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8.辛亥革命

辛亥革命まで


・清朝において近代化に向けた改革(光緒新政)が起こる
ex)科挙廃止

※光緒新政が行われた当時、光緒帝は叔母にあたる西太后派により幽閉されていたため、光緒新政は光緒帝が行った新しい政治ではなく、光緒帝の時代に行われた新しい政治という意味。またその内容も以前に失敗した戊戌の変法に毛が生えた程度のものであったため成功するはずも無かった

⇒海外の華僑や留学生が清朝打倒を目指す革命運動へ

・孫文 中国同盟会を組織(1905) 酸民主義(民族・民権・民生)
・1911年 辛亥革命 孫文を臨時大総統に選出
・1912年1月 南京で中華民国の建国宣言→アジア初の共和国(との記載!)

世界初が2つ?教科書が自己矛盾?


ここで上の「アジア初の共和国」についての、世界史教科書業界最大手の山川出版社の『詳説 世界史改訂版』の記述を見てみましょう。

12年1月,南京で中華民国の建国を宣言し,アジア初の共和国が誕生した。

詳説 世界史改訂版(325p),山川出版社

アジア初の共和国と明言されています。なにが問題なのかというと、同じ教科書の数ページ後、具体的には329pにフィリピン共和国について記載があります。

このフィリピン共和国は1902年にフィリピン=アメリカ戦争に敗れて、アメリカの本格的な植民地統治下に置かれることとなるのですが、このことは教科書にも書いてあります。

この時点ですでに矛盾。何故なら1912年に始めて生まれたはずのアジアの共和国が1902年に既に植民地統治下に入っているからです。実際には別の国ですが。

さらに言えばフィリピン共和国の成立自体は1902年よりもさらに前、フィリピン革命直後なので1896年頃です。これも教科書に記述があります。

なぜこんなトンチンカンな現象が起きるのかというと幾つか説があります。

一つは誤植説。正確には「アジア初の共和国」ではなく「東アジア初の共和国」と書こうとしていたのではないか?という説です。これなら矛盾が解消されます。違いが微妙過ぎて校正できなかったんじゃいないかってことですね。

二つ目は解釈の違い説。世界史の教科書って一人で監修している訳では無くて、著者の欄だけでも8人の名前がありました。この中で近大中国史について記述した人と、近大東南アジア史を担当した異なっていて、かつそれぞれの派閥内で「フィリピン共和国は本当の共和国じゃないんじゃないか?」のような説に別の立場を持っていたとしたらありえそうな話です。

実際誰がどこの担当で、どの説を推しているかなんて把握していないの妄想にすぎないですが。

記述の変化や誤り自体はいくつかありますが、自己矛盾は結構レアな気がします。

なぜ孫文による革命が成功したか


1.清朝自体が政治的に自壊しつつあった
⇒義和団事件などで列強にお金も利権もむしられていた
2.清末期の体制内改革勢力であった立憲派が孫文たち革命側へ寝返った
ことなどが主な理由と言われている。

しかし革命側はいわば寄せ集め。清朝打倒という大きな目標のもとに集まったはいいものの、本来は立場も主義主張もバラバラ。当然内紛が起こる。そこで強いリーダーシップを求める声があったことから、孫文に白羽の矢が立ったという説。

・1912年2月  宣統帝が退位。よって清朝が滅亡
・同年3月 袁世凱が臨時大総統の地位を譲り受け、北京で就任
⇒しかし共和政は不安定

まとめ


・清朝末期、近代化を目指す光緒新政が行われる
・しかし光緒新政は失敗した戊戌の変法の焼き増し。当然失敗
・孫文をはじめとする革命派による辛亥革命
・孫文が大総統となり中華民国を建国
・なぜか時間を遡ってアジア初の共和国となる
・ボロボロやら裏切りやらによる革命成功だったのでは

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