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〔72〕白頭狸の時務随想 佐伯祐三展を観て国體意思を感ず

〔72〕白頭狸の時務随想 佐伯祐三展を観て国體の意思を感ず
 五月十一日木曜日に大阪市の中之島美術館で佐伯祐三展を拝見してきました。
 佐伯祐三のファンは圧倒的に女性が多い、と言われますが、ざっと見たところ観客の七割以上が女性でした。
 まず感じたのは展覧された作品数で、「よくもこれだけ集めた!」と驚嘆いたしました。続いて感じたのは、この展覧会を企画した人物が秘めた魂胆です。単に佐伯祐三の作品を並べたのではなく、密かに秘めた魂胆が確実に感じ取れたのです。
 第一に、髪を高く結った年増女の肖像で、「佐伯米子像」と題していたと思いますが正確な題は忘れました。熊田司『佐伯祐三 生涯と作品』によれば、これは三重県立美術館の蔵品で、長年佐伯祐三及びその作品を研究してきた研究家や美術評論家たちが「佐伯米子」の像と見立てたものですが、近来、旅館業大谷安太郎と、その妹で本郷彌生町に住んでいた置屋女将の大谷さくの肖像が発見されて、この肖像の主が佐伯米子でなく大谷さくであることが確定しました。
 新発見の「大谷さく像」もこの展覧会に出陳されていましたが、両品を離して展示した理由は何か? まあ色々あるのでしょうが、同一人物の肖像の一方を「佐伯米子像」と題し、他方を「大谷さく像」とするのは、さすがに紛議を巻き起こすので、離れて展示したとみるのが自然です。
 ところが、佐伯祐三の代表作とされるコルドヌリ(靴屋)については、全く同じ画題の作品が二点並んで展示されています。一つはブリジストン美術館蔵として古来有名な作品ですが、最近は石橋財団アーティゾン美術館の所蔵となったようです。
 もう一つは、茨城県立近代美術館が比較的後になって購入した作品ですが、これを佐伯祐三の自作はおろか、米子の模作と観る人もいないでしょう。つまり画家とも呼べないような何者かがブリジストン所蔵品を模作したものであることは、並べて見れば誰にでも判る筈です。

 そもそも、ある画家がパリの街角で恰好な題材を見つけて写生したのは事実ですが、その画家が構図も何も全く同じの作品を描くことは考えにくいことで、しかも二つの作品は一見しただけで技量が全く異なっているのです。
 さらに言えば、茨城県立博物館所蔵の方は、ただブリジストン蔵品の構図を表面的に真似しただけで、描かれた部分の異味を理解していないことがあからさまなのです。
 一例は、乾燥するために並べた靴用の革を抑えるヒモが宙に浮いていることで、本歌のブリジストン蔵品がしっかり張られているのとは、全く異なります。
 また、茨城県立博物館所蔵品では、ドアの右側の壁に、赤橙色の紙のような訳の分からぬものが貼られていますが、本歌では、これは彩色された夕刊紙で専用ポストに差し込まれています。
 模作者は、部分部分の正体がわからぬままに本歌を真似したことが歴然としているのです。よくもまあ茨城県民のカネを何千万も使ってこんな代物を購入したと呆れますが、今回の展覧会の企画者がこれを本歌の真横に並べたのは、ただの不注意ではないはずです。

 今回は巡廻展で何十万人がこれを観る訳ですから、白頭狸でもたどり着ける右の疑惑に同調する人が多出することを、企画者が期待したのではないでしょうか。
 これを機会に美術愛好者から疑義が炎上して佐伯問題に終止符が打たれ、ひいては戦後の日本美術界に内在する腐敗、すなわちおよそ近代国家・文化国家と称することのできない汚濁を除染し野蛮を洗滌する機会にせんとする國體の意思が見えたように思います。
 ちなみに大谷さくと娘の菊枝については、吉薗周蔵日誌と佐伯祐三が文案した「救命院診察日誌」に詳しく書かれています。一旦は祐三の兄祐正の妻となり自死したようですが明確でなく、それについて米子も公表していないと思います。
 佐伯祐三の父光徳寺裕哲と大谷家の関係は、光徳寺と米子らが最も隠したかったことですから、三重県立美術館蔵品のモデルを大谷さくと知っていながら、関係者はこれまで沈黙していたのですが、美術評論家の故瀬木慎一氏が大谷家の遺族に遇って真相を突き止めたのです。
 その詳細は、ここでは省略します。


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