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「2-14.第五部第14章 倭の武王は百済武寧王、倭国の名の原初は新羅の対外称号名」:「2.第五部『DNA種族解析法』による倭国皇統の論理的事実」-「四韓の王統と連枝した倭国皇統の系譜体系の『DNA種族』による論理解析ノート」

2-14.倭の武王は百済武寧王、倭国の名の原初は新羅の対外称号名


倭の五王についてはいろいろな説があり、特に倭王武については強い説がありません。これは、国内の記紀の皇統内で比定しようとすることにあります。そして、古代は特に強いですが、現在の王統でも血統の継承性が基本になります。血統の継承性がないものが易姓(エキセイ)革命です。

本来、記紀の皇統に記載されるべきであったのに、庶子系統の王位簒奪により記載されなかった王に百済第25代武寧王斯麻(シマ)(在位:501~523年)がいます。
日本列島の「倭国」の名の由来が国史に残されていないのは不思議なことです。もし、倭の武王が百済武寧王であれば、「倭」とは日本列島の倭国を指していないことになります。

2-14-1.倭の武王は百済武寧王

四韓の王統は、血統が王の正統性を示します。
王統が変わった場合、「宋書(ソウジョ)」は明記すると考えられますので、「倭の五王」は同じ血統と考えるのが自然です。
つまり、「DNA種族」が違う第15代応神や第21代雄略は候補者にはなりません。
讃・珍・済・興は新羅王として、武は新羅王継嗣の百済王として実在しています。

私見では、「倭の五王」とは、倭王讃=第16代仁徳=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)]、仁徳の兄の倭王珍=第18代反正(ハンゼイ)=新羅第18代金氏実聖(ジツセイ)尼師今(在位:402~417年)[=百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位:420~427年)]、第18代反正の継嗣の倭王済=第19代允恭(インギョウ)=新羅第19代金氏訥祇(トツギ) 麻立干(在位:417~458年)[=百済第20代毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)]、第19代允恭の継嗣の倭王興=第20代安康=新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)[=百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)]、第20代安康の継嗣の倭王武=百済第武寧(ブネイ)王島君(セマキシ)/斯麻(在位:501~523年)]です。
以上の系譜は、同系統の王統を示す同血統です。

百済第武寧(ブネイ)王島君(セマキシ)/斯麻は、新羅王族傍系庶子の第26代継体に王位を簒奪・阻止をされ、朝鮮半島の難を避けて39歳頃まで倭国に居住しました。

「倭の五王」とは、記紀の人為的に創作された倭国『大王』が該当しないことことは本論からも明白で、新羅王ないし新羅王継嗣に対する称号と考えるのが自然です。

2-14-2.倭国の名の原初は新羅の対外称号名

私見では、日本列島の「倭国」の名の原初は、新羅王の「安東将軍倭国王」が示すように、三世紀の頃に韓国江原道にあった濊国の国名を新羅が対外的に借用した称号であると推測されます。

扶余系一門の最初の盟主は濊(ワイ)(Y-DNA「O1b1系」)で、その後、高句麗、百済が継承しました。紀元前59年、扶余国の一部が「高句麗国(紀元前37年~668年)」として独立して濊(ワイ)に代って盟主となりました。その後、高句麗を建国した女王・ソソノが高句麗を追放されて、連れ子と共に百済の前身の沸流(フル)百済を建国しました。

扶余は、濊国(ソウルの東側の日本海に面した韓国江原道)、夫租/沃沮(北朝鮮咸鏡道)、高句麗国(吉林省東部+慈江道)、匈奴系夫餘(吉林省北部)の四つに分かれました。扶余系一門の濊国、夫租/沃沮、高句麗国、匈奴系夫餘の末裔は日本で再合流することになります。

濊族が、韓半島北東部の今の江原道一帯にやって来たのは一世紀です。朝鮮半島南部には、新羅の隣国に濊国がありました。二世紀になると、現韓国江原道付近の濊国はなぜか突然滅びます。大伽耶などの伽耶諸国が相次ぎ建国されるのも一世紀のことです。主導勢力がこれら伽耶に大移動したせいで衰退したのか、それとも、隣接する新羅によって滅ぼされたのかは明らかではありません。600年代に作成された新羅高句麗百済の地図(1600s - Map of Silla, Goguryo, & Baekje Regions 新羅高勾麗百濟肇造區域之圖)に韓国江原道の濊国と対岸の現鬱陵島を領土とした于山国/羽山国(ウザンコク)が記載されています。
三国史記に、濊国の対岸の于山国/羽山国(ウザンコク)が512年に新羅第22代智証麻立干(在位:500~514年)[=第26代継体]により服属させられたとの記録があります。于山国/羽山国の末裔が、「DNA原始鮮卑族」和邇氏である莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)[=百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)=第17代履中]です。伽耶で、伽耶系和邇氏、藤原氏の祖、秦氏は、近隣の関係があり、藤原朝で結束します。

『宋書 (ソウジョ)』と『南史』には、421年から502年までの5人に倭王の官職号を授けたことが記録されています。官職号・倭王の領土は「百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」の六ケ国が基本で、加羅を加えた七ケ国の場合もあります。日本列島の倭国は領土に明示されてなく、含まれていません。
南宋の頃には、朝鮮半島に安東・安西・安南・安北の四将軍号が成立していました。つまり、倭の五王には「安東将軍倭国王」の称号があり、新羅王ないし新羅王の継嗣の顔があります。

弱小で属国的な時代の新羅は、隣接していた格式のある濊国を併合し、その後、権威付けで「濊(ワイ、wei)」の同音韻の形成漢字の「倭」に変えて対外的に使いました。「安東将軍倭国王」は、国体を扶余にできない新羅が、朝鮮半島の中北部地域を示す「安東」に権威付けの「濊(=倭)国」を結合させた領土とは別な意味の象徴的な称号です。
しかし、新羅が高句麗王、百済王、伽耶王を輩出するようになると、もはや「濊=倭国」という対外的な粉飾を必要としなくなりました。

一方、扶余族盟主であった濊(=倭)の母系後裔で、新羅と同体家族である倭国『大后』にとっては、「濊(=倭)国」は粉飾ではなく実です。
新羅が高句麗王、新羅王を輩出し、対外的な「倭国」称号を不要にしたので、外交上の権威付けから日本列島の国名を新羅が一時的に用いた「倭国」を使用するようになったと考えられます。これが日本列島の「倭国」の始まりと推測されます。

新羅が原本を作成した三国史記に記述されている「倭国」「倭人」は、由来に基づいた実情とその後の実情とが混在して故意にあいまいに使われています。
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