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存在してくれてありがとう。

相互フォローの方の
記事を読んでいると、
「あ、私も同じこと考えてた」とか
「ちょうど同じテーマで記事を書いてました」
ってことが結構ある。


たかがネット上の交流なんだし、
本名や顔、声、何も知らない人たちにすぎないんだし…と、一線を引くことで
いつもはスカした思いでいるのに


画面の向こう側に
同じことを考えていた”あなた”が、
たしかにいるのだと感じたとたん、
一線引いていたことなんかすっかり忘れ
心は小躍りしてしまう。

(実際は小躍りなんていう可愛いものではなく、にんまり気持ち悪い笑顔を浮かべ
スマホやPCを見つめているだけなのだけど)



「ちょろいな」とか、
「お人よしすぎる」なんて言われことがある。
まぁ、どちらも元夫から言われたんだが
そのとおりかもしれない、と思う。


たかが〜と一線を引き、
人を簡単には信用しないなんて言っているが、
それはすでに信用しかけている自分を
たしなめるためのポーズにすぎず


信用基準を満たし
一定の審査をクリアした人間に対しては
びっくりするほどのめり込んでしまう。

離婚して6年経とうとするのに
いまだに引きずっているのがその証拠だ。



私はきっと、ちょっとおかしいのだ。
そのくらい誰かのことを強く思うことができてしまう。

たぶん、
生き霊とか飛ばすタイプの人間だと思うな。


あれって
良い思いでも悪い思いでもなるし、
当の本人には飛ばす飛ばさないのコントロールはできないらしいもんね。

想念の強さがリミッター振り切ってしまう系女子なのだろう(?)
本当ごめんなさいね。



このnoteというSNSがなくなったらどうしよう、と言うことをよく考える。

他の場所でなにかしら書き続けていくだろうが、ここで出会えた人たちとの縁は切れてしまうなあ。



いやはや
もちろん、それでいいのだ。
大切なのはそれぞれにとっての
目の前の生活であり、現実の方なのだから。

でも、寂しいなぁと思う。


寂しいなぁとは思うが
じゃあ現実で繋がりたいのか?というと
そうではない。

いや、そうではない、というと語弊があるが

そこはやはり、
自分を表現するには
大きく制限のかかる言葉というツールを使い、
ネットという限られた場所での交流だからこその心地よさみたいなものがあるだろうなと思う。



だから、いつ辞めたっていい。
いつだって好きな時に
アカウントごと抹消していいのだ。

なにより私はそう思うから
毎日なんだかんだと更新できているし、

いつ辞めたっていい権利が前提にあるからこそ
敢えて書く、ということに自由を感じられる。



それなのに、
もしかしたら
私はちょっとだけ変わったのかもしれない。

みんながそんなふうにして書いているのだからこそ、私は絶対ここにおるからな!
と思うようになった。


何年か後に「そういえばあの人まだ書いてんのかな?」ってふらりと現れた時、
もしこの場所noteが存在するならここにいるし、

なければ何か足跡とか、
「ここにいます」という書き置きを残して去っていることだろう。



だって、画面の向こう側に
"あなた"が確実に存在していることを実感してしまったから。

"あなた"が存在している
高揚感と嬉しさを信用してしまったから
この思いはもう止められないのだ。
激重でごめんなさいね。


ここで出会えた人たちとの
細く、簡単にちぎれてしまうように見えて
強くしなやかな蜘蛛の糸みたいなご縁に、
私は心から感謝している。
存在してくれてありがとう。



今日はそれが言いたかった。






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