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【小説】この世界で、ゴールデンブルースを聴くものよ:第10話

 午後3時。スカイラブ宇宙センターのB棟2階第二会議室で戦略経営会議がスタートした。そのわずか15分後、誰もが予想だにしなかった出来事が起こった。

「トキワはいるか。いるな。準備をしろ。これからオンサイトの実用化検討会に切り替える」

 戦略経営会議は、オンサイトの実用化検討会に急遽変更されることが決まった。


 第三回NJPL×ユニオン・マイクロソフト社(U・M社)共同開発『オンサイト』実用化検討会。
 7月4日、ヒューストン時間15時52分。  
 険悪なムードが第二会議室に漂っていた。NJPLが所有する火星の3次元データを、U・M社所有のホロレンズ(VR)と融合させる作業が、予定を過ぎて大幅に遅れをみせていたからだ。VR技術はまだまだ後進的な分野で、21世紀の現在も人間の五感の内半分以下である二感までしか再現できないと言われている。

「……『ヘッドマウント・ディスプレー』を覗けば三次元の火星を歩ける、そういう話だったな? トキワ」  

 私は近眼用の眼鏡を湿った手で押し上げながら、こめかみの汗を指で拭いとった。

「……はい。月面着陸計画でも活用できる可能性が充分にあります。地上にいるスタッフが、三次元の火星を実際に歩いているようにローバーを操作することができる……現地でカバーしきれないミスが起こった場合の、二次対策とも言えます」
「二次対策、か。それで今日はいつ確認できるかな」

 私が話している相手は、NNSA戦略計画委員会委員長のリング・ノード氏だった。ポーカーフェイスにアンバー色の鋭い眼光が、狙った獲物は逃さないとばかりに責め立ててくる。あらかじめ、派遣直後の私と同僚達との微妙な関係を耳にしていたのだろうか、融合不具合のミスも重なって私への心証は最低値を更新していた。

「……あ、あと8分ほど。3回目の会議となってようやくお披露目できる予定でしたのに、本当に申し訳ありません」  

 実際には、内二回は”諸事情”とやらで会議自体がお釈迦になっている。そして、当初のオンサイト実用化検討会の予定日は、二週間後だ。元々、ノード氏がオンサイトに対して非積極的であることは明らかだった。

「4年後の火星探査に間に合うか?」  

 ノード氏からの質問に、私は後方の座席に座ったカールを見た。舞台で台詞を忘れた子供を見る親の顔をしている。私は嫌な空気をこれでもかと感じ取った。正面に向き直ってから、壇上の巨大スクリーンの横で私は盛大にどもって答えた。

「け、検証の連続になるかとは思います。ぶい、ぶ、VRはこれからの分野で……」
「実はね、僕もユニオン・マイクロソフト社で試したことがあるんだよ」  

 私はノード氏の言葉にぴしりと硬直した。初耳だったのだ。ノード氏がU・M社に来社したことなど同社の関係者から一度も聞かされていない。目線で訴えかけると、U・M社の担当者はふいと顔を背けた。

「あれは、”虚構”だね。確かに三次元の火星の風景を歩いたよ。だが視野は極端に狭く、ホロレンズは非常に重い。砂を掴んだつもりが環境からのフィードバックもない。じれったさで言えば、EVA訓練よりも過酷だった」
「それは、改良はまだまだこれからの段階で……」
「アポロと同じことをしても意味はないんだよ。足跡を残してくれば良いって話じゃないのは君も分かっているだろう? 宇宙条約の第九条は言えるかい」

 第九条?
 何故今そんなことを――私は乾いた喉に唾を流し込み、必死に舌を動かした。

「つ、月……その他の天体を含む宇宙空間の有害な汚染、及び地球外物質の導入から生ずる地球環境の悪化を避けるように、月その他の天体を含む宇宙空間の研究及び探査を実施、かつ、必要な場合には、このための適当な措置を執るものとする……これが、第九条かと」
「パーフェクトだ。言いたい事は分かるな。――これで検討会は終わりだ」  

 ノード氏がおもむろに立ち上がる。消灯していた会議室がぱっと明るくなった。同席していたU・M社の担当者が気まずい表情でノード氏に寄り添う。私は思わず席を立った。

「ちょ、待ってください。今、NJPLから通信が――」
「宇宙を汚染しない為に、生物汚染の確率を1万分の1にする条約だ」
「えっ」

 こちらを制止するように掲げられたノード氏の青白い掌を見ながら、私は額の汗を拭った。180人規模の会議室内で、何人かの技術者達が席を立ち始める。グレイヘアーをポマードで丁寧に撫でつけたノード氏は、くせ毛混じりの私の頭髪を見て大袈裟に顔を顰めた。

「裏を返せば、有人探査が惑星を汚染するリスクを知る為には、40兆個の細菌を宿した人間が『実際に』その地を歩かなくてはならない。……君の研究が進めば、人がロケットに乗らずとも惑星を調査出来る時代が来るだろう。だが、人類が知りたいのは機械が届ける虚構の映像じゃない。宇宙と言うフロンティアの真の熾烈さ、過酷な大地の苦しみで人がどうなるのかを我々は知りたいんだ。条約は、その裏にこそ本質がある。日本人じゃ分かりにくいかも知れないがね」
「待ってください。次の検討会は、」
「この検討会のおかげで、月面で精巧な技術を駆使する宇宙飛行士を養成することが何より現実的だと分かった。素晴らしい研究だったよ、トキワ……来週からNJPLに戻りなさい」
「あ……」  

 会議室北側のドアが開いて、ノード氏のスーツのストライプ柄が目の前を通り過ぎる。どこかで見た光景だ。そうだ、全日本缶サット甲子園のプレゼン大会の後だ。あの時も頭の中が真っ白になって、呆然と立ち尽くしていただけだった。
 言いたい事がある、なのにうまく言葉が出て来ない。

「トキワ!」

 私の名前が遠くから叫ばれた。カールだ。倭の痩せた背と濡れた睫毛が脳裏に思い浮かぶ。言葉が出て来ない、じゃない。追い掛けて話を聞いてもらわなければならないのだ。
 私は壇上を駆け下りて、ノード氏とU・M社の担当者の後を追いかけた。廊下に出たところで、外国人スタッフと肩がぶつかる。舌を打つ音が聞こえ、よろめきながら壁を手で押す。無理やり推進力を得ながら、ストライプの背を追いかける。

「ノードさん、ちょっと待ってください!」
「おい、トキワ!」

 誰かに呼び止められる。NJPLから数日前にこちらに来た別のスタッフだった。

「何をやってる! 落ち着けって」

 両肩を掴んで止められる。だが、私は構わずノード氏に向かって叫んだ。

「主力の探査能力は無いとしても、オンサイトは言わば後方支援でっ!」
「おいって!」

 身体をひっくり返され、澄んだ碧眼に顔を覗き込まれた。甘いムスクの匂いがする。フランス人の同僚は、私を窘めるようにして言った。

「やめておけよ。急に決まった検討会会議だ。まだ挽回の余地はある。ここで下手なことはするな」
「オンサイトにはきっと次はある……でも、私はすぐにNJPLに戻らなくちゃいけない。検討会が急に決まった時点でなんとなく察していたことはあった」
「トキワ……」

 会議がスタートして直後、天道倭の名前がいきなりスクリーンに映し出された。2年後に予定されている月面着陸計画の中心人物として、倭を広告塔に打ち出すというものだ。実際のミッションでは、過去にISSでの作業経験がある年長の宇宙飛行士が指揮を執る。だが、倭がいなければ月面着陸計画はあり得ないとでも言うように、ノード氏は倭に過大な期待を寄せているのは明らかだった。

「会議のはじめにでた戦略計画案、その時点で声を上げるべきだった。ごめん、ちょっと手を退けて。ノードさんを追わないと」
「テンドウのことだろう。君は、彼と古くからの知り合いらしいな。EVAの訓練で一悶着あったのは聞いたよ。でも、訓練で肉体を酷使するのはみんな一緒だろ?」

 眉を下げて、子どもを諫めるような顔をする。

「彼自身も自分の役目を理解しているはずだよ。じゃないとトキワ、今度は君が袋小路に入れられるかもしれないぜ」
「……なら、よけいに立ち止まれないよ」

 同僚の手を振り払う。振り払った自分の手が震えている。誤魔化すために、背中に隠した。
 フランス語を使って、目の前の同僚は私に聞こえないように言った。

「トキワ。ここじゃ君は無力だぜ。なんの実績もないんだからな」
「よくわかっているよ」私は自分に言い聞かせるために、二度頷いた。「私ははじめから袋小路にいる。だから踏み出さないといけない」

 第二会議室を出て、廊下を右に折れる。ノード氏が応接室に向かっているのが分かった。そこには彼のスーツケースと航空チケットが置いてある。私は走った。逆の通路の先にあるトレーニングルームには倭がいるはずだ。出来の悪い映画なら役者が全員揃ったことになる。

「……お待ちくださいッ!」

 ドアが閉まる直前、隙間に右足を突っ込んでやった。足の爪が割れて激痛が走る。私は奥歯を噛み締めながらU・M社の同志を睨みつけた。

「いい。技術者も身体が資本だ。入れてやれ」  

 ドアの隙間から奥にいる人物が見える。角ばった顔に、青白い肌。神経質な気性は肌を刺すように伝わってくる。

「ノードさん、しかし」
「早くしろ。私も時間がない」

 ようやくドアが開いて、部屋の中に足を踏み入れる。

「失礼いたします」
「ああ、本当に失礼なやつだね。だが私はこれ以上君の言い訳を聞く気はないぞ」

 ノード氏はソファに座り、腕を組んでふんぞり返った。態度も大きいが国外への影響力も強く、JADAの宇宙探査計画の外部評価委員会の一員として、日本の宇宙計画にも関わりを持っている。  
 私のような立場の人間が楯突いて良い相手ではない。それでも、オンサイトを”ダシ”にしてでも聞いてもらわなければならない話があった。

「申し訳ありません。どうしてもお伝えしたいことがあり……」
「以前はチャールズが委員長を務めていたからな。NJPL出身の君にはもう少し甘かったかも知れないが。ピンで空に留めて星座にしてやりたいくらい面倒な女だね、まったく」  

 NJPL所長であるチャールズ・バトラーは、かつて金星探査機「マゼラン」や、土星探査機「カッシーニ」など多くの宇宙探査ミッションに携わった人物だ。好奇心旺盛で職人畑なチャールズとは真反対にいるような男が、ノードだ。正直言って良い人物とは言い難い。しかし、NNSAに所属する以上彼に従うべき事柄は多くある。ノード氏を含め、2019年現在のNNSAが目指しているのは、「月」だ。

「今年度の戦略計画案ですが……、」

 ぱ、と青白い掌が向けられた。黒い皮張りのソファが軋んで、数多くのトロフィーとメダルが飾られた応接室に不機嫌な声が響く。

「リスクの話だ。優秀な宇宙飛行士とロケットが用意できれば、『二次対策』とやらに貴重な費用を投資するのは無駄……いや、リスクが大きいとは思わないかね? 中国もロシアも数を競うようにロケットを打ち続けている。君がNJPLの古いデスクに座って何万行ものプログラムからひとつのバグを見つけては修繕しボスから叱咤されている間に、誰かが月面を支配してしまうかもしれない。君は自分の仕事をどう思っている?」
「どう思っている……ですか」
「そうだ」
「……オンサイトを確実に制御するためには、テストを繰り返し、なるべく多くの方から改善点をご指摘いただきそれを実行するほか、信頼性を高める方法はないかと。失敗を重ねてゆくしか、確度を上げることはできません」
「君はオンサイトだけでも宇宙探査が可能になると言ったな。たしかに、有人宇宙ロケットを飛ばすよりエコで人道的だろう。それで、それが岩にぶつかって転げたら誰が修理するんだ。JAFでも呼ぶのかね」

 揶揄した声だった。私は両手を後ろで組み、拳を握る。

「その点については、VRの連携不備も含めて、自動運転機能も日々改善を加えているところでして、」
「ミスをしない人間がこの国から月へ飛び立ち、無事にミッションを成功させ多くの旗を立ててくれれば、管理をする者としてはそれ以上望む事は無いんだよ。話は終わりでいいかな」
「そのことですが……。技術者風情が何を言うものかとお思いでしょうが、天道倭ひとりに期待を掛け過ぎるのはあまりに重荷が過ぎませんか」  

 貧乏ゆすりが始まって、「Damn it」とスラングが聞こえた。食指が突き付けられて、私はその迫力に無意識に後ずさる。

「どの国も、国力の底上げの為に火星を掌握する方がメリットのあることだと分かっているんだよ」

 ノード氏はスーツの胸ポケットから赤い輪ゴムを取り出した。それを指に引っ掛けて、伸ばしたり丸めたりを繰り返す。

「……だが、NNSAは〝月〟を攻略するんだ。1969年以降、半世紀も月を目指さなかった理由はタイミングのせいだ。最初の会議で言ったな、『衛星の攻略無くして、惑星の掌握なし』と。失敗する金はもうない。だから時と人材と世風を待った。……民間企業が月旅行と銘打って人々に再び月への羨望を思い出させたこの今が絶好のチャンスなんだよ。宇宙開発もひとつのビジネスなんだ。何の話題にも上がらず月に行って何の意味がある? EVA訓練の動画提供が気に入らないならその理由を明確に述べてくれ。起こってもいない悲劇に怯えて妄想を話すようなら今すぐ部屋を出て行けよ。あとその髪、もっと短く切ったらどうなんだ?」  

 宇宙開発の躍進の為にスーパースターが要る――道理は分かるが、マラソン完走と同等程度の疲労を強いられるEVAミッションは精神的にも肉体的にも宇宙飛行士を苛む。

「ひとりの人間にできることには限界があるはずです」
「限界は私が決める。少なくともお前が決めることじゃない」

 後頭部からじわじわと怒りが湧き上がってくる。緊張はどこかへ吹き飛び、頭の中が異様に澄み切っている。倭は期待をしてくれている人々を無碍には出来ない。必要以上のプレッシャーが今この時も掛かり続けているのだ。それを、赤の他人が勝手に限界を決める――?

「……2010年の水中事故の件ですが、」
「水中事故?」
「過去の悲劇を踏まえて、以前の会議では宇宙服の改善を今度こそ行うと決めたのに、計画が頓挫しています。天道倭には来年のISSのミッションもある。……EVAの動画配信よりも優先することは、宇宙服のメンテナンスや宇宙飛行士自身のケアを行うことではありませんか。必要であるなら、宇宙服自体の開発も推し進めるべきだと考えています。月面で宇宙飛行士が一人でトラブルに巻き込まれた場合にも即座に対応できるような。NNSAの技術力は、これまで培ってきた経験と失敗を活かして、そういった人の命を守るものづくりに活かすべきではないのですか」
「黙れ!」

 鼓膜のあたりでキーンと耳鳴りがする。あまりの剣幕に、私は顎を引いた。

「ドアに足を突っ込んでまで私を追い掛けてきたのは、NNSAの本質を変えられるとでも思ったからだろう? だが残念だ。この時間にそんな大層な意味は無い」  

 ノード氏がソファから立ち上がる。私は壁掛け時計を見た。ノード氏の時刻は通常の時刻より15分早く進む。

「君、早くスーツケースを持って来ないか!」
「は、はい!」

 ウサギのようにびくついたU・M社の担当者とは今後綿密な話し合いが必要になるが、今は同胞の裏切りに気をやっている場合ではない。

「……私は今後NJPLに戻ります。また連絡をさせてください!」

 握手の為に手を伸ばすと、虫を払うように手の甲を打たれた。

「オンサイトは君の所有物か。違うだろう。必要があれば、別のスタッフに取り次ぐ。君はもういい」

 邪魔だと言わんばかりに肩を押される。私は塩辛い味噌汁の味を舌に思い出しながら、ノード氏の前に立ちはだかった。

「宇宙飛行士本人が何らかの不調で訓練に挑んだ場合、本来気付けたはずの不具合が見逃される可能性があります。つまり、NNSAが2010年に引き起こしてしまった凄惨な事故が、万が一にも今回もまた――」
「なにをとぼけたことを」  

 パン、と音がして、私の胸元から何かが落下した。それは赤い輪ゴムだった。ノード氏が手癖で使っていた無数の輪ゴムの内のひとつが、私に向かって撃たれていた。

「ここにいる時点で君の心臓は私の管理下に置かれている。組織の意味が分かるか? 全員で同じ方向を向いて進む人間の集合体だ。君が逸れるというなら、NNSAの人間ではない。妄想でチャンスを無碍にするのは愚か者がすることだ。……残念だったよ。チャールズは反対したが、デブリ回収を視野に入れた再利用型ロケットの案はなかなか良かったのに。――では、良い週末を」  

 小さな金属音を立てて、黒塗りの扉が仕舞った。
 扉の上部には、円形のガラスが填められている。そのガラス一枚を挟んだ向こう側に、誰かが立っていた。鷲色の虹彩に、銀色の星を散らしたうつくしい目。それがわずかに見開き、離れてゆく。トレーニングルームから別室へと移動していた倭だった。私は彼の背中に向かって謝罪した。

 ――ごめん。
 ごめん、駄目だった。倭。

 足下にあるアルミのごみ箱を蹴り上げる。立ったり座ったりを繰り返して、痒くもない頭皮を掻き毟った。何かを言いたい、けれどそれが言葉にならない。またうまく出来なかった。
 私は今、宇宙飛行士でもなければ、ロケットの開発者でもない。それが宇宙開発の最前線に来て分かりたくもないほどよく分かった。どこで生きていても、誰と出会おうとも、自分という人間は揺るぎなく無力だ。

「……くそッ」

 倭と会わせる顔がなかった。会って何を話せば良いか、もうまったく分からなかった。人生は設計図通りになんてならない。なるはずがない。  
 NJPLへ戻る為の荷造りを、今すぐ事務所に戻って始めなければならなかった。だが、今は足に力が入らない。恐ろしいほどに嫌な暗闇だけが、目の前にある。



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