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②何故、ナメクジになったか

こんばんは、小山です。
今日は我が家の大黒柱さんが35歳が出張の為、
勢いでピザを頼んでしまいました。

noteを更新し一晩たち、こんなにも多くの方々にご覧いただけるとは
思いもせず、驚いております。誤字もあり恐れ入ります。

コメントまでいただき誠にありがとうございます。
貴重な24時間の一瞬の大事な時間を、私の支離滅裂な
文章に少しでもご覧いただき、イイね!までありがとうございます。私が元気を頂きました。


長くなりますが、
何故私が24年間ずっと自分を許せない腐ったナメクジになったのか
戒めを込めて書きたいと思います。
凄く、悩みながら書きます。正直怖いです。私が最低の人間だからです。
支離滅裂です。嫌になったらどうかそっとフォローを外してください。

24年前のあの日の私

私は当時中学生で、なぜ中学というのはたまたま同世代の
対して仲も良くない他人同士が狭い箱に入れられるのかが意味が
分かりませんでした。

視野も狭く、何とかこの狭く居心地の最悪に悪いコミュニティに
なじもうとイジメられまいと皆必死だったのではないかと思います。

今思えば上手く擬態できれば良かったのですが、出来なかった。
まだ入学したばかりで、昨年まで小6でアゲハ蝶を捕獲してニヤニヤしていた野生児まる出しの私は、女のしたたかさ、かわいいねは建て前、トイレでの本音が本音で女の怖さが分かりませんでした。無神経でした。
女は女が一番の敵。そして自分自身がもっとも憎い敵。

同級生に流され入ったテニス部が間違いだった

同級生で話せる人ができたので、
入部する部活を迷ってるときにテニス部に誘われました。

そこで、同じクラスのあまり良い印象がお互いなかった
クラスメートCさん(身バレを防ぐためにもぼかしています。)
に「うわ、嫌な奴が来た!」と陰で言われたのを今でも覚えています。

24年前の事なので思い出せませんが、
入部希望のガヤついた教室で今でも彼女の声は蘇ります。
私が何かと気に食わなかったのか、気に触ったのだとおもいます。

何かにつけ3人で呼び出され、
「調子にのらんといて。なんで先輩とバレーボールしてんの?」と、教室の廊下だったり、クラスの教室だったりと囲まれました。

当時姉と仲良くしていた後輩の方々が心配して下さったのです。
昼休み中にバレーボールに誘われ、遊んで頂きました。

小学校の頃仲良くしてくれていた、上級生のおねえちゃんがいて
助けて欲しくて電話で相談したり、私はどんどんとおかしくなっていたと母親からも言われました。

これは軽いいざこざでイジメではないかもしれません。
ただ、当時も私には同級生から言われた
「なんでここにいるの?」のセリフが段々と毒になり
抜けない針に代わっていきました。

同じテニス部だったCさんからは「小山さんて暗いなぁ。」とか「なぁ、
ノート書いてくれへん?」と席が近くなったときは「死んだな。」
と思いました。ノートきれいに書けないし、「自分で書いた方がいいですよ。」と卑屈100%勇気で断ったので舌打ちされましたが、
「こいつ断るメンタルはあるんか」と思われたのか、
それ以上の事はありませんでした。

最低な私が悪魔だった。

中1の夏テニス部を辞めました。
同じクラスのCの彼女がその他ABさんと私を廊下に呼び出しました。

「なぁ、小山さん。なんでテニス部やめんの?」

何故かって教えて差し上げますよ。と今なら口車でかわすことくらい出来ますが、私はおどおどして「足が悪いから、それと他の同級生からいじめられてしまったから。」
と、何も悪くない同級生の名前を咄嗟に出しました。

私は最低の事をしました。
友人は何も悪くありません。自分自身を守るために嘘をつきました。
その日から、自分は最低だと思い呪いました。
幼稚園時代から交流があった友人とは中学3年で同じクラスとなりましたが、私は一切話すことができませんでした。
謝ることすらできなかった。

テニス部をやめても、心は晴れませんでした。
私はいじられる側から、イジメる側に回ることもありました。
同じクラスだった別の子を呼び出して「私の悪口いったよね?調子に乗るなよ」と、私が言われた事を他の子に言ったのです。

当時弱かった私は、うつむく友人を見て自分と重ねました。
でもこう思いました。「私は強いんだ。こいつは弱い。だからいじめて
いいんだ。私が呼び出されたとき助けてくれなかったくせに。」
完全に腹いせです。屑の発想です。

呼び出し、囲まれ彼女はどんな気持ちでいただろう。
時間を断つたびに罪悪感で何も出来なくなり、遅刻が増えました。
呼び出した友人には謝罪しましたが、いいよと言ってくれたけど、
心では許せなかったと思います。

因果応報

クラスが秋から冬になった頃、テニス部の同級生とその他ABさんが喧嘩をして孤立していました。何故かBさんと席が近くて話すようになり、
おかしなもので行動を共にするようになりました。

私はBさんと時々遊ぶようになり、友達になれたと浮かれていました。
町に出掛けた時にBさんの妹さんと出くわして、その帰りに私が冗談で今では絶対にしない失言をしました。
「Bさんの妹さん、ブサイクだね。」本当に死にたいような言葉を12歳の
クソガキは言ってしまった。

Bさんは激怒して段々と態度を変えました。
当然のことです。妹を同級生から今でいう「ディスり」です。
不快になるのは当然です。

これはやってしまった。
申し訳ないとBさんに電話で謝罪しましたが、
Bさんは許せていなかったでしょう。

いたずら電話

中学1年の冬
当時Bさんと気まずくなった私は学校に行けなくなっていました。
不登校気味で、早退を繰り返し今までの自分を悔やんで、
悔やんでも取り返せない現実に追い詰められていました。
因果応報の通りです。

ある日学校を休んでいたら電話がかかっていきました。
私が出ると小さい声で「ブス~馬鹿、アホ~」と馬鹿にした声で誰かが
電話してきました。
無言で母親に受話器を渡すと「もしもし?ゆかさんいますか?」
と隣のクラスの女子が何故か出てきました。
私は俯いて首を振って出ないと母親に伝えました。

「具合が悪いので切りますね。」と母は私を守ってくれました。
人をいじめて、因果応報でイタ電されたような私を守ってくれました。
すぐにBさんがしたなとわかりました。

その日の事は思い出せません。
ただ、私は母親を泣かせて、母の黒い綺麗な髪の生え際が薄くなって
剥げてしまうくらいに悩ませました。
自分なんか死んだ方がいい。生まれてこなければ良かったと思いました。
心にナメクジが生まれました。

クールで優等生の姉も俯いて、ぶつぶついう私がおかしくなって
ることを心配してくれていたし、父親は担任を自宅に
呼んで状況を聞いていました。

うちはおねえちゃんだけで安泰なんだろうな。
人を傷つけてのうのうと過ごして
引きこもってる私はなんだろうな。と。
ずっと思いました。
今でもそう思う時があります。

生きてていいのかわからない。

中学1年の頃は3学期は学校にロクにいけませんでした。
2年からはABCさん達から離れて、何とか登校できるまで
になりました。

ただ、今でも何気ない日常の穏やかな時間に
おもいます。
「生きてていいのかわからない。」
「こんな最低な私が子育てをしている。最低なのに。」
「中学になったら娘はどうなるんだろう。向き合ってやれるだろうか。」
「私は幸せにはなっていけない。」「こんな私と結婚して喧嘩して、甘えて
夫はどう思っているのか。」と
いろんな言葉を自分が自分に向けます。

それが1日に3万~6万回人は自分自身と対話するそうです。
私は24年間 1日ずっと自分を貶してきました。
あれだけの事をしてきて許していいのかわからない。
それが本音です。

今でもBeautyJapanにエントリーして良かったのか、
この記事をかいてよいのか、どれくらいの方がご覧になるのか
不安になりながら書いています。

でもこのままナメクジを飼ったまま生きてても
何にもならない。始まらない。
そう思っていたのも事実です。

迷いながら、戒めにも懺悔にもならないです。
ただ、人を追い詰める側、追い詰められる側両方になって感じた事は、
やった事はすべて自分に戻ってくることです。
そして、人間は間違いを犯し自分を呪うか、
行動を改めて誠実に日々を生きるかのどちらかで、
人生が大きく変わります。

私は呪う方に行ってしまいました。
だから人生の人生24年間。呪い、貶し、殺してきました。
それが戒めのように感じていたからです。

でも違うやんと。言われました。
自分を許すのも。呪い続けてきたことも事実、
過去は変えられない。でも1秒先の未来は?
今は?いい加減に目を覚ましや。とある人から
言われました。

明日は更新できないかもしれませんが、
月曜日に私を一歩気付かせてくれた
人との出会いをお伝え出来たらとおもいます。

長々とすみません。
これを書かないと前に進めないと思いました。










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