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2024.5.7「3-6.親新羅の倭国亡命政権と古事記、日本書記の編纂の始まり」



3-6.親新羅の倭国亡命政権と古事記の編纂の始まり

(1)655年頃、金官加羅が本貫の高句麗宰相・淵蓋蘇文の親新羅の倭国亡命政権の樹立と古事記編纂の始まり

 「DNA匈奴金氏」である新羅金氏16世代・第40代天武(在位:673~686年)=第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=筑紫君薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬=高句麗宰相&将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生~686年歿)は、母が新羅金氏15世代相当・宝皇女(593年生~661年歿)=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)=百済後王妃・宝公主/沙宅(サテク)ヨン=新羅後王妃・涓花夫人[新羅金氏15世代・新羅第24代武烈王金春秋(在位:652~661年)の後王妃]、父が新羅金氏15世代・高句麗・高向玄理/高向黒麻呂/高向王です。淵蓋蘇文は、高句麗で623年に私通で産まれましたが、金官加羅が本貫です。新羅金氏15世代・新羅第24代武烈王金春秋(在位:652~661年)の実父は、新羅金氏14世代・金官加羅の金龍樹(金龍春の兄)で、新羅金氏15世代相当・百済後王妃・宝公主/沙宅(サテク)ヨン=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)=宝皇女(593年生~661年歿)が新羅第24代武烈王の後王妃になったのが肯けます。因みに、京都・八坂神社に祀られている蘇民将来(ソミンショウライ)とは、淵蓋蘇文のことです。
 新羅金氏16世代・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)=第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)は、父が新羅金氏15世代・高句麗・高向玄理、実祖父が新羅金氏14世代・達頭(553年頃生~630年歿)=上宮法王=聖徳太子です。父の新羅金氏15世代・高句麗・高向玄理は、新羅金氏13世代・高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=金官加羅・金武力(576年頃生~641年歿)=第29代欽明と新羅金氏14世代相当・額田部皇女(554年生~628年歿)との高句麗での子です。 
 
666年から671年まで淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は唐の捕虜となり、記紀では第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)は筑紫君薩夜麻(サチヤマ)の隠名で記載されます。

532年に金官加羅は、新羅王族の分国[檐魯(タムロ)]から新羅に併合されて、独立支配権がなくなりました。新羅金氏15世代・金官加羅・金武力(577年頃生~641年歿)=第34代舒明も、統一新羅を実現した新羅金氏16世代・金庾信(ユシン)(595年生~ 673年歿)も、新羅金氏16世代・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)も、新羅王の王子庶子系で新羅王の継承資格がありませんでした。
 
655年頃、金官加羅王後裔の高句麗宰相&将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)[=第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)]は、「DNA呉系倭人混血縄文人」である倭国政事統括者の倭国に親新羅の倭国亡命政権を樹立しました。淵蓋蘇文は、倭国亡命政権の第37代斉明Aの倭国『大后』を新羅真骨正統第4代首主・額田王とします。
 日本書記では、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)の不都合な出来事を隠蔽するために、『大后』額田王の代わりに母の宝皇女を重祚第37代斉明B宝皇女に改ざんしました。倭国『大后』額田王は、記紀編纂者系であり、新羅・尾張氏外戚の新羅・真骨正統第4代首主であったので、記紀は身代わり女帝を避けました。
 
淵蓋蘇文が、政事統括者が「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏である倭国に、しかも、倭国部族同盟大首長『大連』である物部(蘇我)本宗家を滅ぼした当事者であるのに、倭国に亡命政権を樹立できたことは不思議に見えます。
 しかし、645年乙巳(イッシ)の乱の直後に石上氏麻呂(639年生~717年歿)が『大連」物部氏を再興しましたが、まだ石上氏麻呂が幼少のため、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)や第38代天智(在位:668~672年)や新羅・尾張氏が覇権を握ります。そして、物部氏に対し、朝鮮半島はもとより倭国においても尾張氏の権勢が上回っていきます。
 642年の淵蓋蘇文が高句麗第27代物部氏栄留王(在位:618~642年)=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷を殺害するにあたっては、新羅が朝鮮半島を統一支配するという密約があったことも考えられます。淵蓋蘇文は、物部氏が高句麗と百済を間接統治したのを手本として、倭国を本拠地として朝鮮半島を間接統治することを目論んだように思われます。一方、尾張氏は、倭国の物部氏を淵蓋蘇文を利用して弱体化させることでした。
 655年頃、これらの情勢を文武両道、策に長けた淵蓋蘇文は、約10年かけて練り親新羅の倭国亡命政権を樹立します。
 高句麗人でもある淵蓋蘇文(623年生~686年歿)は、母・宝皇女(593年生~661年歿)が新羅後王妃・涓花夫人[新羅第24代武烈王金春秋(在位:652~661年)の後王妃]であったので親新羅となることは容易であったと想像できます。

668年、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅金氏15世代相当・第38代天智(在位:668~672年)[=新羅波珍飡(4等官)金善品(627年生~672年歿)=百済・翹岐(ギョウキ)王子]は、「DNA匈奴金氏」である新羅金氏16世代・第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)[=重祚第40代天武(在位:673~686年)]の唐の捕虜中を利用して、皇位を簒奪しました。天智の主要なバックは、伽耶の「DNA源流鮮卑族」和邇氏、伽耶の「DNA縄文人混血呉系倭人」の中臣氏、倭国の「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族ですが、尾張氏に比べまだ弱いことは、後の壬申(ジンシン)の乱でも分かります。

671年に唐より帰国した第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)は、第38代天智(在位:668~672年)の下で大海人(オオアマ)皇子に甘んじていましたが、672年に京都山城で第38代天智を暗殺し、第40代天武(在位:673~686年)に就きます。

686年(天武は63歳)、第40代天武(在位:673~686年)は、第38代天智の娘の大田皇女(667年歿)との子の大津皇子(663年生~686年歿)に暗殺されました。第40代天武の権力基盤がぜい弱であったことを示しています。

712年、古事記の序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)に献上されと記していますが、古事記の序は第40代天武以降に書き換えられたものです。第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)が、皇位の継承正統性を示し、倭国統治者である「DNA縄文人」に対抗するために、継承元とする第33代推古(スイコ)B額田部皇女(554年生~628年歿)までを編纂したもので、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)に即位した直後に編纂を始めたと推測されます。第40代天武の存命中に古事記の虚作編纂が終わっている筈で、第40代天武の686年没後の30年後に編纂を開始するのは虚作とは別に不自然なことです。また、古事記編纂から50年ないし30年後に第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)に献上されたとすることも不自然です。
 
天武朝は、日本の統治体制の原型を作った皇朝とされていますが、同意できません。倭国を「日本国」の国名に変え、倭国『大王』は日本国『天皇』の称号に変えたとされています。
 私見では、日本列島の「倭国」の名の原初は、新羅王の「安東将軍倭国王」が示すように、弱小で属国的な時代の新羅が三世紀の頃に韓国江原道にあった隣接していた格式のある濊国を併合して権威付けで「濊」の同音異漢字の「倭」に変えて対外的に一時使ったことです。扶余族盟主であった濊(=倭)の母系後裔の倭国『大后』は、新羅が扶余族「濊」を国体に選択せず、対外的な「倭国」名を不要にしたので、外交上の権威付けから日本列島の国名を新羅が一時的に用いた対外的称号の「倭国」を使用したのが日本列島の「倭国」の始まりと推測されます。このことを第40代天武は知っていました。
 また、第40代天武は、「DNA弥生人混血縄文人」『大連』と倭国『大后』と大豪族を新しい統治機構に形式的に繰りこみましたが、征服王朝ではなく、避難移動による共生が基盤であり、倭国の実体は従来の権力体制が踏襲されていました。「覇権と征服」で生き抜いてきた渡来王が「共生・共存」を基盤にせざるを得なかったのは、強力な軍事力と財力と人口をもつ「DNA弥生人混血縄文人」族が統治者として存在しているからです。

天武朝の日本の支配力は、三韓から渡来した比較的新しい部族である高句麗と新羅・百済の出自の部族・豪族にしか適用できなかった筈です。最大の倭国権勢者の「DNA弥生人混血縄文人」系豪族や戦勝国の新羅系豪族に敗戦者の渡来系『天皇』の威力が効く論理はありません。

記紀において、百済滅亡や第38代天智や第40代天武は、脚色され、美化されています。考えられる一つの理由は、百済は和邇氏の中心根拠地であり、王朝発祥の国であったからです。和邇氏の第38代天智、藤原不比等を祖とする平安時代藤原朝の朝鮮半島のシンボルです。

倭国以降において、2000年とも1万年とも続いている倭国統括者の「DNA弥生人混血縄文人」が復権したことは自然なことですが、天智系が衰退せず、天武系と並立して存続したことは、倭国史からは推測できないことです。
 更に、母系の非政事統括者と父系の政事統括者の同位共同統治体制が崩れ、父系だけの非政事統括者と政事統括者に変移します。

第40代天武にとって、第38代天智は背信の敵で、朝鮮半島や中国であれば天智一族皆殺しにしてもおかしくありませんが、以後の皇朝は第50代桓武まで天武系と天智系が交互に就きます。この大きな要因として現時点考えられるのは、「DNA匈奴金氏」である第40代天武系から「DNA源流鮮卑族和邇氏」である第38代天智系の藤原不比等、平安時代藤原朝への政事統括者の移行です。そして、倭国統括者も、物部氏から尾張氏に回帰し、更に大伴氏に移行していきます。大伴氏への移行は、記紀に相当する万葉集が同じ役割を果たしいることが考えられ、論理的解析が今後の課題です。

つまり、日本のアイデンティティの根源が、大きく変化し、倭国時代だけに依存していないのです。記紀が虚作した倭国時代だけでは、日本のアイデンティティの根源を導出できないことになります。

(2)第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)と第38代天智(在位:668~672年)の主要な経歴

 以下に、倭国亡命政権を樹立し、記紀の虚作編纂に大きな寄与がある「DNA匈奴金氏」である新羅金氏16世代・第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)=淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(623年生~686年歿)と「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅金氏15世代相当・第38代天智(在位:668~672年)=百済・翹岐(ギョウキ)王子=新羅波珍飡(4等官)金善品(627年生~671年歿)の主要な経歴を時系列でみます。
 
623年(天武が誕生、宝皇女は30歳)、新羅金氏16世代・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)[=第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)]は、新羅金氏15世代相当・宝皇女(593年生~661年歿)と新羅金氏15世代・高句麗・高向玄理との子として私通で誕生します。
 
627年(天智が誕生、宝皇女は34歳)、新羅金氏15世代相当・新羅波珍飡(4等官)金善品[=第38代天智]は、新羅金氏15世代相当・宝公主(593年生~661年歿)=宝皇女と、新羅金氏14世代・新羅第25代真智(シンチ)王(在位:576~579年)の異父弟の新羅金氏14世代相当・金仇輪との子として誕生します。新羅・宝公主が、百済武王の後王妃となった時に、金善品は共に移り、新羅金氏16世代・百済第31代義慈王の養子の第二王子・翹岐(ギョウキ)を称します。金善品は、新羅王子庶子の中で異系統の「DNA源流鮮卑族和邇氏」であり、身の安全から百済に母と共に移ります。なお、母系制であるので、継承を除けば異父兄弟は兄弟として扱われます。
 
642年(天武は19歳、蝦夷は56歳)、「DNA匈奴金氏」である高句麗宰相&将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は、高句麗第27代物部(蘇我)氏栄留王(在位:618~642年)(586年頃生~642年歿)=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷を殺害します。これによって、物部氏は、第26代継体以来の金官加羅系金氏との信頼を無くし、同盟を解消します。
 
645年乙巳(イッシ)(天智は18歳)、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である中大兄皇子(627年生)=百済・翹岐(ギョウキ)王子[=新羅波珍飡(4等官)金善品=第38代天智]と「DNA縄文人混血呉系倭人」である中臣鎌足等が、「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部(蘇我)蝦夷と宝皇女との子の高句麗太子・物部(蘇我)入鹿を倭国で暗殺します。
 宝皇女(593年生~661年歿)にとっては、自身の安全を確保してくれる物部氏との関係は最優先事項であり、その上に子の中大兄皇子(627年生)と孫の高句麗宰相&将軍の淵蓋蘇文(623年生)との板挟みでした。

「DNA源流鮮卑族和邇氏」と「DNA縄文人混血呉系倭人」は、伽耶の古くからの隣人であり、また、百済でも強い隣人関係を継続しました。これが、中大兄皇子と中臣鎌足の強い絆の原初です。

655年頃(天武は32歳頃)、高句麗宰相・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は、高句麗を出国し、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=筑紫君(九州・倭国王の意)薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬に就きます。第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)の倭国『大后』は、新羅の最高血統の新羅・真骨正統第4代首主の額田王[後に、金官加羅が本貫の新羅第29代武烈王金春秋(在位:654~661年)の王妃・文明王后文姫(ムニ)]です。
 倭国亡命政権の樹立ができたことは不可解なことですが、668年ではなく642年に高句麗は事実上滅亡しており、淵蓋蘇文と新羅との間に統一新羅との密約があったとすれば一応肯けます。淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は、倭国政事統括者の物部氏を模倣して、倭国から統一新羅を遠隔支配するという野望をもったのではないかと想像されます。
 
660年(天武は37歳、天智は33歳)、百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされます。百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳]、百済太子隆が降伏して、妻子、多くの臣下等58人が唐都・洛陽に強制連行されます。同年義慈王は唐で病死したとされています。百済王妃・木氏恩古(ウンゴ)[=間人(ハシヒト)皇女(665年歿)]はどうなったのでしょうか。
 同年、百済・翹岐(ギョウキ)王子[=新羅・金善品=第38代天智]は、一端高句麗に行きます。避難移動ではありません。百済・翹岐(ギョウキ)王子は、淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)と新羅との密約を知っていたと思われます。その後、母・宝皇女と共に倭国、あるいは、新羅に避難移動しました。
 
661年(宝皇女が68歳歿)、宝皇女が、記紀では倭国前線基地の九州筑紫で歿します。因みに、宝皇女(593年生~661年歿)=新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]の歿年は、伴侶の新羅第29代武烈王(在位:602~661年)と同年です。したがって、宝皇女は、新羅に移動し、そこで没した可能性が大きいです。新羅金氏第15世代・新羅第29代武烈王(在位:654~661年)は、実父が金官加羅・金龍樹(金龍春の兄)、継父が金官加羅・金龍春、母が新羅金氏天明公主です。新羅金氏天明公主は、母が新羅・萬呼(マノ)太后(555年生まれ~?年)、祖母が金珍娘主=蘇我堅塩媛、曾祖母が新羅摂政只召(チソ)太后=尾張目子媛です。新羅・萬呼(マノ)太后(555年生~?年歿)は、額田部皇女(554年生~628年歿)と同母で、年子か双子か同一人です。
 
663年(天武は40歳、天智は37歳)、百済王族や遺臣達と倭国は、百済復興を目指し白村江の戦いをしましたが敗れました。倭国側の勢力には、最大武力の物部氏は入っていず、また尾張氏も入っていません。伽耶と九州に根拠地をもつ大伴氏と推測されます。その後、唐は旧百済領の経営に乗り出しましたが、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられました。
 百済が白村江の戦いに敗れた時、後宮の3000人の官女が身を投げたと伝えられている落花岩の伝説がありますが、後世の作り話です。義慈王、太子隆が降伏して、捕虜となっているのに、官女が捕虜後を支えないで身投げしたりする行動パターンは、朝鮮半島では異例のことです。高麗、李氏朝鮮の時代、女性は国のために貢女とされるのが普通です。身投げしたとされる落花岩の場所は、河に落ちるのではなく、下の岩に当ります。人数も伝統的な誇大化数字です。多数の貢女を隠蔽するための後世の儒教の作り話とみてよいです。百済王妃・木氏恩古(ウンゴ)[=間人(ハシヒト)皇女(660年歿)]や宝皇女の行方を隠すための作り話です。
 
665年、記紀では、間人(ハシヒト)皇女[=百済・木氏恩古(ウンゴ)]が、没します。記紀では、間人(ハシヒト)皇女は母の第37代斉明B宝皇女陵である越智岡上陵に隣葬されています。実際に遺骨があるのか、分骨であるのか、未詳です。百済・木氏恩古(ウンゴ)[=間人(ハシヒト)皇女]は、百済滅亡(660年) により唐の戦争捕虜になったのか未詳にされています。母が新羅・宝公主(=宝皇女)であるので、百済・木氏恩古(ウンゴ)[=間人(ハシヒト)皇女]は、唐に連行されていないと考えられます。
 百済・宝皇女と百済・翹岐(ギョウキ)王子[=新羅・金善品=第38代天智]は百済にいましたが、唐に連行されていません。
 この間の高句麗宰相&将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)[=第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)]と百済・翹岐(ギョウキ)王子[=新羅波珍飡(4等官)金善品=中大兄皇子(627年生)=第38代天智]の動きには反百済・親新羅の不可解なものがあります。
  
666年から671年まで淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は唐の捕虜になりました。第37代斉明A淵蓋蘇文は、記紀では筑紫君薩夜麻(サチヤマ)の隠名で記載されます。
 唐に捕虜中とはいえ、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(在位:655~666年)が存命であったので、中大兄皇子(=第38代天智)は、倭国『大王』に簡単には即位できませんでした。
 日本書記では、淵蓋蘇文は一時中国の捕虜となったため筑紫君(=九州・倭国王)薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬(推定在位:655~661/666年)と記載されていますが、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文のことです。
 九州は借用昔氏大国朝を祖とする金官加羅国系の「DNA匈奴金氏」族の拠点地域で、筑紫君は九州・倭王の称号です。いわゆる九州王朝は、倭国末期まで続いていることになります。淵蓋蘇文が筑紫君薩夜麻(サチヤマ)/薩野馬の別名をもっていることは、金官加羅系であることの証しです。
 東倭国の畿内は、「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏と「DNA源流鮮卑族」和邇氏と「DNA源流鮮卑族」前族と「DNA源流匈奴」の拠点地域です。
 
668年、高句麗平壌は唐と新羅の連合軍により陥落します。尾張氏外戚系新羅が三韓統一をしました。[架空末王]高句麗第28代宝蔵王(在位:642~668年)は唐に連行され、淵蓋蘇文が擁立した偽装高句麗王と認定され、以後唐の王族待遇を受けます。宝蔵王には倭王『大王』の称号がないことは、偽装高句麗王を裏付けています。
 
668年(天智は41歳)、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である第38代天智(在位:668~672年)[=百済第二王子・翹岐(ギョウキ)王子=新羅・波珍飡(4等官)金善品(627年生~672年歿)]は、唐の捕虜中の「DNA匈奴金氏」である第37代斉明A淵蓋蘇文から皇位を簒奪して即位しました。
 
671年(天武は48歳)、淵蓋蘇文(623年生~686年歿)=筑紫君薩夜麻(サチヤマ)[=大海人皇子]等4人は、同じく捕虜として連行されていた筑後国上陽咩郡(かみつやめぐん、現福岡県八女市上陽町)出身の大伴部博麻(ハカマ)が自分を「奴隷」として売ったお金で帰国します。690年に第41代持統B鸕野讚良(ウノサララ)皇女(在位:690~697年)は、天皇から一般個人に向けられた愛国者を記した唯一の勅語を大伴部博麻に与えました。倭国に帰国した淵蓋蘇文は大海人皇子と名を変え、天智天皇の皇太弟となります。大伴氏が九州に拠点をもち、古来より伽耶で金官加羅系「DNA匈奴金氏」と和邇氏と親密な関係があったことを裏付けています。
 
672年、倭国に帰国した淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)は、留守中に皇位を簒奪した第38代天智(在位:668~672年)(=中大兄皇子)を京都・山科で暗殺し、後継の大友皇子[=追増された第39代弘文(コウブン)天皇(在位:672~672年)]を滅ぼしました。第38代天智の山城行きに同行していた新羅貴族を祖とする「DNA縄文人混血春秋時代呉系倭人」である中臣鎌足(614~669年)[=藤原鎌足=百済大佐平沙宅(サテク)智積=沙吒昭明/ 紹明]は、昭和初期に発見された高槻市阿武(アブ))山古墳の遺体からこの時とみられる落馬した背骨跡とDNAが確認されています。 

672年、673年の壬申(ジンシン)の乱で、大海人皇子=淵蓋蘇文の倭国での政権取りは、倭国の尾張氏と大伴氏の支援によるものです。しかし、尾張氏が高句麗人であり文武両道、策士でもある淵蓋蘇文を心から信用したとは思えません。また、尾張氏は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅波珍飡(4等官)金善品が出自である第38代天智(在位:668~672年)[=百済・翹岐(ギョウキ)王子=中大兄皇子]も信用していないです。
  
673年(天武は50歳、石上氏麻呂は34歳)、大海人皇子[=第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~667年)]が、第40代天武(在位:673~686年)に復権重祚しました。 
 
681年から『飛鳥浄御原令(アスカキヨミハラリョウ)』の編纂を始めました。ただし、内容は全く残っていません。
 
681年、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)[=淵蓋蘇文=第40代天武(在位:673~686年)]と倭国『大后』額田王[=金文姫(金庾信の妹)=新羅・文明王后]との子である新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)が新羅から追放され、倭国に亡命しました。李 寧煕(イ・ヨンヒ)によれば、「軽(カル)」は古代韓国語の「ガル」と同音で、「双子」の意ですが、「新羅太子と倭国皇太子の二つの顔」で使われたと思われます。
 
686年、第40代天武(在位:673~686年)は、第38代天智の娘の大田皇女(667年歿)との子の大津皇子(663年生~686年歿)に暗殺されました。桧隈大内陵は1235年に盗掘されましたが、第40代天武の頭骸骨と白髪が残っていました。DNA鑑定されていても、公開されることは当分ないでしょう、残念なことです。
 
689年、次期天皇に即位させるつもりだった草壁皇子が急死しました。草壁皇子は、父が第40代天武、母が鸕野讚良(ウノノサララ)の第二皇子として662年に誕生しました。
 
689年、第40代天武(在位:673~686年)の皇后・鸕野讚良(ウノノサララ)が、飛鳥浄御原令を発布しました。
 
694年、第40代天武と宗形徳善の娘の尼子娘との子の高市皇子(タケチノミコ)が第41代持統(ジトウ)A高市(在位:694~697年)に即位しました。日本書記では、第41代持統B鸕野讚良(ウノノサララ)としましたが、小林恵子説は、第41代持統A高市皇子です。

697年、第37代斉明(サイメイ)A淵蓋蘇文(推測在位:655~666年)[=淵蓋蘇文=第40代天武(在位:673~686年)]と倭国『大后』額田王[=金文姫(金庾信の妹)=新羅・文明王后]との子である第42代文武(モンム)天皇(在位:697~707年)[=軽(カル)皇子=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]が即位します。簒奪による即位かもしれません。
 
第40代天武(在位:673~686年)は、尾張氏が実権を握っており、ほとんど何も出来なかったという説の方が論理的事実に合います。
<以上>