外部に目的がある時間の使い方をしていた件について。


 私って『今』この瞬間を楽しめていないんだよな〜、、、。だからって、遊んだところでお金使っちゃうし、そういうことならいっそのこと将来に向けての自己投資した方が良いよな〜とか思いながら、今朝うなぎ屋の前を通った。

 『楽しい大学生活』いう言葉は、私にとって肩の荷が重い。

 今が楽しくないわけではない。贅沢な嘆きなのだが、どこか物足りなさを感じていたのだ。

 そんな悩み?嘆き?も束の間、その日のうちにあっさりと自己完結してしまうのであった。

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それは、その日の『教職論』の授業にて

 『教職論』とは主に教師とは?について思考を巡らせる授業なのだが、この日の授業はひと味違った。

 教授がアメリカの学会に参加し、その感想を話し、その流れで教授自身が行っている研究内容を説明する授業だった。

その授業を受けた感想を率直に表すと、

濃かった。

 研究内容の説明と同時に話した『時間感覚』についての話は特に、濃かった。

 この授業を受けてから結構時間が経っているので、多少解釈違いを起こしていそうだが、 ざっくり言うと

 発達するにつれ、大人になるにつれ、私たちは、

外部に目的をもった時間の使い方を
するようになる

とのこと。

 例えば、子ども(幼児)は遊ぶときには遊んでいる『今』その瞬間に意識がある。遊びに外部の目的などない。遊びは遊びだ。しかし、私たち(大人)は7:00に電車に乗らなければいけない。だから、『今』準備をしよう。大学に受かりたい。だから、『今』勉強しよう。このように、『今』という時間の枠の外側に目的をもって『今』を過ごしている。

 私はこの保育士幼稚園教諭を目指す人の多い学科に入ってすぐの頃から「なぜ子どもは遊ぶのか?」疑問を抱いていた。大学で手遊びを習い、子どもはどんな遊びを展開するのかを学んでいくうちに、余計にその疑問は大きく膨れ上がっていた。遊びは、もちろん発達や学習にとって重要だということは理解できるが、漠然としたナニカが引っかかっていた。

 引っかかっていたナニカが正体を見せた。

 それは、子どもと大人では感覚が違うということだ。だから、遊ぶ子どもに対して「どうしてあなたは遊んでいるの?」ときいても、答えは返ってこないだろう。答えたとしても「遊びたいから」ときっぱり言われるだけだろう。

 受験期に読んだ現代文の問題にも、『大人は因果関係を求める』とあった。全く、『今』の私はその通りだ。

 私は、なぜ?どうして?といったWhyに対する答えばかり求めていた。そして、外部に目的をもって『今』を過ごすことで、将来結果的にどのような利益がもたらされるかばかり考えていた。

 あ〜大人になったんだな〜(遠い目)

 資格を取るための授業も重要だが、教授の話を聴くといった学術的な授業に大学の醍醐味を感じる。おもしろい。なんとも、おもろい。

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 そして、今朝の『今』この瞬間を楽しめていないという悩みの解は、『今』という時間の過ごし方に目的をもたなければ、『今』だけを楽しめるのかなと思った。

 外部に目的をもった『今』も何の目的もなく淡々と過ごす『今』も、どちらを過ごすにせよ
自分のワクワクする過ごし方をしようではないか。

続く.

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