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「ホ」ルヘ・ルイス・ボルヘス

チュニジアの風を浴びた。それは俺が実際にチュニジアに住んでいるからとかチュニジアに降り立ったその飛行場の外でといった話ではなくチュニジアはエッタドハメンに住む俺の義理の妹が送ってくれた荷物のダンボールを開封した時にその何か不思議で何処か感傷的とも思えるほどの10,000キロほど離れた彼方からこちらまで物が届けられたという現代ではもう当たり前と化してしまったかもしれない事象に人類の先頭に立つ現代人の端くれとして敬意を込めて形容した言葉だ。ダンボールにはチュニジアのお菓子やら研究結果がまとめられたバインダーなどが入っていてそれらはこれまで送ってきた荷物とさして変わらない様な内容物だったから特に何も新しい感情は持たなかったけれど段ボールの底の方に入っていた球形をした掌サイズの置き時計に俺は関心を持った。球形をしているから平たい場所やベッド横のサイドテーブルや床なんかにおいてもコロコロと転がっちゃって置き時計としてはその機能を十分に発揮できていない気がするけれどもダンボールにはその球形の置き時計を置くための置き時計台なる木製の丸い窪みの入ったそれらしきものは入っていなかったから義理の妹がそれを入れ忘れたのか(もしその様なものがあったとして)そもそもこの時計はこういうものとして存在しているのかなんてことを考えながら俺はその球形の時計をサッカーボールのようにしてリフティングをしていた。その時自分をマルセロ・ヴィエイラ・ダ・シウバ・ジュニオールだとかロナウド・デ・アシス・モレイラなんかのように錯覚していた様に思うけど錯覚と言ったら本当に心の底から自分がマルセロ・ヴィエイラ・ダ・シウバ・ジュニオールだとかロナウド・デ・アシス・モレイラなんかのように信じきっている様な状態のことを言うわけで実際にはマルセロ・ヴィエイラ・ダ・シウバ・ジュニオールだとかロナウド・デ・アシス・モレイラなんかのように思うその横で(その横という表現は思考を三次元空間的に仮想した際のその隣の意)自分は自分だという意識もあったから錯覚という表現は妥当ではないと結論づけたところで腹が減ったからリフティングをやめた。デロンギのコーヒーマシンから一杯のコーヒーを出し少し焼き色がつく程度に焼いたロールパンに目玉焼きを添えてそのコーヒーカップ(デロンギのコーヒーマシンから出したコーヒーを一杯(一杯というのは世間的に見た時100人いたら80人以上が「これは一杯分だ」と思えるような適量)入れたその入れられたコーヒーとそれを入れてある器としてのコーヒーカップそれらを合わせたもの)とパンと目玉焼きを添えた皿を両手で持ってそれをダイニングテーブルまで運んだ。今日はどんなニュースがあるだろうか。一面には何か大きく見出しが書いてあり何か意味ありげなニュースが出ていると思う。そして一面の右上には新聞の新聞名(〇〇新聞と言った様なその新聞を発行している会社名や地域名などを冠したもの)が書かれておりそれを見るとなぜ俺がこの新聞を取っているのかなぜ数あるうちでこの新聞社の新聞を選んだのかそもそもなぜ俺が新聞を取っているのかがよくわからなくなって今日この今朝届けられた12月23日号を持って新聞を解約しようと決めた。浮いた金で何をしようかそもそもこの新聞社にひと月いくら払っているのだろうか毎月定額が俺の銀行口座から自動で引き落とされているという事実に気分が悪くなってデロンギのコーヒーマシンから出した一杯のコーヒーの7分の1程度とロールパンふたかじり目玉焼き半分を食べた胃からそれらのいくらかをトイレに吐いた。吐いたおかげで少しは気分は良くなってダイニングテーブルに戻っている途中少し離れて見たその最後の12月23日号の新聞が少し大事に思えたから初めから終わりまで読んでみることにした。政治の話やスポーツの話科学の話や遠くの国の文学賞のことなんかが書いてあって特段俺の興味を引くような話題はなかったからその最後の12月23日の新聞をくしゃくしゃに丸めてボール状にしリフティングを始めた。今度は錯覚なんて表現はせずに頑強な自我を意識しつつ自分がマルセロ・ヴィエイラ・ダ・シウバ・ジュニオールだとかロナウド・デ・アシス・モレイラなんかのようなった気分でリフティングを続けそれでもまだ何か持て余しているような感覚があったからさっきの球形の時計も混ぜて最後の12月23日の新聞とチュニジア球形時計を足先でお手玉のように交互に蹴り上げるリフティングを続けているうちに頭にどんどん哲学的な考察が降ってきた。リフティングは散歩に似ている。京都大学教授時代の西田幾太郎や純粋理性批判についてあれこれ考察していた時のカントが例証しているように散歩には思索を平時よりもより深くまでめぐらすことができるわけで散歩と似ているリフティングにも深く思索をめぐらすことができる効能があると俺は信じているし世界中の大学を巡っていけばこのことについて研究してる人間もチラホラ見えてくるだろう。リフティングをしてるその球形の時計の時計の針の部分がチラと見えもう会社へ行かねばならない時間だと気づいた。急いでスーツに着替えその他諸々会社へ行くのに必要なものをまとめて準備をした後愛着が湧いたから球形時計と最後の12月23日のくしゃくしゃになった新聞もカバンに入れ家を出た。会社へ向かう道を歩いている途中先ほどリフティングをしていたときに考えついた思索をまた思い出していた。チュニジアと日本のその10,000キロメートルはその物理的な距離は大昔から変わらないが今現在の人間の科学力の前では道一つを隔てた民家と公営団地と言ったようなささやかな距離でしかないと。カバンに入れたチュニジア球形時計のカチカチという一定のリズムを保った心地よい音と最後の12月23日新聞のくしゃくしゃという気持ち良い音と先ほどの思索に夢中で下を向いて歩いていたものだから途中サラリーマンと肩がぶつかった。よろけたサラリーマンに少し睨まれ腹が立ったから蹴り殺してやろうかと思ったけどホルヘ・ルイス・ボルヘスは彼が講師を務めたハーヴァード大学ノートン詩学講義の第一回のその初めに「まず最初に私から何を期待すべきかいやむしろ何を期待すべきでないかはっきり申し上げておきたいと思います」と言いその芸術とそれに向き合う未来ある若者へ向けられたその誠意や敬意といったものを俺も真似て蹴り殺すのはやめた。

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