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〔131〕張作霖・張学良とは何者か?

〔131〕張作霖・張学良とは何者か?
 張作霖の出自に就いて、通説は奉天府海城県(現在の遼寧省海城市)の農家に生まれた、とされています。
 白雲荘主人『張作霖』は「貧に堪えかね、家族を率いて満洲へ向かった父が病死した後、母が再婚した馬医の義父と反りが合わなかった作霖は、少年時代に旅館の番頭となり、云々」と説いています。
 今日の通説もほぼそんなところに固まっていますが、落合は数年前にネットで発見したある記事に頗る興味を持ちました。
 内容はうろ覚えですが、何でも「奉天で清朝初代皇帝ヌルハチの東陵か、二代皇帝ホンタイジの北陵を護る代々の家系があり、それが張作霖の実家である」とかいうもので、「現代満州のどこかの大学の大学院で歴史研究している女性が提出した修士論文」との事だったと思います。

 当初は一笑に付した落合は、当時は十分理解しなかったその説を確かめようと、今朝(10/13)検索した所、見つかりません。「あれは夢だったのか?」 
 いやそんな筈はないと思いながら、落合が本稿を打ち込んでいるのは、張作霖の出自が実は愛新覚羅氏に関わる家系で、乾隆四十七年に始まる「満漢分離策」遂行上の重要な人材として、隠れた保護・支援の対象になりながら成長したフシを、落合が感じたからです。

 ごく幼時に家系(Y遺伝子)と生来の素質を基準にして選んだ子を國體参謀衆の候補とし、秘かに観察しながら、必要な時は間接的に支援する係がワンワールド國體衆にいることはたしかです。
 そのことを、大塔宮護良親王および山階宮晃親王・久邇宮朝彦親王の事績を調べていて勘付いた落合が、高松宮にお仕えした國體舎人に教えを請うた所「その考えで宜し」とのことでした。
 これにより「國體参謀の選定と保護・要請」の方式を発見した落合が、この知見をもって歴史事象を分析しますと、あるはあるは! 続々とその例が見えてきます。
 このnoteで述べてきた宋三姉妹の父宋嘉樹も、彼と対発生したかに見える孫文も間違いなくその例です。他にも黒田長溥の実子で竜造寺家に入った杉山茂丸も、その國體参謀としての後継者と観られる矢次一夫もその例と間違いありません。
 かくのごとき経緯で、張作霖一件を調査していた落合は、「世上張作霖の長男とされる張学良はこの例もこの例」と洞察しましたが、さらに進んで、「張作霖もあるいはその例ならんか?」との考え、浮上してきたのです。

 ところが今朝に見たインターネットでは、あの時の記事がなぜか消えていました。これで手掛かりを失った落合は、張作霖の出自の探求作業はしばらく休むことにしますが、張作霖が新民府の豪家趙家の娘を嫁に貰った経緯についての通説は典型役な作り話で、真相はワンワールド國體が、端的に言えば愛新覚羅氏の誰かが、謀ったものとみるべきものと思われます。
 というわけで、以下は張学良に重きを置いて進めます。 

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