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『独力で勉強する』以外には、ADHDが伸びる方法はない。 【ADHDは高学歴を目指せ】

 3.

 授業は聴けなかったし、継続的な勉強も出来なかった。
 予習復習も出来ず、記憶力もひどいもの。

 そんな典型的ADHDの僕が、何故、京都大学に合格出来るだけの『異能』を身に着けたのか。


 我が事ながら、それが不思議で。
 長い間、その点について、色々考えて来ました。

 まず、何より。
 勉強以外に許されなかった幼いころの環境や、分不相応な中学高校に合格出来たことが、非常に良い方に影響したことは間違いありません。

 ただ、そのような子供時代を過ごした人は、他にも幾らでもいるような話。

 僕だけの独特の要素――として、真っ先に思いつくのは。

 完全に『一人きり』で勉強をしたことになります。

 大学を中退し、フリーター生活を送っていた二十歳過ぎの僕は、兄の死に衝撃を受け。
 このままダメダメなまま死にたくはない、と強烈に思い。

 再受験をしようと決意した際。

 お金がなくて予備校などに通えなかったために、一人きりで勉強する道を選ばざるを得なかったのですが。

 怪我の功名といいますか。
 その勉強法が、ADHDである僕にとって、非常に適したものだったのです。

 そもそも、予備校に通ったところで、授業を聴いて理解することは出来ない。
 予習復習などの指示を守ることも出来ない。
 毎日通学することすら出来なかったでしょう。

 また、そういう自分が、予備校の人々にどう見られているか、気になってしまい。
 質問をしようにも、こんなことも分からないなんて、と馬鹿にされることが怖くなり。
 ますます足が遠のいてしまう。

 そんな状況では、勉強そのものに対して、嫌悪感や忌避感を覚えるようになり。
 間違いなく、いずれ全てを捨てて、逃げ出したことでしょう。

 それまで通っていた大学や、その後就職した会社で、そうしたように。
 大変な結婚生活や、面倒な裁判沙汰などで、そうしたように。


 けれども、その時、自分一人で勉強するしかなかった僕は。
 完全に、自分のペースで勉強することが出来ました。

 好きな時間に、好きな場所で、好きな内容を勉強して良いのです。

 昼までゴロゴロしながら単語帳を見つめていても。
 バイト先までの電車の中で、SF小説から物理を学んでも。
 数学の一問を解くのに何十時間をかけても。

 一向に問題はない。
 全てを、自分で判断して良いのです。

 それは、僕に完全に適した――というよりも、唯一可能な勉強方法でした。

 そもそも。
 僕は、周囲の人達とは違った感覚を持っています。 

 カラオケに行くたびに、友人から、『音痴と言うより、独特のリズムで歌う』と評されたものですが。
 これは、あくまでもその友人が優しいだけで。

 実際のところ、ただの音痴。
 リズム感も、『独特のもの』というよりも『ずれたもの』でしかありません。

 勉強に関しても、全く同じで。

 世間一般で言われる『正しい勉強法』は、全く僕に合いませんでした。


 『授業を聴く』『復習をする』ことなんてしていたら、すぐに退屈しきってしまい、勉強が嫌いになります。

 『わからないところを質問する』ことなんてしたところで、指導者の説明をすぐに理解出来る筈もないし、その内に『時間を取らせて迷惑ではないか』『こんなことも分からないなんて馬鹿にされるのではないか』なんて意識が湧いてきて、理解することを諦める。

 『計画的に勉強する』ことをしようとしたところで、それを守れる筈がないのだから、ただの時間の無駄にしかならない。
 むしろ、計画を守れなかった自分が情けなくなり、余計勉強が嫌いになるだけ。


 そんな僕に出来る勉強法は。
 自分自身がやろうと思った内容を、気が済むまでやる――それだけなのです。

 そしてそんな勉強をしている内に。
 受験範囲の半分程度しかカバー出来ていない、非常にアンバランスな学力ではあっても。

 特定の分野――好きな分野に関しては、相当に『深い理解』に到達し。

 大学入試問題で、その得意分野からばかり出題されるという、滅多にない幸運に遭うことで。
 合格まで至ることが出来たのです。


 もし、他人に頼る勉強を、逃げ出さずに必死に頑張り通すことが出来たとしても。
 それで、全範囲がカバーできたとしても。

 結局、中途半端な得点しか取れず、不合格に終わったでしょう。

 独力で挑戦したことは、本当に良かったと思います。


 思えば、その後、僕がやり遂げたこと。
 チベットをヒッチハイクで横断したり。
 台湾で起業したり。

 それらも、結局のところ、完全に自分自身の判断だけで挑んだからこそ。

 散々失敗をしながらも、投げ出すことなく、やり遂げることが出来たのでしょう。


 どう考えても、『独力で勉強したから』というのは、間違いなく非常に重要な要素であるのは確かです。


 ただし。

 勿論、独力で勉強しさえすれば、必ず継続出来て、必ず伸びると言う訳ではない。

 むしろ、他人の目がない分、好き放題サボってしまう可能性の方が、ずっと高い。
 そして何より、常に新奇なものを求めるADHDなのです。
 何かを一定期間続けると、すっかり飽きてしまい、見向きもしなくなってしまうことが多い。

 実際。
 中学入試まで勉強を頑張った僕は、その後六年以上、殆ど勉強をしませんでしたし。
 再受験の結果、二十二歳でやっと入学した大学においても、殆ど勉強をしませんでした。

 ただ、それは、ただ『飽きた』だけではなく。
 『勉強よりも魅力的なもの』が幾らでもあった、という要素が大きいのですが。

 『旅』『ゲーム』、そして『女性』。
 刺激に弱いADHDである僕は、それらに溺れ、勉強に対して見向きもしなくなってしまったのです。


 しかし、それら刺激的な物にしたって。
 結局のところ、僕は、すぐに飽きてしまっています。

 『別の町に行く』『別のゲームを買う』『別の女性と付き合う』ことで、それぞれ新鮮な気持ちになって再スタート出来たからこそ、ある程度継続は出来ましたが。
 一つの町、一つのゲーム、一人の女性に、長期間固執出来たことは、一度もありません。

 そして年を取った今では、それぞれに関しての興味自体がかなり薄れてしまっている。

 ですから、旅やゲームに関しては勿論のこと、女性に関しても、偉そうに語れるような言葉は、一つも持っていません。

 勉強よりもずっと楽しいものなのに。
 一切誰かの意見に左右されず、完全に『独力』で取り組んできたものなのに。

 僕は、すぐに飽きたのです。


 そんな僕であるのに、どうして。

 刺激のより少ない『勉強』に関してのみ。

 偉そうに語ることが出来るだけの――それをネタに塾経営者として何十年も食いつなげるだけの、『異能』を身に着けることが出来たのでしょうか?

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