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『赤毛のアン』



『赤毛のアン』に出会ったのはお恥ずかしながら30代になってからだった。
友人に勧められたことと夏のフェアで書き下ろされた美しい表紙が大変気に入り、文庫本を購入して、今ではすっかり私の『人生の一冊』だ。

朝ドラで有名になった翻訳者の村岡花子さんの役は当時の時代から考えられないほど現代的でも違和感なくさらさらと読める素晴らしい翻訳だが、アンの舞台背景に合う少し古風な言い回しなどの方が好きなので中村佐喜子さんの訳の方が個人的に好きである。

赤毛のアンに関するものは映画やNetflix オリジナルドラマ『アンという名の少女』も全て見た。もちろん一度でもいいから行ってみたい場所はプリンスエドワード島だ。

 さて、何故アニメの『赤毛のアン』に手を出さなかったかという話になる。
今まで見たアンの映画はすべて実写であり、実際のプリンスエドワード島で撮影されたものに限定されている段階で解っていただけると思うのだがアニメでは到底あの美しい情景はもちろん、私の想像の中の島の情景に勝るわけがないと思っていたからである。
たとえ、世界の宮崎駿と高畑勲が手掛けていたとしても個人的な意見だが、あの時代のアニメーションには限界がある。草木の揺れや草木の青々しさをどうしても描き切れない気がして距離を置いていた。もちろん、当時の最新でお二人は全力でこのアニメに取り組んだというのは解っているのだが、せめて『魔女の宅急便』の冒頭当たりの作画と色彩をアンに注ぎ込んでいただきたかったのだ。そんなわけで距離を取っていたアニメだったがやはり日本が誇る世界のお二人のお仕事だと思わせてくれる部分は一話だけでも伺え、楽しめる気がした。

 女性で『赤毛のアン』が好きという人は結構いて、しかも根深いファンがついている。
それもアンの成長と人間性…そして恋愛観に惹かれるのだろう。野心家で自分の夢のために一心で確実に目標に近づいていくくせに、怒りっぽく恋愛ごとには素直になれない、コンプレックスの塊である事など実に人間らしく共感できる。そんなアンは、二巻以降は教師になり、ギルバートと結婚もする。確実に理想に近づいていく姿は読んでいてカッコイイ。こんな人になれたらな…と思ってしまう。小説のアンシリーズは10巻にわたり続くつまり一人の女性の生き様の人生が終るまでモンゴメリは書き続けたのだ。とてもではないが私には出来ない。主人公がその生涯を終え娘の話が始まるのである…想像するだけで切なく悲しい気持ちになる。モンゴメリという方はそれさえも素敵な物語にしてしまうのだろうけれど。

 アンの表現力は本当にうっとりとさせられるものが多い。それはそうなのだが小説の説明文でさえとんでもなく美しい情景が事細かに書かれている作者のモンゴメリの生い立ちやグリーンゲイブルズに少女の頃、住んでいた部分を考えるとアンという女の子はほとんど作者のモンゴメリの感覚だったのだと思う。
彼女らの想像と目を向ける美は、日々当然としてあるものたちだ。
なのに、何故あんなにも美しいのか…考えてみた。
例えば…マシューと見た、『リンゴみち』をもし“想像を禁止されていたら”彼女はあんなに歓喜しなかったのではないだろうか。彼女の想像力がすべての景色に色を与え、唯一無二の情景に変えるのである。それは彼女にしか与えられなかった素敵な感覚であり、世界だ。私たちも夜道を「幽霊が出るかもしれない」と思って歩けば何だか怖くなりいつもより早足になるだろう。

想像は人の行動すら変えてしまうだけの影響力がある。

もし、これが自分の夢ならばどうだろう。自分の叶えたい夢を想像し、イメージし進んでゆけば少しずつ…でも確かに近づいていくのではないかと思える。想像力に長けている人は夢の実現力が高いのではないだろうか。

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