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16.第二次世界大戦

ナチス=ドイツの侵略と開戦

第二次世界大戦の始まりは?

・一般的には、独軍のポーランド侵攻(1939.9.1)と英仏の対独宣戦布告
⇒このとき始まったのは「ヨーロッパでの」戦争にすぎない
⇒アジアでは既に日中戦争(1937.7)

・この段階ではヨーロッパの戦争とアジアの戦争が直接結びつくことなく並行する形で戦争が起きていただけ

・その後、太平洋戦争開始(1941)
⇒ここで米が日独との戦争に参加
ヨーロッパとアジアの戦争が結びつき、真の意味での世界大戦開始

・これ以降対戦は英米ソなどの連合軍 vs. 日独伊などの枢軸国

独ソ戦

ユダヤ人迫害

ナチスは初めからユダヤ人を虐殺しようとしていた訳ではなく、迫害して国内から追い出そうとしていたという。

・ドイツ内で「民族共同体から排除すべき」
⇒ユダヤ人、シンティ・ロマ(ジプシー)など

・1935.9 「ニュルンベルク法」ユダヤ人から公民権はく奪 ドイツ人との結婚禁止
⇒ユダヤ人続々亡命

・1938.11 「水晶の夜」 ナチスによる組織的なユダヤ人の商店・住居破壊、略奪
⇒反ユダヤ人政策急進化

※水晶の夜:ユダヤ人への迫害に反抗したユダヤ人青年による、ドイツ大使館員暗殺事件への報復としてナチス主導で行われた一連の破壊・略奪事件。「水晶の夜」という名称は破壊された商店や住居のガラスが街中に散乱し、月明かりに照らされたガラス片がまるで水晶のように輝いていたから。

ユダヤ人移住から絶滅へ

急進した反ユダヤ人政策として以下のようなものがある。
1.ユダヤ人の公民権はく奪と国外移住推進
⇒ニュルンベルク法

2.ユダヤ人をマダガスカル島(仏領)やシベリアに追放計画
⇒マダガスカル島は当時独の支配下にあったが、制海権が英にあったため実現せず。シベリアは独ソ戦にてソ連が頑なに抵抗したため支配することができず頓挫。

3.「最終的解決」=虐殺へ

・1941.11 リガ、ミンスクなどで集団虐殺開始 ポーランド各地に絶滅収容所建設
⇒有名なアウシュヴィッツ収容所もドイツではなくポーランドにある

・1943-44 絶滅政策本格化 約600万のユダヤ人が虐殺される
・ユダヤ人絶滅政策について、ヒトラーの指示によるものか、現場での行為が徐々にエスカレートした結果なのかという立場が研究者の間でも対立している

※ヒトラーが虐殺を指示した証拠となる書類がいまだに見つかっていないらしい。かといって容認していたことは間違いし、迫害を指示していたことは事実であり、ヒトラーになんの責任もないという話ではない。

また一般論として、「虐殺される前に他国に亡命すればよかったのでは」というものがある。それについては、上記の通り当初から虐殺をしていた訳ではなく、徐々に退路を断たれるような形で進行していったため、行動が間に合わなかったという説もある。

また入出国が非常に難しかったという問題もある。事実、虐殺が始まる41年よりも前の38年時点で、アメリカへの移民申請は30万件以上あったようだがそのほとんどは却下された。またセントルイス号に乗ってアメリカに航行した900人以上のユダヤ人が入国を拒否され、ヨーロッパに引き返さざるを得なくなったという事件もある。

詳しくは以下の記事を参照
難民 | ホロコースト百科事典 (ushmm.org)

ヒトラーの日本観

・同盟国としての価値は評価
⇒一方ナチ党幹部内でも親中派(中華民国と仲良し)がおり、ゲーリングがその代表例で、親日派と内部対立していた。

・人種としては軽蔑
⇒「日本人に文化想像力なし」「黄色い奴ら」
⇒アーリヤ人種に属さない日本人を人種として低く見ていた

※これらのことはヒトラーの手記に記されていたらしい。この手記は後に『我が闘争』として日本語訳されて出版されることになるが、その際上記の日本を貶めるような箇所が修正されたという指摘がある。そんな事実はないと主張しているが、外務省独自の訳出では、修正済みである模様。

詳しくは以下の記事を参照
我が闘争 - Wikipedia
マルティン・ボルマン 『ヒトラーの遺言』 篠原正瑛訳、原書房、1991年、「解説」、187-202頁
ヒトラー総統著 マイン・カムプの外交篇/1939年 (archives.go.jp)






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