落ちていくことだって「有り」ではないか

 先日西村賢太の著作を読んだ、私小説とも言われる彼の本、初めて読んだ。
たぶんロマンが一粒もない暗い小説だろうと敬遠していた。
 しかし、自分が暗く落ち込んでいたとき、たまたま図書館で眼にして、暗い小説ってどんなものかと、ちょっと参考にといった気持ちで手に取った。
 読みながら、確かに暗い、しかし自分の小さな日々の快楽にそって生活レベルが落ちていく様、それはなんか一つのものを極めながら上昇していく過程で知る喜びではなく、その逆をいく、ちょっと働いて得たお金、もう少し稼げばアパートを借りる事ができる、3度の飯が食えるようになるかも、しかしそんなときふっと酒が呑みたいという気が起こってくる、ちょっとだけならいいだろうと、飲みたいという気持ちはべつに悪くはないし、と自分を納得させ、呑みに行く、そのあげくちょっとだけという訳にもいかず、飲んで気が大きくなったことも手伝い、お金をほとんど使い切ってしまう。
 後悔先にたたず、又屋根裏暮らしを免れず、日雇いの仕事に精を出さなくてはいけなくなってしまって、だんだん老いて力を失っていく肉体にむち打って。ちょっと飲みたいというとても人間的な事、人を傷つける訳でもない罪のない行為だ。そんなことを繰り返し、やがて生活は破綻し引き返せないところまで落ちていく。
 とっても人間的なささやかなことを求めているだけで、なぜ「落ちていく」のか、それを解明、追求していく文学なのだろうと理解した。落ちることを解明、なんてロマンティックなんだ、と思うようになった。
 この感想は俺の偏見かもしれないが、人生の成功譚のロマンティックはたくさんあっても自覚的に落ちていき、しかもロマンティックな小説は少ない。
 世に言うディストピア小説のなかに、少ないながらロマンを見つけることも出来る。
 落ちていきながらも自覚さえすれば、事態を受け止める力が起これば、「ロマン」は生まれる。
 で、思うのだ、落ちてもいいのだ、自覚的に落ちていけばいい、それは何も悪いことではない、そこに自分の人生の幸せがあると思う、ロマンティックがそこにはあると思う。
 その先は神のみぞ知るとしか言いようがない、俺の能力では。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?