未完成婚、ミレーナで避妊する②
前回の記事からの続きです。徒然その②
②私が「子供」をどう捉えているかについてと、なぜミレーナにしようと思ったか
を、書こうと思います。
少し前に、ここに「子供がいて羨ましいと思ったことはないが、いなくてよかったと思うことが多々ある」と書いたけど、あのときと比べて考え方のバリエーションが増えたので、そっちを書きます。
まず、結論から言うと、今の私は、子供いらないからミレーナを入れています。
未完成婚であっても、要するに受精卵が着床すればよいので、配偶者との子供が欲しければ、人工受精によって妊娠出産を試みるという方法はあります(できるかどうかは別として)。実際、そういった方もいらっしゃるようです。
(処女懐妊は、現実にある……というより、今の医療はそこまできてしまっている、ということでしょうか……。)
なので、もし、自分がこの先、雷にでもうたれて「うおおおお!夫と自分の子供が欲しいいいいっ!」となった場合、夫とセックスできなくても妊活するという選択肢はあります。
でも、今の私は、子供、いりません。
これについて、私目線で、リアルタイムに書き留めてみたいなと思いました。
【子供をどう捉えているか】
1、自分の子供、いる?いらない?
子供はいらない。
なんで?というのは、たぶん絞り出せばいくらでも出てくるけど、ありがちなネガティブな理由が並んで面白くないと思うので割愛。
とりあえず、子供はいらない。
けれど、
未完成婚当事者にとって「子供がいないこと」のストレスは、自分が子供を欲しいと思っていなくても、重くのしかかる場面があります。
経験した中でざわざわした場面は、
・義理の親から「孫の顔がみたい」と言われたとき。
・友達や、いとこの妊娠出産を聞いたとき。
・親戚の集まり。
(自分の親が「次は孫だね!」と言われているのを聞いた、いとこの赤ちゃんがいて「クリオネちゃんも抱っこしてみなよ」と言われた、など。)
・知らないおばさんから「子供はまだ?いいのよ、自分のペースで」と言われたとき。
他多数。
家出通り越して出家しようかと思うたわ。笑
子供が嫌いなわけではないのに。友達や、いとこの喜んでいる姿を見て「おめでとう」と心から言えない自分をどう扱っていいのか、わからなかった。
子供嫌いな自分になってみたことがある。
子供好きな自分になってみたこともある。
けれどいずれも、そんな自分を肯定できなかった。
親戚の集まりでは「私の女性器に夫の男性器が入ったことがないんですよ~」とは言えず。しれっと席を外して、トイレで泣いたこともある。
(不妊に悩んでいらっしゃる方には不快な表現かもしれないですが、)
私は「不妊ですらないのだ」という事実。
生物としての劣等感。ありました。今もたぶん少しあります。
でも、こういう「勝ち負け」みたいな感覚だけで、子供を自分たちの生活に迎え入れるのは、ちょっと危険なんじゃないか?私には合っていないんじゃないか?と、思い始めまして。
「未完成婚」という課題をクリアしないで、子供がいたら、何が解決するんだろう?
(あくまでも、自分にとってどうか、という話で、そういった選択をとった方々を否定しているわけではないです。)
解決するとしたら、それって、誰に対するどんな解決?
上に書いたような言葉を放った人たちを、見返したい、とか、私もあなたたちと一緒だよって思ってみたい、とか?
……もし、仮に子供を欲しいと思う部分が自分の中にあるとして、そこにメスを入れると、そんな気持ちしか今は見つからないな。
そんな感情に支配されている私は、
私がなりたい姿ではないな、と思って。
じゃあ、どんな自分になりたいのかな。
「環境に左右される欲望」を見るのではなくて、
その「自分の子供」という、生命そのものを、
自分は見てみたいのかな?
見たくないのかな?
わからないのかな?
それを、ちゃんと見つめた自分になってみたい。
子供いても、いなくても、
欲しくても、欲しくなくても、
どうでもよくても、
きっと、未完成婚の時点で、ストレスは同じくらいかかる。
だから、リアルタイムで、
いる?いらない?を、
(夫もだけど)まずは自分に聞いていくつもりです。
変化したっていいし、変化しなくてもいいし、焦らなくていい。
今も、これからも。そう思えて、以前だったらざわついていた場面も、今は少し穏やかに構えられるようになりました。
2、子供と社会の価値観(?)、そして自分。
未完成婚の立場になって、
「結婚=配偶者と性交渉しているはずだ」という「=」の価値観が無くなったという背景があり、
伴って、
「子供ができたら=結婚」
「結婚=子供を産む」
「子供を産む=子供を育てる」
の「=」も無くなりました。
むしろ、
子供ができたらその相手と結婚する必要が、なぜ、あるのか?
結婚をしたらその相手と子供をもうけようとする必要が、なぜ、あるのか?
子供を産んだらその子供を育てることが前提、あるいは、よしとされていて、自分が知らないうちにそう思っていたのは、なぜなのか?
といった、「結婚」「子供」に纏わりつく、自分が持っている価値観(あるいは世論)に対して、疑問を抱くようになっていきました。
責任感がないと言われればそうかもしれません。
ですが、たとえばその「子供」に対する責任って、本当に当事者である「親」だけに向けられるものでしょうか。
子供という、保護対象に対して、本当の意味で責任をもち、本当の意味で守る努力をすべきなのは、
「親」ではなく、
「社会」なのではないか。
そんな風に考えるようになりました。
ちょっと飛躍して、
ポジティブに考えるなら、私は、たとえ「自分の子供」をもたなかったとしても、間接的に、きっとどこかで「子供」という存在を育てている一員になっているのではないか。
ネガティブに考えるなら、
私はもしかしたら、年齢的に「産むのに適している」だけで、「育てる」ことには、客観的にみて(時間やお金、協力者の有無といった)環境的に、今、適していないのかもしれない。
「産みたい」という気持ちと、
「育てたい」という気持ちは、
必ずしもセットでなくても、よいのではないか?
そう、捉えています。
もし仮に、仮にですよ、
肉体的に若い人がどんどん子供を産んで、養子縁組制度を後ろめたさ無しに積極的に利用して、
時間的にも経済的にも余裕がある、そして子供を「育てたい」と思う(つまり子供に整った環境を提供できる)人たちが、自分の子供か否かは度外視してどんどん育てる社会になったとしたら……
無茶苦茶な理論ですが、仮にそんな社会だとしたら、もしかしたら私は子供を産んでみてもいい、と考えるかもしれない。
なんか、めちゃくちゃなこと言ってますが。笑
この辺りは、未完成婚の私だから得られた感覚でしょうし、無茶苦茶だけど、それでも、
自分にとって、大切にしてみたい考え方でもあります。
必ずしも、全部「=」で、結びつけて考えなくてもいいんじゃない?
背負いすぎなくていいんじゃない?
今の選択や行動が、一生を左右するって思わなくてもいいんじゃない?
そんな風に思えるので。
【なぜミレーナにしようと思ったか】
避妊をしたいし、生理も軽くしたいけれど、
ピルは自分に合っていないと思った(過去、試みたことはあるが、毎日飲むのがわずわらしくなったり、気持ち悪くなったりして続かなかったため)。
そんな中、相性のいい婦人科の先生と出会えたことで、この先生ならしっかり説明していただけるだろうし、考えさせてもらえるな、と思ったからです。
以上!長い!
(やばい!文章の比率のセンスがない!笑)
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