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被害者だったはずが加害者に!?わたしの思考の落とし穴

最近あったいやなできごとで、わたしは被害者意識になっていることに気づいた。


あの人のせいでいやな気分にさせられている、と。


そのときはめちゃめちゃムカついてキーーーーッとなっていたが、それはそれでいいと許可し、気持ちが落ち着くまで心の中でずっと怒っていた。


なかなか収まらない怒り。なんであの人はちゃんと仕事してくれないわけ?わたし何も難しいことお願いしたわけじゃないよねって。


ようやく気持ちが落ち着いてきたころに考えてみた。


わたしのどんな思考がこの現状をつくり、何を気づき手放さなきゃいけないのだろうか?と。


一連のできごとを思い返しているうちに、ハタと気づく。


あ、わたし被害者意識になっている。しかも、このいやな気分をそっくりそのまま、いやそれ以上にいやな気分になることをいってお返ししてやろうと考えていたのだ。


あっぶね。あやうく、被害者から加害者になってまうとこだった。


どうやってお返ししてやろうかと考えていたことで、もう一つの思考にも気づく。


奪われる前に奪わなきゃ、だ。


物理的に何かを奪われたわけじゃない。でもこのままいけば奪われるかも、と無意識にまだ起きてもいないことにまで意識が向いていたのだ。こわっ!


わたしの思考パターンはこうだ。
★いやな気分にさせられた(被害者意識)

それ以上にいやな気分にさせよう(加害者意識)

★奪われるかも(被害者意識)

奪われる前に奪うんだ(加害者意識)


そもそもいやな気分にさせられたのではなく、わたしがいやな気分になる思考を選択しただけにすぎない。


報告やお願いや質問に対して、何のアクションもなかったことで勝手な解釈をしただけなんだ。


ないがしろにされ、相手にされず、大事にされないかわいそうなわたし、とまるで悲劇のヒロインか!とツッコミたくなるようなおかどちがいな思考を選択していることさえ気づかず、それを知られないように隠し、怒っているということをにおわせながら至極真っ当なことをつらつら並べ、相手をコントロールしようとしていた。


あぁ、そうやって自分を守ろうとしていたんだなと気づいたら恥ずかしい。


気づいたら手放し、思考パターンを変える。


そもそも何も奪われていないのだから奪う必要もないし、見えないだけでちゃんと手つづきがすすんでいるかもしれない。


何も返答がないってだけで、ちゃんとすすんでいるのであれば何も問題ないではないかと思えたらホッとしたし、ただ単に忙しすぎてるだけなのかもしれないと、相手の置かれている状況も考えようとしている。


結局、いやな気分になったのって、わたしが自動的にまちがった翻訳を採用したからいやな気分になっただけじゃないか。


わたしの思考パターンは、被害者になった途端、加害者に変貌するらしいということ。これっていろんなできごとに当てはまるなと思った。


たとえば夫婦ゲンカになるときって、自動的に相手にいやな思いをさせられたという被害者意識になり、次の瞬間いい返すことで自分の気持ちを相手にぶつけ加害者になる。


奪うことに関しても、わたしも日々たくさん奪ってきたなってことに気づいた。


たとえば今日買い物へ行こうと歩いているときに、韓国人女性が資料みたいなものを見せながら「アニョハセヨ~、コンニチハ~」と、韓国語とカタカナみたいなイントネーションの日本語で声をかけてきた。


何かの勧誘かイベントの紹介だろうなと推察したわたしは、「大丈夫です、ありがとうございま~す」と手で先を制し、足を止めることなく歩きさった。


そのとき、断ったことに対してちょっとモヤモヤした。


断るにしても、話を聞いてから断ればよかったかな?と思ったのだが、それは間違いだと思った。


どのみち断るのであれば、わたしに話して聞かせるという時間を彼女から奪うことになってたなって。


わたしが即座に断ったことで、彼女は無駄な時間をわたしに奪われずに済んだんだと思う。そして本当に聞きたいであろう人に会うための時間を与えたということにもなる。


そう思ったら、モヤモヤした罪悪感は消えた。


奪うって物理的なモノばかりじゃなく、時間や自由、思考や選択肢、夢や希望など目に見えないモノも当てはまると思う。


そう考えると、たくさんの人から奪ってきたのではないかとさえ感じる。


奪われる前に奪う、奪われたから奪い返すのではなく、与える人、与えられる人でいたい。


望まない思考パターンに気づけたら、手放し、修正し、望む思考パターンに変えていけばいい。



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