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〔111〕國體ハプスブルク大公の世界経略(2)8/27修文

〔111〕國體ハプスブルク大公の世界経略(2)
 近現代史の謎を追究する落合は、大東亜戦争の落とし処となった幾つかの事態のうち、下記の三点に関して特に強い疑問があります。
➀大戦後、満洲をシナ(中共)に渡したのはなぜか?
➁大戦後、台湾にシナ(国民党)を招き入れたのはなぜか?
➂朝鮮戦争における北鮮兵の実体は、何者か?
 
 まず➀であります。そもそも満洲の地は、太古以来WWⅡまでただの一度も支那(いわゆる中華世界)の領域になったことはありません。
 満洲事変の後、イギリスのリットン卿を団長とする国際連盟の調査団いわゆる「リットン調査団」が調査した時、満洲の地が支那(中華世界)の領内であった証拠となる文献を捜したところ、たった一つ見つかったのが『明境域辯〇』(○は落合の記憶の限界)とかいう論文でした。
 その論文は「明代に宦官の一人が勅命を受けて満洲へ赴き、“これより大明帝国領”とか彫った石碑をどこかに建てたと論じたもので、作者は京都帝国大学教授の内藤湖南です。
 『リットン報告』については周知として、ここは詳説を省きますが、要するに当時の満洲(東三省)を実効支配していた張作霖が、自分の政権の支配下に在る満洲について「独立国家でなく支那領土の一角」との意識を有している」と国際連盟に報告したものです。たしかに張作霖の肩書の「中華民国奉天省長兼督軍」もそれを示しています。
 ところが同じく大明皇帝の勅命により築いた「万里の長城」は、「ここから北は支那でない」との意識を明人が抱いていたことを示す証拠ですから、例の宦官石碑の意味を減殺するに十分です。要するに、内藤湖南の論文が決定的証拠となる筈はありません。
 ともかく満洲が支那領であったことを論じた文献は内藤論文の他になく、常に満洲を「化外の地」として扱ってきたことの証拠に満ちているのが支那の史書です。
 歴史地理学には「支那本部(プロパー・チャイナ)」とか「本部十八省」という語があり、古来支那固有の領土として意識されてきた十八の省を意味します。
 大清帝国(清朝)は、満洲族(女真)の愛新覚羅氏の軍が明末の混乱に乗じて支那と満洲の境界たる山海関を越え、支那本部に侵入したことから始まります。
 愛新覚羅軍の侵入に対して、明人の根幹をなす漢族がほとんど抵抗しなかったのは、そもそも支那の國體を担うのが商人階層だからです。国家意識よりも「家族中心意識」の、つまり一族と家族の身上と財産の安泰を至上の価値と心得る商人階層が、政体に期待するのは「家族人と資産と商取引の安全保障」に尽きるからです。
 つまり経済人を本領とする漢族は、合理的な政治コスト(税金)と引き換えに商取引の自由と生命財産の安全を保障してくれれば、政体権力の行使者がいかなる種族でも構わない、というわけです。
 さて、人類の生存と生活が「社会的機能によって分かれた幾つかの階層が構成する社会」に依存することは、「人類普遍の法則」として落合が年來主張するところです。
 「社会的機能によって分かれた幾つかの階層」は、いわゆるピラミッド型で最上層が最も狭く下るにつれて次第に広がり、最下層が最も広大です。
 階層の種類は、どの社会でも「祭祀」「軍事・統治」「商業・工業」「農業・一般労働」の四種で、おおむねこの順で身分の上下が決まる階層構造をなしています。

 この四種の階層がそれぞれの職能に応じて、たがいに補完しながら社会を構成するのですが、ここで銘記すべきは、國體の中核を担う階層が、それぞれの属する社会によりm必ずしも同じではないことです。
 支那の場合、古来國體の中核をなすのは経済人(商人階層)です。彼らは「法律制度を立てて人民から徴税し、暴力装置(軍・警察)を維持して内外の治安と商取引の安全を守る政体」を、「自分らが主人としてが養う番犬」と意識しているのです。
 つまり、よく吠えて敵を脅かし、主人を護り、質素な餌で満足するのが「よい番犬」なのです。「番犬」とは言葉を換えれば「傭兵」です。
 古来、犬が主人の手を噛む例は多くないが、傭兵が雇い主を裏切る例は少なくありません。例えば古代ローマの皇帝は、東西いずれにおいてもゴート族(ゲルマン人)の傭兵隊長に牛耳られていましたが、支那皇帝も同様で、西戎や北狄の騎馬民族が、或いは外敵として侵入し、或いは傭兵となってこれを防ぎますが、その侵入者ないし傭兵が、やがて帝位を奪って新たな王朝を建てるのです。

   漢族王朝の大宋帝国を倒したモンゴル人が建てたのが大元帝国で、その元朝を滅ぼした明教(マニ教)徒の漢人塩商朱元璋が大明帝国を立てます。
  漢族が建てた大明帝国はもとより商業に重点を置いた経済国家ですが、宦官団に乗っ取られた政体が商人階層に、「名目的な官位」を、それに伴う身分的特権を添えて売り付ける「売官制度」が流行し、國體を担う商人階層もまた進んで之を買う体たらくです、
 國體の中核を商人階層が担う大明帝国が、商人の生活習慣で文化でもある賄賂構造を温存したのは当然のことで、お蔭で経済は大発展しましたが、外交・軍事では北虜(満洲女直の騎馬隊)と南倭(日本・高麗・華南人混成の海賊)の侵犯に悩むうちに、最大の倭寇ともいうべき豊臣秀吉の朝鮮出兵に際会しながら「保護国朝鮮を護れず」とあって崩壊してしまいます。
 朱氏から大明帝国の政体を奪った満洲族の族長ヌルハチは1559年生まれで、織田信長より二十五歳下です。
 満洲族を統一して「後金国」を建てたヌルハチの皇子ホンタイジが、山海関を越えて明朝に侵入したのは寛永二十一(1644)年のことです。

 大明帝国の宮城に侵入して崇禎皇帝を自死に追い込んだ反乱者李自成を、明の将軍呉三桂と協同して行った討伐が、崇禎皇帝の仇討と解されることにより名分を得たホンタイジは、大明帝国の政体を引き継ぐ形で大清帝国を建てます。
 通俗史観はこれを「満洲族による支那の征服」と解していますが、巨視的に観れば、支那國體の中核をなす「商人階層」が政体の最重要機能たる「治安の維持」の任務を、非漢族のホンタイジに委託したことになります。
 もとよりこれを理解するのがホンタイジと満州族で、明帝国の政治制度をそのまま持続しながら、「満漢平等」を唱えて主要官僚を満漢同数としたのは、大明帝国の看板を大清帝国と書き換えたと見ることになります。
 つまり支那商人連合がホンタイジを「番犬」とした事になり、明の政治文化をそのまま踏襲して、終期を迎えた大清帝国は、「征服王朝」よりも「浸透王朝」が相応しいことになります。

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