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チョコレートブラウンの板塀の家 4

長子他所の子になる


長女の長子は、読書が好きでいつも本を読んでいた。愛理や雄介が遊びに誘っても、歳が離れているせいもあり殆ど相手にしてもらえなかった。
父の明夫は、長子に野山を駆け回るような活動的な子になって欲しいからか、外に誘おうと模索していた。

長子が、小学校に上がる前くらいまで、父親の弟の宗次が一緒に暮らしていた。宗次も書物を読み漁り、殆ど一日中離れに籠っていた。叔父を慕っていた長子は、多分にその影響を受けて育ったと言う。

愛理は、父の葬儀の時に、金バッチを胸にムッツリと立っていた叔父を、見たのが最初で最後だったような気がする。実際叔父が何の職業に就いていたか知らないし、どんな人だったかも知らない。

長子は高校に入ると寮生活を選んだ。父との妙な確執に嫌気がさしたのだと、母は教えてくれた。しかし、後になって愛理たちは、実は長子は神戸の母の実家へ、養女として迎えられたと知ることになる。偶に帰ってくる時には、両手に持ちきれないほどの土産物を弟達に配った。よくよく考えれば、学生風情にそんな余裕は無いはずだ。

そんな長子は、父が亡くなった後も、愛理達と暮らす事はなかった。街中と言う環境と、誰にも干渉されない生活は、余程長子を魅了したらしい。
母の入院の時も、「お大事に、早く元気になって帰ってあげてね」とだけ言って、愛理達に来るか?とも言わなかった。無論、行ったとしても、幼い弟妹が遠く離れた他県の全く違う生活環境に、馴染めたかどうか疑問ではある。

そんな経緯から、お互いの結婚式や両家の葬儀の時ぐらいしか、逢うこともなく今に至っている。奇妙な関係性ではあるとは言え、実の姉弟に違いはないので、偶には電話もする。

しかし、不思議なのは、いくら、子供のいない自分の兄夫婦の養女に望まれたとしても、母がよく手放したものだということだ。最近になって、愛理と雄介は「愛おしい我が子を他家にあげるなんて、私たちには絶対に無理だよね」と話すことしきり。

交通事故〜明夫逝く

長子が神戸に養女に行って間もなく、父の明夫が、突然の交通事故で他界してしまった。母のアキヨは自分の誤算に、唇を噛み締めたに違いない。

それは、長閑な職場の昼下がりの空気を切り裂き、まるで悪魔が高笑いする様な知らせだった。

アキヨが、鼻だけ膨らませて必死に欠伸を堪えながら、伝票整理をしていると、事務長が突然頭上に立ち、
「明夫さんが、事故で隣町の病院に運ばれたらしいぞ!」

アキヨは信じられなかった。悪い冗談だとも思った。
いつも、アキヨより先に出社する夫は、その日も愛妻弁当を持って笑顔で出かけた。夫は普段から物静かで、思いやりのある人だった。

然し、冗談でも嘘でもなかった。
訝るアキヨに、事務長は静かに然し無情に畳みかけた。
「出血が酷く意識も無いらしい。後の事は良いから、とにかく早く行って上げなさい」


愛おしい人が苦しんでいると思うと、急に胸が痛くなるのを感じながら、アキヨは病院へ急いだ。実はこの時既に、アキヨは心臓を病に侵されていた。夫の亡き後の苦労のせいばかりではなかったのだ。

愛理も雄介も幼過ぎて当時の記憶は曖昧だが、幼い姉弟2人でバスに乗り、隣町の総合病院に向かった。そこからの記憶は飛んでいて、呼吸器を付けベッドに横たわっていた父だけを覚えている。
機械音だけが響く病室で、事故から3日目、明夫は息を引き取った。享年49歳だった。


意識のない筈の明夫が、最期に呼吸器を取る仕草を見せたので、医師が外すと
「…愛してる…すまない」
呻くように絞り出し、事切れた。
妻や子供を、残して先に逝かなければならない明夫の心中を、愛理は長じてから知った。

長子が、知らせを受けて神戸から帰ってきたのは、葬儀の日取りが決まってからだった。
長子は、経帷子に身を包んだ明夫の腕を無言で撫でていたが、徐に表に飛び出した。
傘もささず天を仰ぎ、降り注ぐ雨を頬に浴び震えている長子の後ろ姿が、幼い愛理の脳裏に残っている。

葬儀の日、愛理の会ったこともない人達で埋め尽くされた庭は、竹垣も外されていた。
弔問客の波が引いた後、アキヨと兄夫婦は話し込んでいたが、夜を待たずに長子を連れて神戸に引き上げた。


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