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有象無象インタビュー②檜田相一/東北大学学生ユニオン

 公認の枠組みからは外れて何やら怪しげなことを行なう「有象無象」。それはあらゆるところにいて、東北大学も例外ではありません。しかし、その「有象無象」の活動はあまり知られておらず、語り継がれることなく忘れ去られてしまうこともしばしば……。そんな不審な連中にスポットライトを当てるべく、東北大学「有象無象」有志(一名)は、「有象無象」の学生にインタビューを行ない、それを書き起こして公開することで、その活動の記録と紹介を行なっていきます。

 そんなインタビュー企画第2回のゲストは、学内外の「有象無象」や非「有象無象」と連携してとにかく手広く活動している檜田相一(ひだそういち)さん。公認団体から非公認団体まで数々の組織を設立・運営し、他の団体への協力も惜しまない檜田さんを突き動かすものとは何なのか!?

 インタビューは6月28日に東北大学川内キャンパス某所で行なわれ、檜田さんをインタビュー相手に推薦した東北大学〈焼き畑〉コース・コース長も、前回に引き続きインタビューに参加。議論は白熱し、書き起こしの文字数はなんと約15,000字! いま東北で最もアツい議論を目撃せよ!

論点のまとめ
①檜田さんの根本的な問題意識は「とにかく政治的無風状態をなんとかしたい」という点にある
②その「政治的無風状態」を突破するために、問題を「解決」する行政/ボランティアではなく、問題を無理矢理「創出」する政治を志向していかなくてはならない
③「中間団体の消失」と「自己実現イデオロギーの蔓延」が政治を妨げている
④政治を立ちあげていくために政治意識の「覚醒」させる装置を用いることの是非。学生自治=中間団体は「強度」の創出か、政治の抑圧か
⑤「暇」な学生が色々な分野に散らばっていくことが民主主義を形作る
⑦愚痴でもなく、ガチでもなく、カジュアルに主張を!

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導入

取材班 今回インタビューするのは、学内外の「有象無象」や非「有象無象」と連携してとにかく手広く活動している「有象無象」・檜田相一さんです。

檜田 よろしくお願いします。今回も〈焼き畑〉コースがいるんですね?

焼き畑 こんにちは、東北大学〈焼き畑〉コース・コース長です。日々キャンパスへの嫌がらせを真面目に試行錯誤しています。
 檜田とアツい気持ちを共有していると感じている俺としては、檜田の活躍を、「なんか面白い学生がいる!」とか「そういう学生文化があるのって素敵!」とか「そういう学生がいる〝東北大って〟面白そう!」とか、そういう不当な評価に曝させたくないわけ。特に檜田は「学生自治」の文脈で評価されることが多い(?)ですが、俺としては、檜田のモチベーションは「学生自治」の問題系にとどまるものではないと感じますね。
 まあとにかくそんなわけで、檜田の活動の意義が「矮小化」されて広まらないよう、俺も好き勝手しゃべります

取材班 そんな勝手な……😢

「現代思想研究会」

取材班 檜田さんは数多くの組織・団体を創設・運営し、のみならず他の団体の運営の手伝いまでしていると伺っています。そのあまりの手広さから、何から聞いたらいいのかわかりませんが……とりあえず関わっている団体を列挙していただくことにしましょうか

檜田 学内で中心的に取り組んでいるのは「現代思想研究会」と「学生ユニオン」ですね。あと、最近取り組んだ大きなイベントだと、東日本全体の学生と連携をとって開催した「学生メーデー」がありますね。ほかにもいろんな団体、タテカン同好会とか菜食プロジェクト、入管闘争とかの手伝いをしています

取材班 す、すごい……忙しそうですね

檜田 忙しいですよ😡 ここ2週間ほぼ毎日予定が入っていて、暇なのは今日だけだったのに……

取材班 すみません😢 しかし、檜田さんの関わられていることをここですべて紹介するのはやはりキビシそうですね。今回は「現代思想研究会」と「学生ユニオン」に絞ってお話を伺うことにしたいと思います。まず、「現代思想研究会」についてお話していただけますか?

檜田 「現代思想研究会」(以下、思想研)は私が1年生のころに友人と一緒に作った団体で、なんやかんや週1~2回、読書会とか研究発表とかを続けてますね。思想研自体は特に活動目標があるわけではありませんが、ここの活動を通じて知り合った人が多いので大切にしていきたいコミュニティです。大学の授業よりも、ここでの活動を通して読んだりレジュメを切ったことでついた知識が多いので、そういう意味でも思い入れがあります。誰でも自由に参加できるし、勉強会とかやりたいとなれば私がサポートしますので興味のある人は連絡してください

取材班 「現代思想」の名を冠していますが、勉強会のテーマは割と自由だと聞いています

檜田 そうですね。「参加者が自由にテーマを設定して勝手に勉強会を立ちあげていく」というのが、私が思想研のあり方として想定しているものです。思想研の連絡網はだいぶ規模が大きくて120人くらいいます。一緒に勉強会をやる仲間を集めるのには良い組織だと思います。
 とはいえ、ほとんど私が中心の団体になってしまっていますが。2年生のときとか、週5で勉強会を開いていたら、大学の課題よりも思想研のレジュメ作りの比重の方が大きくなってしまっていた時期もありましたね。「あれ⁉ 自分はいったい大学に何をしに通っているんだ?」と思い始めるきっかけでもありました

取材班 週5ですか!? 大学の外で勝手に大学より知を極めていく、「有象無象」ここに極まれりですね(笑) 

「学生ユニオン」とその問題意識

取材班 次に「学生ユニオン」についてお聞きしたいと思います

檜田 私が今後いちばん力を入れていきたいと思っているのが、この「学生ユニオン」です。これはいわゆる「学生自治」の実現のために作っている組織ですね。
 学生自治とは、学生が大学のあり方について自分たちで議論して代表を立て、大学当局(大学の運営体)と交渉する仕組みです。戦後の大学は民主化の過程で、大学運営に学生と教授会がそれぞれ関われるように改革されていきました。そうした「学生自治」の仕組みは70年代後半から衰退していってしまうのですが……。
 そして私たちのユニオンは先月発足したばかりなのですが、私がコロナに罹ったりバタバタしていたせいで活動方針を決める会議を来週ようやくやります。だから、明確に「こういう団体です!」とは言えないんですよね。なにより、私よりも声をかけたら手伝ってくれた後輩たちの貢献の方が大きいので、「私がやっています」とは言えないのですが、とにかくこの動きを盛り上げていきたいと思っています

焼き畑 いま檜田は「学生ユニオン」を「学生自治」の実現のための組織と表現しましたが、話を聞いていると、問題意識はより具体的なところにあるように思います。「学生自治」という理念はしばしば自己目的化して、学生文化趣味のタコツボを形成するに終わる印象があるのですが、「学生ユニオン」は、何を問題としていくか、何に反対していくか、ということを明確にしようとしているように見えます。「学生自治」の理念を掲げる組織・個人の働きはそれはそれとして意義のあることだとは思いますが、しかし最初から「学生自治やりたい奴集まれ!」と言われても何をするかピンと来ないわけですよね。「学生自治」を実現する「連帯」が可能であるとすれば、それは何を「理想とするか」という肯定的なイメージではなく、何を「問題視するか」というような否定形のスローガンによってなされるものなのではないでしょうか

取材班 なるほど……? 檜田さんは例えばどんな問題を扱っていきたいと考えているんですか?

檜田 長期的に取り組んでいくべきものと、個別具体的な問題があると思います。ユニオンは長期的には学費問題を扱う組織でありたいと思っています。私は、いまの大学の問題は、究極的には「すべて学費の問題である」と考えています

取材班 力強い断言ですね

檜田 そうですね。学生が大学で学ぶということ、大学に通うということ、大学生とは何かということ、学費はこれらをすべて規定しているものなんですよね。たとえば、海外の大学院だと院生に給料が支払われるわけで、そこでは学生が学ぶことは知的生産だとみなされているわけです。学生の機会均等や、学問の自由といったものもすべて、高すぎる学費によって損なわれていると言えます。このことについては、のちのち別に文章を書いて詳しくまとめたいと思っています。
 ただ、そういう原理原則的な話は取り組むのが大変ですし、突然規模が大きすぎる話を持ち出しても周囲から理解を得られないわけです。それに、すぐには学生の利益につながりにくい。まずは個別具体的な問題に取り組むということを考えた方が良いと思っています。ユニオンの活動はここに重点を置くつもりでいます。大学のなかで直面する理不尽な事態を協力して解決できる仕組みっていつどんなときでも不可欠ですし、一般企業なら労働組合が守ってくれたりするわけですが、学生の組織がないのは冷静に考えておかしいと思います

取材班 アカハラとかならいちおう相談窓口とかも整備されてきているようにも思いますが、そのような大学の側が提供する制度では不十分で、あくまで学生の側の組織が必要ということですね

檜田 たしかにアカハラのように学生個人が大きな不利益を被ってしまう場合にはある程度既存の制度でも太刀打ちできますが、ユニオンの存在意義は制度の外にこぼれ落ちてしまうような問題をこちらから扱いにいけることです。たとえば学ぶ環境を改善するとかそういうことに学生はなかなか関われません。ユネスコの高等教育宣言っていうものを読んだときに、学生に交渉権が当然あって然るべきだと思ったのもユニオン構想のきっかけです。

 国および教育機関の意思決定者は、学生および彼らのニーズをその関心の中心に置き、彼らを高等教育の革新における主たるパートナー、そして責任のある当事者とみなさなければならない。これは、教育レベルに影響する問題、教育法やカリキュラムの評価、改革、そして教育制度の施行、方針の作成と運営における学生の関与を含まなければならない。学生は組織化し、代表者を立てる権利を有するので、これらの問題への学生の関与は保証しなければならない。

 まぁとにかく、そういう感じで個別具体的なトピックを扱っていきたいと考えています。ユニオンにはいろんなモチベーションを持った人がかかわっているので、どこから手をつけていくのかはまだ決まっていませんが、私は「図書館の開館時間延長&利用制限の撤廃」に注目しています

取材班 いま軽く調べてみましたが、図書館の開館時間は本館が22時までとなっていますが、医学・工学・農学それぞれの分館は20時までで、北青葉山分館などさらに閉館の早いところもあるみたいですね

檜田 そうです。バイトとかで不規則な生活をせざるを得ない学生とか、様々な事情で自宅で勉強する環境が整っていないとか、そういう学生のためにも開館時間延長は必要だと思います

取材班 「利用制限の撤廃」というのはどのようなことですか?

檜田 現在のように学外者の利用が制限されている状態を変えたいと考えています。大学図書館はその大学に所属する人たちだけのためではなくて、もっと公的な役割があるはずです。例えば、知り合いに在野で研究をされている方がいるのですが、その人は「大学を離れてから本を読むのが本当に大変になった」と言っていましたが、そういう人のためにも重要ですよね

取材班 大学への改善要求の手段として、大学側からは「学生の声」(公開意見箱)や「評議員制度」などが用意されていますよね。そういったものとは別にやっていきたいということでしょうか

檜田 そうですね。「学生の声」というのはいわば下からの「お願い」ですよね。そこでは命じる側(大学)と命じられる側(学生)という関係は自明とされます。私は、そのような「お願い」ではなく、学生が集まって「聞かざるを得ない学生の声」を作っていくことが不可欠だと思っています。
 あと、評議員制度は調べても実態が掴めないのですが、学生が立候補したりできる制度ではないのでそもそも検討にすら値しないと思います

取材班 声をただ伝えるのでは十分ではなく、相手と対等な存在として渡り合う必要があるということですね

檜田 あと、重要だと思っているのは「国際卓越研究大学」制度の問題ですね。つい先日ニュースで東北大が認定されそうだというのが流れましたが、これは本当にまずい制度なので、学生ユニオンとは別に個人でもいいから動き出そうかなと思っています。
 これものちのち詳細にまとめたいと思うので、ここでは簡単な説明にとどめますが、「国際卓越研究大学」制度は、①学問・学生の自立性が損なわれること、②学費が増額される危険性に多分に開かれていること、といった重大な問題を抱えています

【関連リンク】
大学10兆円ファンド認定候補、東京大学・京都大学・東北大学に絞る - 日本経済新聞
「稼げる大学」法案はこんなにヤバイ!|講師: 駒込 武 氏(京都大学教育学研究科 教授)|2022.04.18実施

「政治的無風状態」を突破したい!

取材班 ここまでどのような問題を扱っていきたいかということを伺ってきましたが、檜田さんの活動は一個人の活動としては大変手広いものだと思います。何が檜田さんをここまでアクティブに活動させるのでしょうか。その根本的な動機について伺いたいと思います

檜田 取り組む問題も学内のものが中心だし、あくまで学生という立場から活動しているわけだけど、問題意識の射程としては社会全体をとらえているつもりだからこそ手広くなってしまうんですよね。根本的な動機としては、いま社会全体が「政治的無風状態」としか呼べないような状況に陥っていることに対する不快感や危機感があります。それを突破していくために、身近なところから取り組もうとしていろいろなことに手を伸ばしています

取材班 社会全体を視野にいれた活動を志向しているとのことでしたが、東北大学にはそれこそ「社会問題」を扱ったボランティア団体などが既に存在していますよね? 檜田さんはそこにはあまり関与していないように思うのですが

檜田 ボランティア活動やそれに取り組む人たちのことは、それはそれとして尊重しています。しかし、私の問題意識はまず「政治的無風状態」にあり、「困っている人を助けてあげる」という行動はそのような状態に亀裂を入れていくこととはまた別のことのように感じられます。
 ボランティア団体に入っている友人が言っていたのですが、「ボランティア団体に入っている人は例外なくみんなめっちゃ良い人」らしいんですよ。でも、良い人だけで政治や社会を動かすのは無理だろうと思ってしまいます

焼き畑 善意より悪意のほうが〝強い〟しね

檜田 人が政治に関心を持つのは、自分に関わる問題に直面したときだとおもうんですね。例えば、子どもが生まれたときとか、原発事故があった後とかは、政治化する人が増える。自分の利害関係から離れて政治的になることってあまりないですよね。一方、ボランティアは、自分の利害関係という直接的なものではなく、他人の利害関係という相対的に間接的なものに動機づけられています。
 ボランティアももちろん社会問題に対処するためのものであって、その意味では「政治的」と表現しうると思いますが、ボランティアと違って直接的な利害関係に動機づけられて行なわれる政治というものもまた別にあると思いますし、私がやりたいのもその意味での政治です。
 学生を政治的にするとなったときにも、学生の利害関心に沿った問題をきちんと問題化していくという過程が重要になってくるわけです

焼き畑 「政治的無風状態」を根本的に打ち破るためには、各人が問題を政治化させていく態度のようなものを雰囲気として醸成していく必要がある。誰もが自分の抱える問題を政治的な議論にするに足るものと「図々しく勘違いしていく」ことが必要になってくる。
 一方、ボランティアでは、「当事者でないわれわれ」が「当事者である他人」に奉仕するという構図を抜け出すことができない。檜田の言うように、もちろんボランティアはそれとして重要なのだが、それが唯一の「政治」となってしまっては、「政治」の名で行われることは行政の補完物にとどまってしまう

「課題解決」より「課題創出」

取材班 「行政の補完物」にとどまってはいけないというのは、なぜなのでしょうか?

焼き畑 問題は、行政の補完物は当然あってもいいし、多くの場合あったほうがいいんだが、それだけを政治活動としてとらえるのではダメだ、ということだよね。行政の機能不全によって、いま現に助けを必要としているにもかかわらず助けが得られない人がいる以上、行政が対応できない/しない部分をいまここで掬いあげるものは、それはそれとしてあったほうがいい。
 しかし、すでに認識されている問題を解決する行政やボランティアだけが政治なのではなく、政治問題としては認識されないわれわれの問題を無理やり問題化していくという政治が存在します。
 行政/ボランティアが「課題解決型」であるとすれば、いわば「課題創出型」の政治があるわけですね。近年の大学は「課題解決能力」が云々などと言いますが、実際にはその裏で、課題を創出する傍若無人さを失っているのではないか。学生ユニオンは「課題創出型」の運動ということですよね。
 行政とその補完を唯一の政治ととらえることは、政治とはすでに設定された論点における「調整」であると認めること、調整されるそのパラメーター以外に係争の対象となる問題はないと認めることになる

檜田 そうですね。「行政の補完物」に問題意識をもつのが重要だと思います。そういう視点が失われているからこそ、「政治」といってイメージされるものが、領土問題だとかSDGsだとか成長産業だとかそういうものにとどまってしまう。でも、当たり前だけど、そういう話に興味が持てる人って限られてくるじゃないですか。「政治」が領土問題・SDGs・成長産業……というようなものとしてイメージされる限り、政治とは「自分には関係のない」ものであり続けてしまうわけです。
 そのような状況であるにもかかわらず、選挙が近づいてくると「若者は選挙に行かない」「絶対に選挙に行かないといけません!」ってキャンペーンがいたるところで行なわれる。でも、私はあのキャンペーンが大嫌いなんですよ。選挙が近づいたときになって初めて政党一覧を見て、ネットの「あなたに近い政党は?」みたいなツールを使っていちばん近い政党に投票する。こんなのアマゾンの「あなたにお勧めの商品」を選ぶのと変わりません。それで投票率の上下で一喜一憂したり、ネット投票を検討したりするのは本当にばかげていると思うんですよ。「投票率」だけを見ているようないまの状況はすごく空虚だなあ、と

焼き畑 とりあえず投票に行きさえすればいい、「投票」だけが唯一の政治活動だ、ということになってしまっては、極端な話、議会で審議される「政策」のほかに係争すべき問題はないということになってしまうわけだよね。投票は「課題解決」には寄与しうるかもしれないが、「課題創出」にはほとんど寄与しないばかりか、むしろ抑圧的に働くことも想定される。その問題は、いまの力関係上、政治で扱うべきことではない、というように。
 だから、投票や政党といったかたるい制度に依存するのではなく、自分で自分の不満を政治的な問題と主張できたほうがいい。そして、自分の不満を政治的に問題化していくそのような態度を独占したり、あるいは「啓蒙」したりするのではなく、そのような態度を可能にする雰囲気を醸成していくための動きが必要になる。
 個別の問題を解決するのが重要であると〝同時に〟、問題として扱われていないモノを問題化していくことが重要である。さらに、あるモノを問題化をすることそれ自体が重要であると〝同時に〟、モノが容易に政治的に問題化されるような動きや流れを創り出していくことが重要であるということですね

檜田 そうなんだよね。だって、私はいまお金がなくて辛いし、就活しろっていう圧力をかけられてるけど就活なんてしたくないし、少子化だから結婚して子どもを産まないといけないみたいな強迫観念があるし、たまに遭遇するホモソーシャルな空間が嫌いだし、自己責任論に溢れているいまの社会が不快だし、公共空間とかアジール(避難所、聖域)と呼ぶべきものがどんどん縮減されている社会が危険だと思ってるけど、そういう私の身近な閉塞感、鬱屈感みたいなものは、どこの政党も助けてくれないわけじゃないですか。それに加えてこの政治的無風状態があるわけです

学生自治と政治化

取材班 檜田さんとしては、そういった状況に対応する手段として「学生自治」を位置づけたいということですね

檜田 そうですね。学生自治は、誰も政治に興味を持たなくなった現状において、学生を再び政治化していく重要な契機になりうると思っています

取材班 なぜ学生自治と学生の政治化とが結びつくんですか?

檜田 学生が、延いては人々が脱政治化した原因として、私が第一に考えているのは、「中間団体の喪失」があります。町内会、労働組合、学生自治会、こういう中間団体を通じて自分が置かれた環境を自分の手で変えるという経験がなくなるにしたがって、政治が「自分の問題」ではないとする人が増加してしまった結果がいまの社会なのだと思っています

焼き畑 檜田の言ったことを硬い言葉を使って言い換えれば、強力な国家/大学/資本/権力と、ちっぽけで裸の個人が直接対峙する構造の中で、国家はどんどん増長し、個人は無力感をどんどん累積させていくという悪循環がある、ということだよね

檜田 そうです。そして、中間団体の消滅が招き寄せた最悪のイデオロギーが、「自己実現イデオロギー」です。これは、人生において直面する困難を、自分自身を「成長」させることで乗り越えようとする、自分自身の「成長」のみによって乗り越えることができるという考え方です。しかし、直面する「困難」には社会にその責任が帰されるようなものがしばしばあります。
 「困難」の責任をすべて個人に帰する「自己実現イデオロギー」においては、自分の直面する「困難」に対しては「自己責任」で努力するほかなく、他人の直面する「困難」に対しても「自己責任」で切り捨てることが自然になります。ここでは、他人と協力して自分が置かれている環境を改善するインセンティブが働かない

取材班 中間団体の喪失はどのように自己実現イデオロギーの広がりに寄与したのでしょうか?

檜田 中間団体があれば、つまり具体的な状況を共有する人びとの集団を代表して発言する組織があれば、数を頼みに自分のいる環境を改善することもできます。しかし、自分の置かれている環境を改善する、抱えている問題を改善する経験が失われたことによって、人々が自分の抱える問題の解決の術を「自助努力」しか知らないままの状態に置かれてしまったことが原因だと考えています

取材班 前回のインタビューでSさんと焼き畑さんがしていた議論の中で、学生は「消費者」と見なされ、また自分自身「消費者」であるという前提を受け入れている、という指摘がありました。
 「消費者」というのは「お客さん」ですよね。変な例かもしれませんが、スーパーマーケットに行ったとき、知り合いでもなければ他のお客さんと基本的には会話なんかしないわけで、「消費者」としての学生間の関係もそのようなものなのかもしれないですね

檜田 いい例だと思います。学生って大学におけるお客さんなので、クレームを入れることはあっても、「課題創出」に自分も直接乗り出していくことがもはや想像の範囲外になりつつあるのではないかと思っています。あるいはそのようにさせられてきた、と言うこともできるでしょうが

生徒会にも風紀委員にもなりたくない

焼き畑 ちょっと話を戻すと、学生自治と学生の政治化がどのように関わっているかという議論だったと思うのですが、ここで個人的に重要だと思う点について注釈のようなことを言っておくと、檜田が言っているのは、政治のためには学生自治が必要だということであって、学生自治の再建こそが政治であるということではないということですね。学生自治はあってもいいし、おそらくあったほうがいいのだが、学生自治の再建だけが政治なのではない。当然といえば当然ですが。
 この一見微妙な差異――学生自治を運動の契機と見るか、目的と見るか――は重要です。学生自治を運動の契機とみなす檜田の論理は、何よりもまず現状に対する不愉快さを動機に持つわけですが、一方、学生自治を目的とする論理は、結局「古き良き大学」への「回帰」を夢見る「保守反動」思想であり、自分たちの体験していない時代に対するノスタルジーに動機づけられているような印象をしばしば受けます。
 後者の論理は、「古き良き大学」の理念である「学問の自由」などをスローガンに掲げますが、例えば、就活がツラいと思っている学生にとって、「学問の自由」は本質的な問題でしょうか。学問がしたいのに就活にそれを阻まれているという健気な学生もいるかもしれませんが、特に学問への情熱があるわけではない学生と「健気な学生」の両方を巻き込むことのできるものとして、「学問の自由」という肯定的なイメージよりは、「反就活」のような否定形のスローガンが必要になってくるでしょう

檜田 私は「学問の自由」は割と使いますけどね(笑) しかし、私も「学生自治」にはアンビバレントな感情があります。学生自治ってすごく重要なんですけど、気をつけないと、学生のキラキラした思い出作りをサポートする生徒会的なものになってしまったり、治安を守るために何から何まで細かい規則を設定する風紀委員的なものに容易になってしまう

訓練による政治主体の構成は肯定されるか

焼き畑 ここまではインタビュアーとして、檜田の主張をまとめる役割に徹してきたと思うのですが、ここで突然役割を超えて自分の立場を述べさせてもらうと、学生自治があったほうが政治化の契機は存在しやすいかもしれないとは思いますが、学生自治がなくても政治は、言い換えれば不満を表出させていくことは可能だと思いますね。というより、事実中間団体みたいなものが喪失してしまった状況を前提として、いかにして政治が可能かを模索する必要があると思いますね

檜田 うーん、どうなんだろうなあ。焼き畑の言い分に関して、とりあえず「強度」の問題として回答したいと思う。
 東北大には「学生の声」っていう公開目安箱があって、あそこでいろんな学生が不満を表出させているけれども、その不満が解決するかどうか、そもそもまじめに取り扱うかどうかは大学当局の胸三寸なわけだよね。そのような状況下で、学生の側としてはなんとしも解決してもらいたいけど大学の側は乗り気じゃないような問題がある場合、「学生の声」(※公開質問箱のことではない)を大学当局が「聞かざるをえない」ようなところまで強度を上げないといけない。ここで「強度」という言葉で言いたいのは、端的に言って人数のこと、あるいは人数に依存するようなものである盛り上がりのことです。
 「声」の内容は状況によるけれど、やっぱり一定の数を背景にした団体が有効であることは間違いない。議会政治でも、市民が解決してほしい問題を議員に申し入れることってよくあると思うんだけど、取り扱ってもらえない時はデモとかメディアを使った直接的な行動に訴えることで要求を飲ませていくことになる

焼き畑 主張を通すために大学と渡り合う「強度」が必要なのはわかりますし、そりゃ「強度」はあればあるに越したことはないですが、問題は「強度」の獲得のための犠牲がその「強度」に見合っているかということであり、さらに言えば、「強度」がその犠牲に見合っているかどうかを誰が判断するのか、そもそもその「費用対効果の妥当性」は誰にも判断しえないのではないか、ということです。
 ここまでの檜田の話では、中間団体と学生自治の役割が重ねられていると思います。中間団体が喪失したことによって生まれた「政治的無風状態」を、学生自治という中間団体的なものを復活させることで乗り越えようというものだと思います。学生自治=中間団体を手段とみなす檜田の論理には、それを目的とみなす論理との関係においては、賛同しますが、そもそも学生自治=中間団体というものに、一種の権力性があるわけですね。そして、私が言いたいのは、その内側で働く権力という代償がその外側(大学)に対して持つ力に見合っているのか、見合っているかどうかを判断するのは誰か、その判断は本来誰にも下しえないのではないか、下しえないはずの判断を下している誰かがそこには存在しているのではないかということです

檜田 焼き畑の主張としては、強度についての問いを放棄せよということだと思いますが、でも強度の必要性は認めているわけですよね? それなら、結局その強度を犠牲なくしてどこから調達するのでしょうか?

焼き畑 「強度」というのは理想であるにすぎないとでもいいましょうか。檜田が言っているのは、不満を表出させることができない/しないモノを訓練して社会を変革するための「強度」を創出するためには、あるいは「政治的無風状態」にあってはそもそも不満を感じるためには、主体化されざるモノに訓練を施して政治的主体へとつくりあげていくことが必要であり、その訓練のためには学生自治=中間団体が必要だ、というようなことだと思います。
 私が異議を呈したいのは、政治的主体をつくりあげるための手段としての学生自治=中間団体の過剰さというよりは、そもそも政治的主体をつくりあげるという過程です。結局、不満を表出する奴は不満を表出するし、しない奴はしないと言うことしかわれわれにはできないのではないでしょうか

檜田 それは結局ある種のマッチョイズムに陥ってしまうと思うんです。ユニオン結成の理由もマッチョイズムに陥らない組織を作ることで、すでに不満を持っている人を集めても、うっすらと同じような気持ちを持っていても行動できない人が置いていかれてしまう。そういう人をエンパワーメントすることなしには、その人がいる環境は改善されないわけじゃないですか。自分から不満を表出できる人の意見しか正当なものでないとしてしまうならば、「強い個人」しか苦境からは脱することができないということになってしまう。本当に環境を改善するために向き合うべきなのは、一人では不満を表出することができない「弱い個人」であるはずです

焼き畑 檜田の論理は、「政治的無風状態」を打ち破るためには、学生自治=中間団体である学生ユニオンを通じて学生を啓蒙ないし訓練する必要がある、というものだと思います。しかし、自分を訓練することや自分を知ることによって問題を乗り越えるという思考様式は、それ自体として国家/資本の論理と通底するものだと思います。(自己実現イデオロギーの議論を参照せよ)
 私もマッチョイズムを提唱している訳ではありません。私の言い分がマッチョイズムであると感じられるのは、檜田の論理が政治に先立つ個人について思考するものだからです。不満を表出する奴は不満を表出するし、しない奴はしない、というのは、「強い個人」や「弱い個人」が政治に先行して存在していて、前者は政治を行なうことができ、後者はできないというような話ではありません。言い換えれば、政治が生起する以前の個人に内在する「強さ」のようなものが、政治を可能にするのではありません。というより、個人に内在する「強さ」が政治を可能にすると言うことはできません。当然と言えば当然ですが、われわれには「人間」に内包する「強弱」を判断することはできないからです。
 私の言い分はこうです。政治が生起してはじめて、その政治を行なった人びとを政治的主体として思考することが可能になるのであって、政治に先だって政治を可能にする「強い個人」や個人に内在する「強さ」なるものがあると主張すること自体がそもそも不可能である。むしろ、マッチョイズムは、個人に内在する「強さ」あるいはその不足についての思考が導く訓練の論理と同型のものとして退けられるわけです

檜田 そうすると、社会を変える強度を獲得するために私たちが為しうることは何もなくなってしまうのではないかという疑念が出てきます。社会運動は偶発的に発生するという話になってしまう。たしかに21世紀に突入してからの社会運動を見てみれば、社会運動は偶発的に発生するという指摘はおおむね正しい。
 でも、私としてはそれを回避したいんですよね。たとえ、人々を政治化する装置を作り出すという権威的な発想になったとしても、強度を獲得するための実践の場所を議論の中に与えておきたい。そうでないと、政治家の不祥事や突発的な事故をモグラ叩きのごとく追いかけるいまの左派は変えられない

焼き畑 檜田の疑念はもっともだと思います。私はそもそも「強度」を獲得するための努力というものはすべて反動であると認識しているとさえいえるかもしれません。
 檜田の言うように、社会運動あるいは反乱は起こったり起こらなかったりすると思います。その時々に置かれた配置をかき乱したくなったらかき乱していくしかないのではないか。それが結果として反乱を起こしたり起こさなかったりするだけで、反乱の偶発性はわれわれに政治的無作為を強いるものではないと思います

檜田 そうなると社会に対して継続的に働きかけることも出来なくなる。私は継続性が占める場所も議論の中に確保したい

学生と民主主義

取材班 議論がだいぶ長くなってしまったので、ここら辺で強引に話の腰を折ると、檜田さんの話には「学内でやること」へのこだわりがあるように感じられるのですが、その意図がまだちょっと見えてこない印象があります。学生自治が必要なのはお話の通りだと思うのですが、社会には檜田さん自身がさきほど挙げてあいたように町内会や労働運動も存在するわけで、檜田さんはそれらを学生自治と同じくらい重要だと考えているんですよね?

檜田 そうですね。私は特に労働運動が重要だと思っていて、それが復活しないことには社会のラディカルな変革はありえないと思っています。しかし、そのような運動の先駆として、まずは学生から運動体をつくっていかないといけない。それは学生が「相対的に暇」であり、かつ「まだ何者になるか決定していない」という特徴を持つからです。
 特に重要なのは学生が暇であることです。こういう話をすると必ず取り上げられる例ですが、古代ギリシャで民主主義や哲学、芸術が発達したのは、それらを担う「市民」が奴隷に労働をさせていて暇だったからです。
 民主主義は良い制度だと言われますが、問題なのはとにかく時間がかかることです。日々の労働と生活に追われているような人は、政治についてじっくり考えたり議論をする時間をもてないわけです。いまの学生は授業も忙しいし、就活も早期化しているし、バイトに取られる時間も年々増加していると言われますが、それでも社会の中では比較的時間があります

取材班 では、「まだ何者になるか決定していない」のはなぜ重要なんでしょうか?

檜田 「何者になるか決定していない」学生は、それぞれに様々な分野へと歩んでいくわけですね。そして、歩んでいった先で新しい政治的種をまくことができます。いまの社会をテコ入れしていくには、まずは学生の政治化というところに取り組まないといけない。それが社会の様々な領域を根底から変えていく力になります

取材班 社会全体の運動を盛り上げていくためには、まず暇な学生がいろんなところに浸透していって運動を盛り上げていく必要があるということですね

檜田 その通りです。最後に付け加えれば、いろいろ言ってきましたが、私個人の素朴な動機としては、大学という場所をどうすべきかという問題に学生が関与できないのがムカつく、というものもあります。いまの学生は「消費者」的であるという指摘がありますが、実際には学生は管理される対象にすぎず、小学校の「児童」的ですらあると感じることもあります

***

結び

取材班 な、長かった……

焼き畑 いやあ、今回も東北全土を焼き尽くすようなアツい議論が展開されていましたね

取材班 最後に檜田さん、読者に向けて何かコメントはありますか?

檜田 いろいろ喋りましたが、これを読んだ学生のみなさんには、「学生として」なにか主張したり異議申し立てをしたりするということを、ぜひ「カジュアルに」やってほしいと思います。
 別になにか行動することって特別なことではないわけです。フランスとかだと、自分がざっくり「それには反対だ」と思っていることがあれば、「とりあえずデモに行っておくか」みたいなノリで学生が普通にデモに行くらしいんですよ。でも、日本だとなにか訴えるためには「本気でやる」ことが求められるんですよね。自分が「こうしたい」と思ったら、それを人に見える形で主張していくことをみんなもっと「カジュアルに」やってほしいなと思います。愚痴をこぼすだけで終わらせて、自分が不利益を被るのに黙ってしまうのは本当に勿体ないなと思っています。
 そして、私の活動に共感した方や、今回のインタビューで私が表明した意見について議論してみたいという方はぜひ私に気軽に声をかけてくれればと思います

焼き畑 それにしても「カジュアルに」なんて言えた口かねえ。二週間で空いている日が今日しかなかったわけでしょ。口先だけで、自分が言っていることをちゃんと実行できているのか、甚だ疑問が残るね。有言不実行じゃない?

取材班 それ、頑張らない人に対して言う奴でしょ。頑張り過ぎてる人に言うことなのか(笑)

檜田 「カジュアルにやろうよ!!」ということを「本気」で言う人がいたって別にいいわけで……

取材班 ま、その辺が一貫してないのも、有象無象ってことですね!!

(おわり)

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