の自然海流に乗ると、朝鮮半島から島根県の隠岐の島・島根半島、石川県能登半島に着きます。最短の北九州へは海流が激しく、当時の船では横断は非常に困難でしたが、後漢時代になると、玄界灘を横断できる船に進歩し、渡来人口は急激に増加しました。

紀元前400年頃~0年頃、北方文化(右回りの大陸経由移動)の「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O1b1系」が、島根県出雲から鳥取県伯耆、鳥取県因幡、兵庫県但馬、京都府若狭、北陸、越後の日本海沿岸に入島しました。この時代は、「DNA縄文人」との通婚は、鳥取市青谷上寺地(アオヤカミジチ)遺跡のDNA分析からみるとまだ本格化していないようです。

秦(紀元前905年~紀元前206年)、前漢(紀元前206年~8年)は、呉人を青島地方、山東地方、遼西地方に強制移住させました。呉系長江人は、現在江南・華南には全くいません。これが、倭国『大后』のトラウマの原初と思われます。北方に移住した多数の呉越人は、山東半島、遼西地方で流浪の「倭人」と名付けられました。流浪となった倭人は、春秋時代燕(エン、紀元前1100年頃~紀元前222年)に属しました。

前漢第7代皇帝武帝(在位:紀元前141年~紀元前87年)により江淮(ワイ)の間に強制移住させられていた「DNA呉越人」が、新(8年~23年)の時代に抜け出して、朝鮮半島、馬韓に多数が移動しました。

紀元前473年の春秋時代呉の滅亡で流民となり、朝鮮半島に渡った倭族には、幾つかの集団がありました。朝鮮半島中部に上陸し、先住の濊(わい)族や貊(ばく)族を征した最初の源流倭族は、「韓族」と呼ばれます。後の呉人は、韓人(カラヒト)と表記され、区別されています。

一方、朝鮮半島南部に上陸した倭族は、半島中部の韓族に統合されることを嫌い、「加羅(または伽耶)国」を作りました。これが魏志倭人伝の「狗邪(クヤ)韓国」で、彼らが入墨の習俗を持っていたので、古称の“倭人”の称で区別されます。

「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2系」族の最初の弥生人伴侶は、「DNA呉系倭人」で、後の「トベ」系統の倭国『大后』の祖の系統です。先進文明(米作、青銅、等)をもった「DNA呉系倭人」との部族連合(通婚同盟)が日本列島の日本海沿岸地域で成立し、その後ほぼ100%が通婚しました。
 出雲神話の国引きの最終地である紀元前2世紀頃の松江市東出雲(アダカエ/アダカヤ)の阿太加夜(アダカヤ)神社の主祭神は女首長の「母系DNA呉系倭人」である阿陀加夜努志多伎吉比売命(アダカヤヌシ タキキヒメ)です。トーテムは蛇ですので、東出雲(アダカエ/アダカヤ)はもともとは「DNA呉系倭人」の地であったと思われます。この地域は、古代加羅から移住したとの口承が多く聞かれるところです。

日本列島初の弥生人系部族連合の盟主は「DNA源流呉系倭人」で、その地は、松江市東出雲(アダカエ/アダカヤ)の阿太加夜(アダカヤ)神社の近辺か松江市の出雲国第二之宮佐太神社の近辺か、島根県出雲市の現出雲大社の近辺と推測されます。

(2)紀元前2世紀頃、「DNA縄文人混血呉系倭人」が現福岡市の早良(サガラ)国を建国

紀元前2世紀頃、渡来弥生人の部族連合の日本列島初の盟主であった島根県出雲地域の「DNA源流呉系倭人」・Y-DNA「O1b2系」は、「DNA鮮卑族」拓跋部・Y-DNA「O2a2b系」か「DNAスキタイ/ペルシア人混血匈奴」坂族・Y-DNA「O2a1系」と推測される襲来を受け、九州筑紫地方に避難移動しました。そこに、現福岡市の早良(サガラ)国を建国しました。支石墓、甕(カメ)棺、銅鐸(ドウタク)が発掘されました。トーテムは、南方系「DNA呉系モン族倭人」を示す「蛇」です。

紀元前2世紀頃の筑紫・早良(サガラ)国王には、長髄(ナガスネ)彦、大物主A(奈良県大神神社祭神)、葛城氏少彦名、住吉神社祭神・上筒男命の称号や名があります。因みに、長髄彦(ナガスネヒコ)の語源は、ナガ族の村[ス]主[ネ]の意で、村主の通称です。後に、「母系DNA呉系モン族倭人」である伴侶が、「DNA縄文人」であるヤマト登美の首長や「DNA匈奴金氏」である饒速日(ニギハヤヒ)の称号に用います。今と同じように外国風はステータスシンボルであり、天上の非政事統括者の女系・母系が名づけをしたと推測されます。因みに、後の「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」である新羅王族・朴英失(ヨンシル)=和珥日爪(ワニノヒツメ)[=[捏造王]百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)=[捏造王]第21代雄略天皇億計(オケ) ]は、母系の「DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA「O1b2系」である「朴氏」を称しました。

「DNA縄文人混血呉系モン族倭人)」の部族名・氏族名は、倭名がナガ(長)族やモン(物)族、新羅では朴氏、筑紫からヤマトに避難移動した葛城氏です。

(3)紀元前57年、「DNA縄文人混血源流呉系倭人」の早良国王が新羅朴氏王朝を建国

紀元前57年頃、「DNA縄文人混血源流呉系倭人」・Y-DNA「O1b2系」は、朝鮮半島から渡来した「DNA鮮卑族」拓跋部・Y-DNA「O2a2b1(M134)」である朱蒙(シュモウ) [=初代東明聖王(在位:紀元前37~紀元前19年)]の派遣軍を避け、辺境の辰韓に移って斯蘆(シロ/サロ、新羅の前身)朴氏王朝を建国します。Y-DNA「O1b2系」である「朴氏」は、倭国の「ナガ族」の新羅名です。
 
Y-DNA「O1b2系」は、日本固有遺伝子で、縄文人混血と推測されます。現在の日本人男性の「DNA縄文人混血呉系倭人」は約24%であることから、「DNA縄文人混血呉系倭人」の大首長の部族以外のほとんどが日本に残ったようです。当時既に「DNA縄文人混血源流呉系倭人」は、縄文人の伴侶として日本列島全体に居住していたと考えられます。また、日本人男性の「DNA縄文人混血呉系倭人」の伴侶である多くの「母系DNA縄文人」女性も日本列島全体に残ったことになります。このことは、弥生文明・文化は、渡来弥生人だけによるとする考え方には慎重であるべきことを示しています。
弥生文化は、「DNA縄文人」と「DNA弥生人」の共同文化であると見た方が合理的解釈ができる場合が多いです。「ヤマト王権」族の偏狭な独善説に惑わかされないで科学的に考えてみることが肝要です。例えば、奈良県天理市柳本町にある「行燈(アンドン)山古墳」は、前方後円墳で、出土埴輪・出土銅板から4世紀前半頃の築造と推定されています。海外メディアは、被葬者の直系子孫から得られたサンプルと比較した結果、行燈山古墳(Andon-yama Kofun)の被葬者は「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a1b2a1a1(D-CTS8093)」であると推定しています。ところが、「ヤマト王権」族は渡来弥生人の「DNA匈奴」系の初期ヤマト王権の大王墓と考え、宮内庁は第10代崇神天皇の陵に指定しています。

(4)後漢代(25年~220年)、「DNA越系倭人」の本格的入島

後漢(25年~220年)に渡来した「DNA越系倭人」は、「DNA源流呉系倭人」の出雲諸国を征圧し、出雲風土記(733年)が記載するところの出雲国嶋根郡美保郷、出雲国神門郡古志郷、出雲国神門郡狭結驛を領有し,少数支配者となったことが考えられます。
  
200年~260年頃、「DNA濊」・Y-DNA「O1b1系」族が、「DNA源流呉系倭人」のオス(推/食)国の原初出雲朝から覇権を奪い、越系闇見(クラミ)・須佐出雲朝八雲族となりました。「闇見(クラミ)国」とは、鍛冶、製鉄集団が居住した国の意です。「DNA濊」ヤ(八、矢、夜)族と「DNA源流呉系倭人」雲族との合体部族が、「八雲(ヤクモ)」族です。この拠点は、斐伊川流域の出雲西部で、匈奴の大穴持大神命が祭神の須我(スガ)神社(島根県雲南市大東町須賀260)です。「八雲」の合体部族名順は、「八(男性)・雲(女性)」です。ヤ(八、矢、夜)族の女性伴侶は、第一位祭祀女王越人の後裔です。ヤ(八、矢、夜)族は金属業を主とし、たたら製鉄の金屋子(カナヤゴ)神社(島根県安来市広瀬町西比田307-1、島根県仁多郡奥出雲町大谷)の祭神が女性である由縁です。「雲」は「熊」と同音形成語ですが、出身部族が違うことを示しています。

因みに、「山陰」は「山陽」に対する名称ではなく、中国の越(?~紀元前334年)の都で、秦代に山陰(サンイン)県(現浙江省紹興市)が置かれた「山陰」が原緒と思われます。唐代になって会稽(カイケイ)、山陰の二県が設けられました。古代の松江市は、越人の国と言われている由縁です。

(注)中国の「陶塤(とうけん)」(紀元前400年頃)
 陶塤(トウケン)は、中国江南起源の土製笛で、卵型の胴体の表に穴がふたつ、裏側に四つあり、頭の方に切り口があけられています。殷墟(中国安陽付近)からも発掘され、後に孔子が礼楽の楽器として採用しています。1970年代、160点の骨哨(骨笛)及び陶塤(陶土笛)が浙江余姚河姆渡(カボト)遺跡で発掘されました。「陶塤」は、切り口に口を当てて吹くのでアジア的ですが、オカリナとは構造が異なります。 日本では、弥生時代前期から中期に北部九州から北陸にのみ出る日本海側地域限定遺物です。弥生前期の紀元前400年頃、中国の「陶塤」とよばれる土笛が、松江市西川津遺跡・たてちょう遺跡、福岡県東部、山口県西部、丹後半島部などで出土しています。最大の多数出土地は、島根県松江市西川津・タテチョウ遺跡です。陶塤は、現在でも旧越国の現中国浙江省紹興市で日常的に見られました(2014年6月)。

3-2-2.「DNA源流匈奴」野(ノ)族・Y-DNA「O2a1系」

「DNA源流匈奴」野(ノ)族・Y-DNA「O2a1系」の祖は、遊牧狩猟民で、日本列島のかなり広い地域に分散して居住していました。祖が同じ遊牧狩猟民である「DNA縄文人」とは、共存していたと思われます。

島根県出雲地域の「DNA縄文人混血源流呉系倭人」熊(=蛇)族と「DNA源流匈奴」野(=牛)族が部族合体したのが、島根県松江市の出雲一之宮熊野神社です。「熊野」の合体部族名の記載順は、呉越の慣習での「熊(女性)・野(男性)」です。

3-2-3.1~3世紀頃の「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2系」

(1)「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2a系」

「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2a系」は、日本列島や朝鮮半島の遊牧狩猟民の「DNA源流鮮卑族」を祖とし、日本列島を主地盤として日本列島全体に居住していました。前(サキ)族は、祖が同じ遊牧狩猟民であった「DNA縄文人」とは、共存していたと思われます。

これに対し、祖が遊牧狩猟民の中国東北部から朝鮮半島南部を主地盤としたのはスキタイ/ペルシア人混血と推定される「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」で、後に春秋時代燕(紀元前1100年頃~紀元前222年)に属しました。
小林恵子は、日本列島の基層の渡来弥生人の祖として、鮮卑族系の神武天皇A脱解(タレ)を見出しました。初代神武天皇A脱解(タレ)は、日本列島に渡来した最初の基層の一つの弥生人の末裔で、但馬生まれの朝鮮半島に渡った高句麗第3代(解氏)大武神(タイブシン)王脱解(タレ)(在位:AD18~44年)=新羅第4代昔(ソク/ソ)氏始祖脱解(タレ)・尼師今(在位:AD57~80年、B.C.7年生)=住吉神社祭神・底筒男命です。

私見ですが、神武天皇A脱解(タレ)は、中国東北地域、朝鮮半島、日本列島に広く遊牧狩猟生活していた「DNA源流呉系倭人」・YーDNA「O2a2a系」で、濊(ワイ)族[倭名はヤ(八/矢/夜)族]と源流呉系倭人[倭名は前(サキ)族]が合体した名をもつ但馬一之宮出石神社祭神・出石八前(ヤサキ/ヤマエ)大神が比定されました。呉越の記載様式で女性氏族のヤ(八/矢/夜)族が先になっています(注:男性伴侶の氏族名のヤ族を女性氏族名としています。実際の女性の「母系DNA種族」は原初出雲族の「母系DNA源流呉系倭人」です)。

因みに、新羅系神社の住吉大社の三人の祭神は、上筒男命は新羅初代朴氏始祖赫居世(カッキョセ)・居西干(コセイカン、王称)(在位:B.C.57~AD4年)=初代葛城氏少彦名=初代長髄(ナガスネ)彦大物主A、中筒男(ツツオ)命は新羅第2代朴氏南解(ナンカイ/ナカ)・次次雄(チャチャウン/ツツオ、王称)(在位:AD4~24年)=二代葛城氏少彦名、底筒男命は初代鮮卑族神武A前(サキ)氏脱解(タレ)=但馬一之宮出石神社祭神・出石八前(ヤサキ/ヤマエ)大神=新羅第4代昔(ソク/ソ)氏脱解(タレ)王 (在位:AD57~80年、B.C.7年生)=第3代(解氏)大武神(タイブシン)王(在位:AD18~44年)に比定されます。

(2)1~3世紀頃、四隅突出型墳丘墓の「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b系」が山陰海岸に居住

1~3世紀(弥生時代後期)の島根県・出雲地域には、南方揚子江と北方黄河との融合漢族(鮮卑族)系と北方黄河の漢族(匈奴)系の2大勢力がいました。
 
南方と北方の融合漢族系は、特異な方形の四隅突出型墳丘墓文化をつくり、日本海沿岸一帯に広めていました。北京市周辺に見られる「DNA鮮卑族拓跋部」解(ヘ)氏・Y-DNA「O2a2b1系」は、四隅突出型古墳です。四隅突出型墳丘墓は、バイカル湖周辺、中国東北部で見られます。高句麗の最初の都があった中国東北部の桓仁県でも見られます。北朝鮮が起源地だという説もあります。韓国では未発見です。

1世紀始め頃から3世紀末に栄えた四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態です。四隅突出型弥生墳丘墓とも呼称されます。
弥生時代の中期か後期の最初に確認された四隅突出型方墳は、島根県邑南町瑞穂の順庵原(じゅんなんばら)一号墳であり、1969年(昭和44年)に確認されました。北陸地方では1974年(昭和49年)に富山市杉谷の杉谷4号墳が確認されたのが最初です。
鳥取県淀江(よどえ)町と大山(だいせん)町の四隅突出型墳丘墓のある妻木・晩田(むき・ばんだ)遺跡は、1世紀始め頃から3世紀末に栄えた、総面積152ヘクタールにもおよぶ日本最大級の弥生集落跡です。現在、全体のおよそ10分の1が発掘調査されており、約900棟の住居や建物跡、山陰地方特有の四隅突出型墳丘墓です。

3世紀前後の時期では、島根県出雲市の大型墓西谷3号墓(最長辺約50メートル)・2号墓・4号墓・9号墓、小型墓として青木・中野美保・西谷1号・6号墓と安来市の荒島墳墓群(宮山、仲仙寺、大型として塩津山6・10号墓、小型墓としてカワカツ墓)や鳥取県の西桂見墳丘墓が代表的大型墳丘墓です。大型墓は限られた丘陵などに累代的に築造されています。
 西谷3号墳丘墓の埋葬施設が、ほぼ同時期に存在したと推測されている吉備の岡山県倉敷市・楯築(タテツキ)墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混入していました。
 
 出雲国、伯耆国における北方文化系の旧跡には、島根県安来市荒島地域[弥生時代末期・3世紀後半頃の仲仙寺(ちゅうせんじ)墓、8・9号墓(国の史跡、十数個の碧玉製管玉が出土)]、宮山4号墓(鉄刀が出土)、米子市安養寺墓、出雲市(3世紀の西谷墓)等があります。

3-2-4.「DNA濊(ワイ)」ヤ(八/矢/夜)族・Y-DNA「O1b1系」

先駆けの金属業の濊(ワイ)族[倭名はヤ(八/矢/夜)族]・Y-DNA「O1b1系」は、遊牧狩猟民ではありませんが金属資源を求めて日本列島の広い地域に居住していたと推測されます。ヤ(八/矢/夜)族は、国家的志向を望まず、「DNA源流呉系倭人」や「DNA縄文人」や「DNA源流匈奴」野(ノ)族や「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と共存しました。ヤ(八/矢/夜)族の祖神は火と山の神であるカグツチで、愛宕神社として全国的にあります。
「DNA濊」ヤ(八/矢/夜)族は、出雲では「DNA源流呉系倭人」雲(=蛇)族と同盟して八雲(ヤクモ)族、但馬では「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2a系」と同盟して八前(ヤサキ)族となったと推測されます。後に、越系「戸売(トメ)」系統は、出雲と但馬の両方を拠点とします。

3-2-5.200~250年頃、「DNA匈奴系」の出雲(八雲朝)への侵攻

加茂岩倉遺跡は、島根県雲南市で1996年に発見されました。史上最多の39個の「入れ子」状態を含む銅鐸が確認されました。銅鐸の製造時期は、いずれも弥生中期、紀元前1世紀から紀元後1世紀前半頃に作られたもので、弥生後期のものは含まれていません。因みに、荒神谷遺跡で見られた「×」印は、加茂岩倉遺跡出土の銅鐸でしか確認されていません。

(注)賀茂岩倉遺跡の銅鐸(紀元前1世紀から紀元後1世紀前半頃)

賀茂岩倉遺跡は、島根県雲南市で1996年に発見されました。史上最多の39個の「入れ子」状態を含む銅鐸が確認されました。銅鐸の製造時期は、いずれも弥生中期、紀元前1世紀から紀元後1世紀前半頃に作られたもので、弥生後期のものは含まれていません。因みに、荒神谷遺跡で見られた「×」印は賀茂岩倉遺跡出土の銅鐸でしか確認されていません。
 
(注)200~250年頃、島根出雲の荒神谷遺跡
1983年に発見された荒神谷遺跡(200~250年頃)から発見された中国産原材料(BC200年頃製造)の358本の銅剣、銅鐸、銅矛や、1996年に発見された賀茂岩倉遺跡(3世紀頃)の史上最多の39個の「入れ子」状態を含む銅鐸から、3世紀頃に、出雲の地を征服した部族がいると考えられます。銅剣、青銅器など江南文明の特徴が濃いです。荒神谷遺跡の358本の銅剣と賀茂岩倉遺跡の銅剣には、匈奴の「×」印が刻印されていました。  
 
  
(注)中国・楚の投石祭祀の痕跡:松江市の田和山遺跡
松江市の田和山遺跡は、模擬戦争をして祈願する中国・楚の投石祭祀の痕跡です。春秋戦国時代の紀元前300年頃に造営された楚人の楚墓(そぼ)群の「模擬戦争をして祈願する祭祀形態:模擬戦争祭祀」の痕跡は、松江市の田和山遺跡で投石節という投石祭祀と同じ儀式習慣であると思われます。
「模擬戦争祭祀」の風習を持っている人々には、春秋戦国時代の紀元前300年頃に造営された楚(ソ)墓群があります。楚人には、模擬戦争をして祈願する祭祀形態があったと思われます。現代の少数民族である貴州のミャオ系プイ族は、日本海の田和山遺跡の投石祭祀と同じと考えられる投石節という儀式習慣を持っています。

3-2-6.後漢時代、九州北部の邪馬台国連合

(1)後漢時代、「DNA越系倭人」の高句麗人の倭の面土国王・師升(スイショウ/スイセイ)

「面土」は、「面(メン)」はミェン族=高志族、「土(ト)」は「地」の意で、越族の土地の意です。 
 面土国王・遂成(スイセイ/スション)は、「DNA越系扶余人」・Y-DNA「O1b1系」である高句麗第6代太祖国祖王宮(在位:AD53~146年)の弟です。
 中国王朝が新(紀元8~23年)に変わった時、「DNA呉越系倭人」・Y-DNA「O1b1系」は、漢の束縛から逃れて、朝鮮半島、日本列島に移動しました。
 「DNA越系扶余人」・Y-DNA「O1b1系」である高句麗第6代太祖国祖王宮(在位:AD53~146年)[注:倭王の称号はない]の弟である遂成(スイセイ/スション)が後漢から倭国に派遣され、倭の面土国王師升(スイショウ/スイセイ)を名乗りました。
 高句麗王統は、「DNA鮮卑族拓跋部」・Y-DNA「O2a2b1系」から対婚族関係の王妃系姻族の「DNA越系扶余人」・Y-DNA「O1b1系」である第6代太祖国祖宮/太祖王(在位:AD53~146年)に変わります。
 後に、Y-DNA「O1b1系」である倭の面土国王師升(スイショウ/スイセイ)は、「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b1系」である後漢側として動き、兄の高句麗第6代太祖国祖王宮(在位:AD53~146年)から王位を奪い、高句麗第7代次大王遂成(スイセイ/スション)(在位:AD146~165年)に就きました。その後、家臣に殺されます。

 107年、漢は、倭の面土国王・師升(スイショウ/スイセイ)に奴(ヌ)国金印を贈りました。破格の金印は、高句麗王族出身であり、後漢からの派遣者であることによる漢の配慮です。この金印は、後に九州の西倭王『大王』が高句王になる遠因と思われます。因みに、国宝・奴国金印は、江戸時代1784年に捏造されたものとの説が最近強いです。しかし、「金」印の伝承は事実と思います。

(2)140年代頃、伊都国許(キョ)氏女王卑弥呼と面土国王・師升とが九州北部で同盟

140年代頃、祖が中国江南地方から左回りの海路移動で奄美、南九州を経由して北九州に拠点を持つ巫術等の末裔の伊都国女王卑弥呼と右回り大陸移動で日本列島に来島した国王遂成(スイセイ/スション)が、北九州で同盟します。遂成(スイセイ/スション)と卑弥呼は、越系倭人の同種族です。
 九州南部に入島した「DNA匈奴休氏」・Y-DNA「O2a1c系」であるニニギ族は、「DNA鮮卑族慕容部系」・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」と近いDNA系統のY-DNA「O2a2b1a1a1a1a1a(F316)」である漢の同盟下にある九州北部には入れず、一旦朝鮮半島に移動します。

(3)180年頃の倭国大乱の時、邪馬台国連合盟主となる伊都国女王許(キョ)氏卑弥呼

「イザナギ」の語源は、「越(イザ)国(ナ)の男(ギ)」の意です。「イザナミ」の語源は、「越(イザ)国(ナ)の女(ミ)」の意です。
 「母系DNA越系倭人」・Y-DNA相当「O1b1系」の許(キョ)氏卑弥呼の祖は、南方文化系で、左回りの海路移動で奄美、南九州を経て、筑紫に来所しました。許(キョ)氏は、中国江南地方の巫術(フジュツ)者の家系です。
 左回りの海路移動で九州に来島した祖は、神話の「DNA越系倭人」・Y-DNA「O1b1系」)のイザナギとイザナミです。ただし、「イザナギ」の名は、後に「DNA匈奴休氏」ニニギ族首長に借用使用されます。
 木花之佐久夜毘売や卑弥呼などの系統は、越系「戸売」系統の倭国『大后』とは遠祖が同じ中国江南地域の同じDNA種族ですが、卑弥呼は「DNA鮮卑族系」である漢と同盟し、朝鮮半島の伽耶から日本列島に来島した宇賀御魂命は「DNA匈奴金氏」と同盟しました。これが、「DNA匈奴金氏」が編纂した記紀が卑弥呼を記載しなかった由縁です。
 紀元前後、「DNA縄文人混血源流呉系倭人」ナガ/モン族が建国した早良(サガラ)国は、「DNA鮮卑族拓跋部」・Y-DNA「O2a2b1系(O-M134)」である高句麗か「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b1a1a1a1a1a(F316)」である漢の派遣軍に滅ぼされ、奴(ヌ)国になります。
 160年頃、「DNAスキタイ混血匈奴」坂族・Y-DNA「O2a1系」である堂谿(ドウコク)氏猿大海(サルノオオミ)が北九州に来島し、熊本県近辺に狗奴(クヌ)国を建国しました。180年前後の倭国大乱の誘因となります。
 210年に邪馬台国連合の盟主女王となった「母系DNA越系倭人」である伊都国女王許(キョ)氏卑弥呼(248年歿)は、「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b1系」である奴国を滅ぼしました。

 その後、女王卑弥呼の邪馬台国連合は、「DNAスキタイ/ペルシア混血匈奴」坂族である狗奴(クヌ)国との抗争に敗れます。後漢は、220年に終焉します。
 248年、「DNAスキタイ/ペルシア混血匈奴」坂族である狗奴(クヌ)国王猿(サル)大海(オオミ)は、女王卑弥呼の妹の與止日女(ヨドヒメ)を人質として妻に迎え、その子の台与(トヨ)Aが邪馬台国盟主女王に就きます。諸説ありますが、台与(トヨ)Aは宇賀御魂命とは別人、というのが私見です。
 
卑弥呼の「DNA越系倭人」族は、敗北後大分県宇佐に逃れ、更に奈良県葛城と三重県伊勢(伊勢神宮の伊勢の地縁)に避難移動します。奈良県葛城は後の畿内の日の本同盟の共同盟主の女王族の拠点となります。
 
因みに、「宇佐(ウサ、usa)」の語源は、「宇山/羽山(ウサン、usan)」です。現韓国の鬱稜(ウルルン、ウツリョウ)島は、古代名は宇山/羽山国で、新羅に併合されます。何か関係があるかもしれません。宇佐神社は秦氏と関係が深いので、秦氏は兎をトーテムとする「ウサ(usan⇒usa)族」です。八幡総本宮宇佐神宮は、当初の「DNA越系倭人」族の根拠地を征服した「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」の本拠地に変わりました。「DNA源流鮮卑族和邇氏」である第15代応神と、鮮卑族慕容皝(コウ)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)]の庶子の神功皇后と、和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)[=羽山戸神=第17代履中]によって新羅より救出された秦氏が、宇佐八幡宮と縁がある由縁です。八幡総本宮宇佐神宮は卑弥呼と直接の関係がない、というのが私見です「秦王・秦氏系」・YO2a1b系」である秦氏が、深い縁がある由縁です。
因みに、古代中国語の「羽」は羽[hiua] で、日本漢字音は頭音が脱落したのが「ウ(羽)」、中国語音の喉音[h] を継承したのが「は(羽)」です(小林昭美、日本語千夜一話 第272話  万葉語辞典・は行)。H音は、王(Han)の使用音で、古代日本ではH音はF音かP音になります。 

3-2-7.「DNA匈奴休氏ニニギ族」である神武B朝の前史

(1)「DNA匈奴休氏ニニギ族」・Y-DNA「O2a1c系」の祖郷の中央アジア

小林恵子によれば、「DNA匈奴休氏ニニギ族」・Y-DNA「O2a1c系」の祖の経歴は、以下のようです。

紀元前660年の神武元年は、古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設したペルシャのアケメネス朝のキュロス元年が根拠で、遠祖の大夏の休氏はキュロスの末裔をもって任じていました。ただし、キュロス大王(Cyrus the Great, BC600-BC529)は、Y-DNA「R1a1a(R-M17)」です。

「DNA匈奴休氏ニニギ族」の祖は胡人(ペルシャ系白人)系月氏で、中央アジアで安息国(=ペルシャ系パルチア王国)領内の犬戎大月氏系休氏となります。祖郷は、中央アジアの亀茲(クチャ)です。トーテムはもともと「亀」ですが、殷と同じ「三本足の烏」でもあります。

(2)「匈奴休氏ニニギ族」と「匈奴金氏」の南匈奴時代

中央アジアのエフタル系が移動して、中国山東地域の南匈奴(宗主休氏ニニギ族と金氏の祖郷)になりました。
    48年、匈奴が分裂し、南の匈奴勢力が南匈奴になります。これに対して北に残った勢力を北匈奴といいます。南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むことを許され、後漢と共に北匈奴や鮮卑族と戦いました。以来、南匈奴は西晋まで中国王朝に仕えます。
 南匈奴は19の種族によって構成されており、種族の下には部族があり、更にその下には氏族という単位がありましたが、それぞれ雑じりあうことがなかったと言われています。屠客種/屠各種は匈奴の中心種族であり、君主・単于(呉音:ぜんう、漢音:せんう、拼音:Chányú)を輩出し、各種族を統領しました。
 攣鞮(レンテイ、拼音:Luándī-shì)氏は、紀元前4世紀から2世紀に中央ユーラシアに存在した遊牧国家匈奴の君主である単于を輩出した氏族で、南匈奴の屠各部の中心氏族です。南匈奴が崩壊すると中国風の劉氏に改姓しました。

(3)新羅匈奴金氏の南匈奴の祖系譜

「漢書金イルチェ伝」によれば、南匈奴の祖は匈奴の休屠(キュウト)王の太子・金イルチェ/日磾(ジツテイ/ジチテイ、拼音: Jīn Mìdī、紀元前134年~紀元前86年)です。金イルチェは、初めて金氏を使った人物です。トゥフ職は、匈奴族の太子・金イルチェの家系だけのもので、ゼンカン前漢第7代皇帝武帝(在位:紀元前141年~紀元前87年)が考えた新しい漢の諸侯の官職名です。山東省荷沢市(トゥフ)に、漢皇帝が金イルチェに下賜した土地に「天の祭事を行うトゥフの子孫が七代続いた」というトゥソン遺跡があります。元来休屠(キュウト)城に住んでいた匈奴五万人をトゥソンに連れてきました。「史記」に五万人、「漢書」に三万人と記されています。

王奔は、前漢を滅ぼし、新(8~23年)を建国しました。王奔のいとこが、金イルチェの曽孫の金ダンです。王奔敗北とともに、トゥフ職が終わりました。王奔の乱で散らばった金氏一門は、姓を変えて生きました。王奔側だった金氏の子孫は、後漢初代皇帝光武帝(在位:25~57年)の報復を恐れました。特に金ダンと王奔は親戚関係だったので、一部の子孫が韓半島に逃げたという説があります。中国史に最後に現れる金氏の金イルチェの七代目の子孫が歴史から姿を消すのは、王奔が死んだ紀元23年です。

伽耶金氏の始祖金首露(スロ)は、紀元42年に生まれました。新羅金氏の始祖・金 閼智(アッチ/アルシ)は紀元65年に生まれました。すなわち、中国から消えた金イルチェの子孫が、当時、中国との貿易拠点だった韓半島南部の、かつて、駕洛国だった金海に住んだ可能性はあります。ニニギ族、伽耶金氏の始祖金首露(スロ)と金 閼智(アッチ/アルシ)は、中国江南地方で分岐移動した金イルチェの子孫の可能性があります。そうであれば、「DNA匈奴休氏」は、「DNA匈奴金氏」の宗家筋となります。「DNA匈奴休氏ニニギ族」・Y-DNA「O2a1c系」は、日本列島、日本列島に入島後の山東半島か高句麗で通婚により遺伝子変位したことが考えられ、当初は「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1a系」であった可能性があります。

三国史記の新羅金氏の系譜は、初代金 閼智(アルジ/アッチ、65年?~ ?)、第2代勢漢/星漢[ =(推測)新羅葛文王(カツブンオウ)日知]、第3代:新羅・阿都=角干(官位一等官)昔[=(推測) フツ(古代高句麗語)]、としています。第2代勢漢/星漢と第3代新羅・阿都は、扶余国の時代の人物と推測されます。初代金 閼智(アルジ/アッチ、65年?~ ?)の加羅諸国金首露と新羅第9代借用昔氏(&金氏)伐休(バッキュウ)・尼師今(在位:184~196年)=初代大国主・スサノオの加羅諸国金首露とは別人の遠祖を同一名にしたと推測されます。
新羅第30代金氏文武王(在位:661年~681年)の碑文「新羅文武大王陵碑文」では、新羅金氏の祖先が匈奴金イルチェであると記されています。続いて登場するのが、第二代星漢王です。星漢王は文献記録に全く載っていません。朝鮮時代慶州府尹(今日の市長に当たる官職)を務めたホン・ヤンホ(1724~1802年)は自分の文集「耳渓集」に 「682年、慶州四天王寺に建てられた文武王陵碑の一部を正祖20年(1796年)見つけた」と記録しました。当時、碑文を拓本した1部が清の今昔学者ユ・ヒヘ(1793~1853年)の手に入り、彼の著書「海東金石苑」に載せられました。その後、実物の行方は再びはっきりしなくなりましたが、1961年に慶州市東部洞の住宅の水道の近くから上の部分が発見されました。セメントで塗って固定させた後、洗濯板として使った碑の一部を水道の検針員が見つけ、新羅文化同人会キム・ユングン副会長が実物と確認しました。国立慶州博物館は「端の毀損はひどいが碑文はよく残っていて既存に明かされなかった字の追加判読もできるものと見られる」 と明らかにしました。

(4)2世紀中頃、「DNA匈奴休氏」ニニギ族の南海ルートによる九州南部に入島

2世紀中頃、「DNA匈奴休氏ニニギ族」・Y-DNA「O2a1c系」は、「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」族と共に南海ルートの海路を通って奄美経由で南九州日向に入島しました。そこで、ニニギは「DNA呉系倭人」である中国江南海人族のコノハナサクヤ媛との間にヒコホホデミを儲けました。ヒコホホデミはそこで海神の豊玉媛との間に「DNA匈奴休氏ニニギ族」である初代神武天皇B憂位居の父のウガヤフキアエズ[後に高句麗第10代山上王位宮(在位:197~227年)]を儲けました。

(5)朝鮮半島南部でのニニギ族と金氏との反目

ニニギ族は、卑弥呼を女王とする北九州は「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1a1a1a1a1a(O-F316)」である後漢が管轄していて入れず、朝鮮半島に移動します。朝鮮半島南部で休氏ニニギ族と金氏とは反目し、匈奴金氏は離反して金官加羅を建国します。この後、匈奴休氏ニニギ族は、更に朝鮮半島を経由して元の山東半島に移動します。後に、宗主ニニギ族は、金氏のこの時の背反を許さず、二度に渡って、伽耶、新羅に侵攻し、滅ぼします。
「DNA匈奴休氏ニニギ族」は山東半島で態勢を立て直し、高句麗に侵攻し、「DNA越系ヤオ族扶余人」である高句麗第9代故國川王の妃・于(ウ)氏(鮮卑族の姓名:万恆干氏、医術をもった呪術者の家系)に擁立されて高句麗第10代山上王(在位:197~227年)(=ウガヤフキアエズ)に即位しました。 

「DNA匈奴休氏」・Y-DNA「O2a1c系」である高句麗休氏(高氏)朝は、高句麗第11代東川王憂位居(ユイロ/ユイキョ)(在位:227~248年)=初代神武B憂位居、高句麗第12代中川王(在位:248~270年)=第2代綏靖(スイゼイ)、高句麗第13代西川(セイセン)王(在位:270~292 年)=第4代懿徳(イトク)、高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)[=丹波朝初代丹波道主]の高氏句麗王(後に高句麗と称される)で終焉します。

高句麗第11代高氏始祖東川(トウセン)王憂位居 (ユウイキョ)(在位:227~248年)(=初代神武B憂位居)は、三国時代魏(220~265年)に攻められて辰韓、南沃沮(ヨクソ)、北沃沮(ヨクソ)、再度辰韓まで避難流浪しました。そして、高句麗に臣族していた新羅金氏7世代の高句麗・蜜友(ミツユウ)[=新羅葛文(カツブン)王未鄒=新羅第13代金氏味鄒(ミスウ)王(在位:262~284年)=第3代安寧]を同行して加羅に侵攻し、滅ぼします。
 高句麗・蜜友(ミツユウ)は加羅に留まり、後に高句麗第12代中川王(在位:248~270年)により新羅第13代金氏味鄒(ミスウ)王(在位:262~284年)に擁立されます。蜜友(ミツユウ)は、新羅王ではなく、加羅王に当初は就いたと思われます。

3-2-8.184年、「DNA匈奴金氏」の新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の建朝

ニニギ族が高句麗王に就く前の184年頃から197年頃の間に、ウガヤフキアエズ[=高句麗第10代山上王(在位:197~227年)]の子の憂位居(ユイロ/ユイキョ)[=高句麗第11代東川王憂位居(ユイロ/ユイキョ)(在位:227~248年)=初代神武B憂位居]は、子[=高句麗第12代中川王(在位:248~270年)=第2代綏靖(スイゼイ)]と共に朝鮮半島を南下し、朝鮮半島南部で宗主ニニギ族に背反した「DNA匈奴金氏」である金官加羅国初代金首露王[=初代大国主スサノオ=新羅金氏5世代・新羅第9代借用昔氏伐休尼師今(在位:184~196年)]を許さず攻めたと推測されます。これが、新羅金氏の最初の国難です。

184年、「DNA匈奴金氏」である金官加羅国初代金首露王は、宗主の「DNA匈奴休氏」ニニギ族の憂位居(ユイロ/ユイキョ)に金官加羅国を明け渡し、辺境の新羅に避難移動して新羅第8代朴氏阿達羅尼師今(在位:154~184年)から王位を奪い、借用した昔氏新羅朝を称します(倭名は大国朝)。昔氏朝を称したのは、「DNA匈奴休氏」ニニギ族の加羅駐留は短期的なことと見たからです。また、新羅第3代朴氏朝を昔氏が継承したことに習ったのかもしれません。

3-2-9.金氏の伽耶・新羅の国難、そして、連動したヤマト東遷

(1)197年頃、新羅太子・大歳、新羅太子妃・宇賀御魂命が九州に避難移動

197年に宗主の「DNA匈奴休氏」ニニギ族であるウガヤフキアエズが高句麗王朝に入り込み、「DNA越系扶余人」である高句麗第9代故國川王の妃・于(ウ)氏(鮮卑族の姓名:万恆干氏、医術をもった呪術者の家系)に擁立されて高句麗第10代山上王(在位:197~227年)に就きました。
宗主ニニギ族が高句麗王となり強勢となったので、スサノオ、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命と尾張氏の一部は、新羅を初代伽耶媛・神大市比売(カムオオイチヒメ)と二男伊買に明け渡し、日本列島九州南部に避難移動します。

「DNA匈奴金氏」であるスサノオは、九州に避難移住し、「DNA源流匈奴」野族と「DNAスキタイ混血匈奴」サカ(坂)族と伴侶系の「DNA源流呉系倭人」クマ(芋、雲、米)族[=源流出雲族]が居住する九州の渡来弥生人系の盟主となり、倭名のオオ(太/大/多)氏大(オオ)国を樹立します。諸説ありますが、筑紫より安全な大分県あたりと推測されます。これが、いわゆる九州王朝の原初になります。熊本県には、「DNAスキタイ混血匈奴」サカ(坂)族が多数居住していました。

その後、九州王朝は、大歳の子の「DNA匈奴金氏」である新羅金氏7世代・新羅第11代借用昔氏助賁(ジョフン)尼師今(在位:230~247年)の後裔とその後の新羅王子庶子の加羅系の第二拠点の王朝となります。第40代天武の別名が、筑紫君(九州王朝の『大王』称号)薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬であるので、倭国末期、統一新羅まで九州王朝は存続していたと考えられます。スサノオが九州を拠点にしたことは、初代神武B憂位居と第2代綏靖(スイゼイ)の本人が日本列島に渡来しなかった傍証です。

(2)251年の高句麗匈奴休氏ニニギ族の伽耶侵攻の第二期国難と大歳の第一期ヤマト東遷 

ニニギ族の伽耶への報復侵攻により、金官加羅国第3代麻品王(在位:250~251年)が滅ぼされます。金官加羅国は、252年から金官加羅国第4代居叱彌王(在位:291~346年)が即位する290年まで金官加羅国王の空位時代になります。
 この脅威から新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命、尾張氏の一部は九州筑紫より更に安全な辺境のヤマトに避難移住します。ニニギ族の侵攻に備えて、分散した緩い部族同盟を小規模ながらも集合しました。これが世にいわれているヤマト初の王朝の実体です。

この時、ヤマト登美には、物部氏の祖の部族首長の長髓彦(ナガスネヒコ)の拠点があり、大歳は同盟しました。長髓彦(ナガスネヒコ)は、「DNA呉系モン族倭人」であるナガ族の村主(スネ)の意ですから、「DNA縄文人」である長髓彦(ナガスネヒコ)の伴侶の、「母系DNA呉系倭人」である御炊屋姫の母系側が名付けた名です。この後裔が物部氏祖の宇摩志麻治(ウマチマチ)命です。「DNA匈奴金氏」である大歳は、御炊屋姫と同盟通婚をしただけで、長髓彦(ナガスネヒコ)の義父です。尾張氏の始祖の天香語山(別名:高倉下命)を長髓彦の長男と記載されているのは、実血統によるものではなく、尾張氏が物部氏の盟主であることを指しています。

本来スキタイ/ペルシア人混血のエフタルの騎馬民族の出自で、好戦的な「DNA匈奴金氏」ですが、朝鮮半島には報復侵攻する宗主の高句麗匈奴休氏ニニギ族がおり、日本列島には強大な「DNA縄文人」に挟まれ、日本列島で生き残るためには平和的な共存・共生が必要でした。これには、伴侶が「DNA縄文人」とも通婚同盟し、重要な役割をしました。「DNA匈奴金氏」である大国主族は、ヤマト東遷にあたって、平和的で戦闘せず、現在までも平和的な渡来人として好意的に受け入れられています。

251年頃の尾張氏、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命の第一期ヤマト東遷を記紀はヤマトで集権化部族同盟を初樹立したと脚色しました。

(3)261年の高句麗ニニギ族による新羅借用昔氏朝の滅亡と、ニニギ族同盟軍の第二期ヤマト東遷

261年に高句麗ニニギ朝を確固とした「DNA匈奴休氏」ニニギ族は、伽耶・新羅へ再侵攻し、新羅借用昔氏第12代沾解尼師今=第4代大国主・八坂入彦=建御名方主(在位:247~261年)]を滅ぼし、朝鮮半島の覇権を確立します。記紀は、これを垂仁朝の時代として、「出雲の国譲り神話」の元話にしました。

262年に高句麗休氏朝に臣属していた金官加羅国出自の高句麗・蜜友(ミツユウ)を新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)=第3代安寧に擁立します。新羅王金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)=第3代安寧は、252年から290年までの金官加羅国王の空位時代に対応しており、新羅王ではなく、実際には金官加羅国王であったことも考えられます。系統の異なる新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今は、新羅王系譜で1代限りの不自然な王です。

ニニギ族が伽耶・新羅を制圧した後、日本列島にも地盤をもつニニギ族の同盟軍は、日本列島の「DNA匈奴金氏」である大歳から覇権を奪うためヤマトに回帰侵攻します。ヤマトに侵攻したのは、高句麗ニニギ族の同盟軍の大伴氏、「DNAスキタイ混血匈奴」坂族、「DNA源流匈奴」野族です。記紀は、実際には日本列島に渡来していない同盟軍盟主の高句麗第11代高氏始祖東川(トウセン)王憂位居(ユウイキョ)(在位:227~248年)=神武B憂位居(ユウイキョ)と高句麗第12代高氏中川(チュウセン)王(在位:248~270年)=第2代綏靖(スイゼイ)の第二期ヤマト東遷と脚色しました。譲歩しても、高句麗第11代高氏始祖東川(トウセン)王憂位居(ユウイキョ)(在位:227~248年)が、248年に没したにもかかわらず、高句麗第12代高氏中川(チュウセン)王(在位:248~270年)が高句麗に即引き返して王継承しないで、ヤマト東遷したとするのは不自然です。恐らく、高句麗第11代高氏始祖東川(トウセン)王憂位居(ユウイキョ)(在位:227~248年)=神武B憂位居(ユウイキョ)は伽耶で没し、高句麗第12代高氏中川(チュウセン)王(在位:248~270年)=第2代綏靖(スイゼイ)は即高句麗に引き返した筈です。

日本列島の部族同盟盟主の尾張氏の力は強く、ヤマトになかなか入れませんでした。熊野から入って成功したのは、「DNA源流匈奴」野(注:「牛」と同音韻の形成漢字)族の拠点(熊野大社)があったからです。

第二期ヤマト東遷は、尾張氏から大伴氏への覇権交替、大歳=ニギハヤヒの失脚、「DNA匈奴金氏」族から「DNA源流匈奴野族」への覇権回帰、新羅太子妃・宇賀御魂命との新同盟を起こしました。この時、尾張氏は、ヤマトから尾張に移動します(尾張国三之宮熱田神宮)。

(4)新羅王空位期(262~356年)の新羅王第13~16代を捏造

261年に「DNA匈奴休氏」ニニギ族が新羅借用昔氏第12代沾解尼師今=第4代大国主・八坂入彦=建御名方主(在位:247~261年)]を滅ぼした後、新羅王は空位期になったと考えられます。これを埋めるために三国史記は、借用昔氏朝である第14代から16代を捏造して埋めました。
 新羅第14代借用昔氏儒禮尼師今(在位:284~298年)は、大歳の弟の伊買の後裔で、新羅太子・昔于老(セキウロウ)(?~253年頃歿)の子です。新羅第15代借用昔氏基臨尼師今(在位:298~310年)は、未詳の経歴です。新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)尼師今(在位:310~356年)=竹内宿祢は、第16代仁徳の母を飾り立てるために第13代成務、百済第14代近仇首(キンクス)王(在位:375~384年)に捏造されました。

 元の金官加羅への復帰が長引いて、「DNA匈奴金氏」は新羅を本国にしました。 

(5)304年頃の鮮卑族慕容部の伽耶・新羅・百済の侵攻征圧と、盟主慕容部の同盟軍による第三期ヤマト東遷

300年、Y-DNA「O2a1c2(F238)」である匈奴劉氏系の五胡十六国時代前趙(漢)(304年~329年)の臣下であった鮮卑族慕容廆(カイ、333年歿)と「DNA縄文人混血呉系倭人」である天日槍[=高句麗第15代美川王(在位:300~331年)=第6代孝安(コウアン)]と大彦命(第8代孝元天皇の第一皇子)が同盟して高句麗に侵攻し、「DNA匈奴休氏ニニギ族」である高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)[=丹波朝初代丹波道主]を倒し、高句麗休氏(=高氏)朝は終焉しました。300年、同盟した高句麗王子の天日槍を「DNA縄文人混血呉系モン族倭人」である高句麗第15代美川王(在位:300~331年)に擁立しました。

その後、鮮卑族慕容廆(カイ)・慕容皝(コウ)の親子は、朝鮮半島を南下し、天日槍の高句麗王族分国がある伽耶に駐留し、力をつけました。
 但馬が生地の沙穂媛命と兄の沙穂彦の父は、私見では「DNA縄文人混血越系倭人」である高句麗王族分国[檐魯(タムロ)]の大加羅国王子天日槍(アメノヒボコ)=第6代孝安(コウアン)です。沙穂彦の反乱は大加羅国で起こったもので、倭国で起こった出来事として記紀が転写した、というのが私見です。
 大加羅は慕容皝の実質統治下に入り、慕容皝は百済王に就くまで恐らく加羅に駐留したと思われます。このことに、沙穂彦は不満を高じて反乱したのです。慕容皝(コウ)にしてみれば、高句麗と大加羅を交換しただけで、良い条件なのです。

304年、鮮卑族慕容廆(カイ、333年歿)、慕容皝(コウ)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=○前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)]は、百済や伽耶に居住していた同種族の「DNA源流鮮卑族」和邇氏、「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族/昔氏と物部氏の同盟軍を同行して、「DNA鮮卑族拓跋部真氏」である沸流百済第10代汾西(フンセイ)王(在位:298~304年)を倒し、百済慕容部朝を建国しました。物部氏は、「DNA源流鮮卑族」和邇氏、「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族/昔氏との縁で、同盟軍に入ったようです。
<以上>