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30歳で海外留学を決断した本当の理由

2024年4月6日。
この日に僕は大量の荷物とともに日本を出国する。
行き先はシドニー。
最終目的地イギリス・ロンドンに向かうための準備期間をこの街で過ごす。

オーストラリアは初上陸になる。
いわゆる西洋芸術や、ショーアップされたミュージカルが好きな僕からすると、これまで眼中になかった国だ。

ではなぜ、シドニーで暮らすのか。
それは、最終目的地ロンドンに向かうために必要なプロセスだったから。
ただそれだけ。

ロンドンには、大学で学び直すために向かう。
イギリスの大学では、海外留学生に準備段階としてFoundation Courseというものの受講が義務付けられている。一般的な語学に加え、英語を使った議論のためのベース作りをしてくることが求められている。このFoundation Course自体は、イギリス本国で受講することもできるのだが、僕は年間の授業料を抑えるために、シドニーを選んだ。

といってもオーストラリアは未知の国だ。
今わかっていることは、
・10ヶ月にわたり、この街で暮らすこと。
・ホストファミリーがインド系の方らしいこと。
・滞在先から学校までの通学時間が1時間強であること。
・公共交通機関はOpalというアプリで利用できるということ。
・どうやら授業は週5だけれども、午前のみor午後のみというスケジュールらしいこと。
・語学学校のため、めちゃくちゃイベントが用意されていること。
・シドニーの演劇大学で、ショートコースが頻繁に開講されていること。
・シドニーシアターカンパニーが冬にインターンを募集すること。
ほとんど、この程度の情報しか持っていない。
長期間の海外旅行という経験はあるけれど、
生活をするとなると、全く不安点が変わってくる。
どうなるのだろうか、、、

「30歳で留学する」と話すと、
「すごいですね」と返されることが多い。
でもそこには、かっこいい理由はない。
むしろカッコ悪い理由しかない。
その話をしようと思う。

僕は6年間、東京の劇場でいわゆる企画プロデューサーとして仕事をしてきた。22歳の新卒で劇場に入り、2年目から1,000万円以上の予算を使えるようになり、最終年には、預かった予算は数億円にまでなっていた。

若手アーティストの育成事業から始まり、その後、地域とともに創るアートフェスティバル、ダンス作品、演劇作品、そしてオペラまで手掛けた。幸運が重なっていただけなのだけれど、20代で全て経験できたのは、本当に恵まれていたと思う。また未曾有のコロナの混乱時期を、業界の中枢で過ごせたことも大きく、危機管理の観点、交渉・調整の観点から、非常に勉強になった。

そんな僕は2023年3月に突如、姿を消した。
大規模な公演が終幕すると同時に。
多額の予算が充てられており、個人的にかけていた公演でもあった。
しかし正直芳しくなかった。その責任は統括責任の僕にあった。
と同時に、日本での予算規模に対する内容の限界が見えてしまったところもあった。

僕はこれまで自分が観たい景色のために、作品を手がけてきた。
が、僕の観たい景色を創れなくなる、観客に届けられなくなる未来が見えてしまった。責任と失望という負の感情に、破局というプライベートな問題が重なった。仕事と家庭。その両方の未来を同時に失ってしまった。

この状況に陥った僕は、自殺を図った。
今でも歩道橋のへりに足をかけた、あの瞬間を忘れられない。

その3日後、パスポート片手に出国した。
それから約3ヶ月の間、日本に戻ることはなかった。スペイン、イギリス、ポーランド、チェコ、ドイツ、アメリカと文字通り放浪した。

劇場で繰り広げられる芝居、ミュージカル、響き渡るクラシック音楽。それらをしばらく観たり、聴いたりできる精神状態ではなかった。5歳からヴァイオリンを習い、音楽とともにあった人生の中で初めてのことだった。その代わりに目に入ってきたのはスペイン巡礼の道中の大自然やアルハンブラ宮殿のような人類の遺産/功績であり、耳に入ってきたのは、鳥の鳴き声、木がしなる音、風の音、そして異国の言葉たちだった。

1日20㌔以上歩く初の体験
これまで見た中で最も美しい朝焼け
@ポルトマリン
盲目の神父様と交わした握手は
とんでもなく温かかった。

この状況が解けたのは、約一ヶ月後に訪ねたロンドンでのことだった。2018年ぶりに訪ねたロンドンはとても温かった。劇場愛に溢れた人々で満たされた劇場街、ウエスト・エンドは僕を自然に惹きつけた。劇場に入ると、横の全く知らない人から話しかけられる。以前訪ねた時にはなかった経験だが、それがとても心地よかった。開演前、休憩中、終演後。そんなに濃い話はしていないが、「気に入った?」「どんな作品がおすすめだよ」とかと、愛に溢れた会話が交わされる。この時、初めて劇場から声が聞こえた。“Welcome back!”『おかえり』と迎えてくれた。やはり僕は劇場でしか生きられない人間らしい。

ナショナル・シアターで交わした理系研究者の男性との会話は、特に印象的だった。彼は息子が劇場に足を運んでくれないことを寂しがっていた。息子が好きなゲームの画面越しでは体感できない魅力が劇場にはあるはずだと。僕はその考えに完全同意だし、「ロンドンの劇場シーンの魅力はトラディショナルなものとモダンなものが、同時に存在している点だよね」と伝えたら、とても喜んでいた。

その後、約一ヶ月ロンドンで過ごすことになるけれど、これらの会話や、劇場を出る観客たちが口ずさむ劇中の歌のハーモニーは乾いていた心に徐々に潤いを与え始めた。そしてこう考えるようになった。「この街だったら生きることができそうだ、この観客のために作品を創りたい」と。

世界有数の劇場街、ロンドン・ウエストエンドの第一線で作品を創るためには、知識・技術と同じか、それ以上にその場のコミュニティに入り込む必要がある。日本でいくら勉強・経験を積んだとしても、現地のコミュニティに接続していなければ、ウエストエンドの観客に恩返しすることができない。この点から、現地で学ぶことが、僕が生きるための必要条件となった。

こうしてロンドン留学を決めた。
日本で生きることから逃げた。
懸念点は、たくさんある。
よく考えれば、これまでもずっと見切り発車だった。
高校1年生の夏「音大にいきたい」と、音大受験のための勉強の「べ」の字も知らないにもかかわらず言い始め、チャレンジし、第一志望ではなかったものの音楽大学に入学した。
高校2年生の夏「オーケストラを創ろう」と友人たちと話し、結果6年企画運営し続けた。
大学4年生の冬「企画で食っていきたい」と思い、経験・知識がないにもかかわらず、劇場インターンに採用され、結果6年間、劇場で公演を創ってきた。

周りのいろいろなサポートがあったから、やれてきたことではある。
しかし見切り発車のわりには、面白い結果に繋がってきたことは間違いがないと思う。

その運に見放されていないことだけを祈って、30歳、留学を始める。

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