理不尽な事を言う人と、その人にまつわる組織の話

人が何かを要求する時、要求は単なる建前で、本当は別の欲求を満たしたいだけの場合がある。

本当は俺の、私の言うことを聞いて欲しいだけ、もうちょっと尊重して欲しいだけ、みたいなケースが多いと思う。

厄介なのは本人もそのような二重構造になっている事を自覚していないかつ、その人物が社会的にパワーを持っているような場合。

建前の要求を満たしても本当の欲求が満たされるとは限らないため、周囲はその人物が何を求めているのかが分からないまま、次々発露する要求に振り回されることになる。

そのような幼稚性と相反する社会的地位の高さは、合理的に物事が運んでいる環境では生じないが、縁故、世襲、なんらか弱みを握っているなど、当人の能力と関係なく当人の立場が決まりうる環境では特に容易に生じる。そのような環境の場合周囲もそれを指摘できないため、組織として自浄作用が生じないまま歪みが末端に蓄積されていく。

根源に抱えた幼稚性を社会的地位もしくは能力によって「合理化」する時、その幼稚性のツケを払わされるのは周囲の人間なのだ。合理化するのも周囲の人間が行うし、そのツケも周囲の人間が払う。バカバカしい事この上ない。

そして、そのような構造に対して自浄作用が発揮しづらいのが、固定化された組織の脆弱性である。

今後人も情報も流動性が高まって行くとすると、そのような脆弱性を持つ組織は残って行けるのであろうか?

この問いに対して、昨今巷を騒がせているJ社の件は、ある種の解を示している気がしてならないのは、私の単なる願望であろうか。

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