流れ着くまで

知り合う人に、自己紹介的に私が在宅ワーカーであること、その職種がWeb関連であることを伝えると、結構な確率で「すごいですね!」と褒め(?)られる。

斜陽産業しかない地方都市。いまだに「パソコン使える」が特殊高等技術として扱われてる風潮あるし、私が地元ではそこそこ偏差値高めの学校を出てるという情報も助けてるんだと思う。これも田舎ならでは。

例えば、有名高校卒業後に有名大学に進むためにめちゃくちゃ努力したとか、大学出た後に苦労して独立して1代で財を成したとかであれば、完全に「すごい」に値するし、頑張った自分を誇れる。

実際はそうではない。
なので「すごい」が余りある。圧倒的居心地の悪さ

何かをめちゃくちゃに頑張った!そのおかげで今の私がある!と胸張って言える経験があるとしたら、部活くらいしかない。いやその部活だって頑張ったのは確かだけど私だけが頑張ったんじゃない仲間も頑張ったし。

その時目の前にある選択肢のうち、楽な方・可能な方を選んできたらこうなった。「好きな方」ではない。楽な方。手っ取り早い方。

子供の頃は色々夢見てたし、何が好きか、何をしたいか、そのために何をしたらいいか、考えてみたりもしてた。

いつの間にか、やれることは何でもしますといいつつ、効率とか省エネとかばっかり考えるようになってた。

私の人生はこれに尽きるのかも。
楽な選択

こう書くとただのクズだな。
まあ全くの嘘ではない。

いまの私に流れ着いた経緯を書き出すと、流れるほうに流れてきたな、と改めて思う。色々あったけど、いや、いろいろあったからこそ、省エネができてしまったし、私ができた。

これは、私が死んで、生きなおすまでの記録。


1度目の就職

大学を出て、専門職に就いた。
高校の頃からやりたかった専門職だった。
半年過ぎたあたりで気が付いた。
全く向いてなかった。

当時の上司に言った。
「向いてなさすぎてつらいです。必要な人間ではないと思うとつらいです」
めちゃくちゃ優しい上司は言ってくれた。
「深く考えなさんな。あなたの良いところは沢山あるよ。例えば目を見て話すところとか」

2年足らずでやめた。

Uターンしたものの

辞めて、地元に戻って、いくつかのバイトをした。ファミレスとかコンビニとか。専門職を生かした正社員の口を探したけれど、田舎にはなかった。

もやもやしてる間に、21世紀になった

ミレニアム!と世界が沸いたあの頃。
私はこのままこの田舎で結婚して子供産んでパートに出て旦那の愚痴言って人生終わっていくのかな・・・と取り残された気分だった。自分で選んだ道だけど何を選んだのか自覚もなかった。

もやもやの私は、人生行き詰ってます的なメールを前述の元上司に送った。「その気があるなら戻ってこい」と声をかけてもらった。

出戻り:2度目の就職

出戻り大歓迎の緩い会社だった。実際、出戻った私は社長先輩同僚後輩みんなに大歓迎された。ただし、ポストはなかった。専門職では使えないことを呼び寄せてくれた元上司自身がよくわかってたから。

多分、その元上司が全部の部署に声かけてくれたんだと思う。出戻りを使ってくれないかと。

人手はどこも足りなかったはずだけど、私を受け入れる余地がある部署はなかったんだろうな。面倒見の良い先輩社員が新しく長になった部署に配属された。デザイン部署だった。

デザインとは無関係の私。絵心もない。
デザイン部署でできる仕事は、下調べ等の雑用だった。

デザインやってみろって言われて1回やったけど当然没になったしその後二度と言われなかった。雑用を1年近くやってたと思う。

そこは自由な会社で、いろんな人がいろんな外部とつながってて、社長に事後申告なんてことも多々あった。そんな社内でも有数の自由人が、あるとき唐突に、楽天市場と契約してきた。楽天市場の立ち上げ数年くらいの頃だった。まだWebショッピングも一般的ではなかったし、モールって概念もなかった。”楽天”という単語ですら「なんかそういう詐欺あったよね?」と心配されるレベル。

何を売るかすら決まってなかった。
社内にWebに関する知識がある人もいなかった。

とにかくすごいんだぞ!
ここに出店するってことは銀座の一等地に店舗構えるのと同じなんだぞ!
なんでも売れるんだぞ!
売れるもの売ったら良いぞ!

と、その自由人が、私に丸投げしてきた。

丸投げから責任者になるまで

丸投げされた理由はわかってた。私が余ってたからだ。

私が属していたデザイン部署は、行きがかり上、ネット通販部門を抱えることになって名前を変えた。「未来企画課」みたいなのだったとおもう。

私は、丸投げはされたけど、ネット通販部門の責任者は別部署の男性が兼任することになった。女に責任者はできないと思われたのか。それとも私が無能だからか。

ちょっと悔しかった。事実として女だし、その時点で無能ではあったけど、何が起こるかわからない未来まで無能と認定された気がして納得いかないなぁ・・・とは思ったけど、見方を変えればアドバンテージもらったってことだよね!とさほど重くは受け止めてなかった。その時は。

仕事は楽しかった。当時、ネット通販が世間に認知され始めたころだったので、ある意味なんでもありだった。今は当然あるものが当時はなかった。いまなら炎上しかねないようなことも。たとえば当たりのない懸賞を仕掛けて大成功した同業者はいっぱいいた。でも、そういうのも開拓者が必死に考えてやってたことだったし考えるのが楽しかった。反響もすごかった。世間も新しい文化に飛びついていたころだった。

気が付いたら熱中してた。社内に私以外にできる人はいなかったし、責任者であったはずの男性社員は存在感なく、私の肩書はネット通販部門責任者になってた

htmlとは

楽天出店にあたって自由人が説明を受けたのは「Webの知識がなくてもOK!パソコン触ったことない商店主人でも楽々!」だったらしい。

私はパソコンはそれなりに使えたけど、ホームページって?そもそもインターネットって?という程度。そもそもそういう時代だった。まだガラケーの着信音が和音だなんだ言ってたころ。写メって言葉ができる前だからね。

何も知らない私にできることは、「何をどうしたらよいのかおしえてください」と社内で無差別に聞いて回ることだった。

当然社内にも詳しい人はいなかった。いや、いたんだけど、その人に教えてもらったのは、マイクロソフトWordでホームページ風の文書を作ってhtml形式で保存する、というものだった。本当は、htmlの知識はある人だったから、ちゃんと教えてくれるはずだったんだけど、どこでどう間違ったかこうなった。FTPでアップロードの段階になって、Word独自のタグを使ってるから駄目だねーってことで全没になった記憶。その人も知らなかったらしい。あのときそれなりに勉強して会得したWordでホームページ作る技術(と呼べるのか)、あれから20年以上たつけど一度も役に立ってない

社内に頼れる人はいない(頼ると混乱する)と知ったので、次に頼ったのは、楽天出店者のよろず相談所のような掲示板だった。当時、私のような人はめちゃくちゃたくさんいた。むしろ私のような人達ばっかりだった。楽天が「何も知らなくてOK」と言ったから当然。

もちろん、html知らなくても運営はできた。でも楽天が用意したツールだけでできるお店はダサいの極みだった。

楽天市場はオプションとしてhtml講座もやってたと思う。ただし有料。めちゃくちゃ有料。

ごく一部の「詳しい」有志が、無料で、ボランティアで、立ち上げて、回してくれていたのがよろず相談所掲示板だった。

画像を置きたい、とかからはじまって、テキストの色を変えたい、背景の色を変えたい、そんな超初歩から教えてもらった。まだググるって言葉もなかった。ネット上にそういうTipsがあったかどうかもわからない。

実績と評価

htmlの技術を身に着け、ネット上での接客を身に着け、販売ノウハウを身に着け、売れるものが何かを見る目が養われ、成績を伸ばしていった。

新規事業で成果を出す人間は当然、社内でも一目置かれるようになる。

今思えばそりゃそうよねそういう時代だよね何しても売れたよねと思うけど。

売り上げを伸ばすことで、営業部門と衝突することが多かった。彼らは「客を取るな」と言った。営業が足を運べない地域限定でネット通販やれと言われたことがあったくらい彼らも無知だった。女がまともに意見してきて腹立つ、と言われてたそうだ。とにかく目の敵みたいに、客がクレーム言ってるのはネットのせいだと怒鳴り散らされ続けた。

でも、営業成績はどんどん伸びた。会社は私の肩をもった。ますます営業氏にやりこめられた。それでも負けたくないと思った。

その根底には、丸投げ当初のこれがあった。

私は、丸投げはされたけど、ネット通販部門の責任者は別部署の男性が兼任することになった。女に責任者はできないと思われたのか。それとも私が無能だからか。

気にしてたつもりはなかったけど、どんどんと、この

ちょっと悔しかった。事実として女だし、その時点で無能ではあったけど、何が起こるかわからない未来まで無能と認定された気がして納得いかないなぁ・・・とは思ったけど、見方を変えればアドバンテージもらったってことだよね!とさほど重くは受け止めてなかった。その時は。

「アドバンテージもらった」という勝手な解釈が負い目となって、さらに私を追い込んでた。

人員拡充

運営以外の顧客対応はパートさん他応援してくれる人員がいたけど、運営は私ひとりでやってた。でも、ひとりでやれる限界は近いと思って、会社に頼んだ。パートナーが欲しい。

会社は、そういう人員を採用したことがないしどういう技術が必要かもわからない。私の判断で雇って良いよと。

ありがたかった。
ただひとり、私の出戻りを助けた元上司だけは「気をつけろ」と言った。意味はわからなかったし足を引っ張るつもりかなとすら思った。それくらい社内に敵ばっかりだと疑心暗鬼になってたころ。

htmlの師匠がたくさんいた掲示板で出会った同業者が退職したのを知った。同年代の女性。プライベートでも仲良くする間柄だった。即座に声をかけた。彼女も喜んできてくれた。

形だけの面接に、人事部長となっていた元上司も同席した。とっても良い人でしょう?技術も申し分ないです!と太鼓判を押す私に、人事部長は「まずはアルバイトから」と言った。

仕方がない。二人で頑張って実績をさらに伸ばせば正社員にしてあげられる。そう約束して、アルバイトの彼女と二人三脚スタートした。

彼女の採用が決まった後、人事部長は私にまた言った。「気をつけろ」

絶望

営業成績はどんどん伸びた。
ひとりでは考えつかなかったことも、彼女が生み出してくれた。

相変わらず営業部門からの嫉妬攻撃はすごかったけど、彼女のことも私が守らなきゃとがんばった。

アルバイトだった彼女を正社員にしてくれるよう会社に頼んだ。私がそういうならと正社員採用が決まった。

人事部長が「俺のカンははずれたってことだなぁ、そこそこ当たるのになぁ」と言った。でしょでしょー、心配しすぎですよ!と笑った。

そのころから彼女の態度がちょっと変わってきたように思う。今思えば。

自分でいうのもなんなんだけど、そのころ私は外部にもちょっとした「できる人」と評価されてた。あるとき外部の人から新事業を手伝ってくれないかと声をかけられた。副業だ。

何度も書くけど自由な社風で、副業やってた人もたくさんいた。おおっぴらに認められてはいなかったけど、禁止ではなかった風潮。
むしろ社長は、どんどん力を伸ばして他社に欲しがられる人材になれ!欲しがられて転職するならそれでも良い!と言う人だった。(それもあっての出戻りあり・自由人ありだったんだろう)

なので私も副業の声掛けがあったとき、うれしくて飛びついた。副業先でもそれなりに評価されて、実績がついてくるかな・・・の頃に

彼女がその事実を知った。

彼女には声がかからない副業を、私がやっていたことに、激怒したらしい。

らしい、というのはそれについて今に至るまで一度も話していないから。

彼女は、私の指示をすべて無視するようになった。渡したメモを目の前で丸めて捨てた。会話も無視。当然店舗運営なんてできない。それでも私は責任者で彼女の上司だから指示を出した。でも指示じゃなかった。お願いだしお伺いだった。彼女の意に沿うものは採用されて、作業が進んだ。意に沿わないものは無言で却下されて滞った。

彼女の自尊心を傷つけた私が悪いんだと思った。私だけが評価されたのが悪かったんだと。

いちばんきつかったのは、他部署の同僚たちに彼女が「無能な上司がいてほんと疲れる、私がひとりで仕事してる」と吹聴していたこと。時には私の目の前で。

それが事実ではないことを、周りはちゃんと知っていたけど、私と彼女は社内でも有名な「仲良しチーム」だったので、周りはみんな冗談だと思って彼女を止めることはなかった。

私からは誰にも、何も言わなかった。社内では仲良しチームのままだった。それから半年くらいだったか。

会社に行けなくなった。

休職・退職

なんか薬飲んだら楽になるんじゃないかと思って行った先は精神科だった。当時心療内科なんて言葉あったっけ?

1回目の診察で、会社に行けないとおいおい泣いた覚えがある。

ただ、彼女のせいだとは言えなかった。正確にいうと自覚できなかった。当時は私が悪いと思っていたから。

彼女の自尊心を傷つけた私が悪いんだと思った。私だけが評価されたのが悪かったんだと。

じゃあ休職しましょうか3日間と言われた。

3日じゃ何も変わらないのはわかってた。薄々、彼女がいなくならないと解決しないと知っていたんだと思う。

泣いて泣いて、2週間の休職診断書をもらった。

会社に連絡した。人事部長。彼女のせいだとは言ってないのに
やっぱりなぁ」。

仲の良かった先輩にも、個人的に連絡した。とても理解のある人だと思ってたから、何があったか全部話してもいいかなと思ってたのに、休職すると伝えたら「医者の言いなりになるのか?その薬飲んだら頭おかしくなるぞ。病院には行くな。会社に来い。仕事したら治る」と説教された。結局なんで私が追い詰められたかは言えなかった。その後二度とその先輩とは連絡とらなかった。

2週間のあと1か月、3ヶ月と休職診断書をもらった。
どんどんと病状は重くなった。

自傷・自殺未遂、入院、また自傷・自殺未遂、入院。

半年くらい休職、一度復職して別部署に置いてくれたりしたけど無理で、トータル1年半くらい休職して、そのまま退職した。そこまで休職を認めてくれた会社には感謝してる。

彼女のいる組織に戻ることが恐怖に感じてたんだと思う。

生きなおし

退職はしたけれど、食っていかなきゃならない私の手元に残ったのは、ネットショップ運営経験と、htmlの知識。

アルバイトとして、いくつかの会社でネットショップの運営補助をやって食いつないだ。でもそれだけで人生を成り立たせるほどの技術も知識もなかった。

そのアルバイトも長く続かなかった。ずっと死にたかった。「誰かを傷つけた自分」を許せなかった、のかもしれない。

自傷行為は続いていたし、自殺未遂の3度目もこのころだったと思う。

実家に戻っていたのだけれど、知り合いのいない土地に引っ越すことにした。明るい未来のためにと思ったし公言していたけど、実際は実家で死なないためでもあった。

実家からは新幹線の距離に、htmlコーダーとしての派遣職をみつけて、親の反対は無視して引っ越した。

その土地で、ちょっとずつ目が開いてきた。

生きなおした、と思った。

仕事は暇なことが多かったけど、htmlコーディングは楽しかった。
本音で話せる友達はできなかったけど、休日ランチの相手は何人かいた。

それでも通院と薬は欠かせなかったし、正常な精神とは言い難かった。自傷行為も続いていた。

ただ、生きてる実感はあった。

きちんと話を聞いてくれるカウンセラーに出会ったのは大きい。「私がしたこと」と「誰かにされたこと」を分けて考えること、そしてそれらにつながる感情を整理すること。

気が付けばフリーランス

htmlコーダーの派遣は2年近く在席したけれど、結局最後は入院することになって辞めた。色々見えるようにはなってきても、病状としては軽くなかった。

辞めて、また実家に戻った。あるとき友達に頼まれて、バナーを作った。たしか、500円もらった気がする。無料で良いよ!と言ったけど、そんなわけにいかないと500円。その時、もしかして自分のもってる技術は、お金に換えられるのかも?と知った。

派遣社員の頃は、売れるほどの知識があったわけじゃない。補佐的な作業ばかりだったから。でも、お金に換えようと思ったら勉強したくなって、あれこれ調べながら見様見真似で、お金をもらってもいいのかなくらいの技術が身についてきた。

翌年には個人事業主になり、いくつかの企業から継続的に案件をもらえるようになった。

そこから12年。

流れ流れて。

「私は悪くない」=自己肯定の技術

私は悪くない、と言えるようになったのはつい最近。なにか嫌なことが起こるたび、すべては自己責任だと思って生きてきた。そのせいで自分を苦しめてきたんだと知った。

少なくともあの休職に至るまで、そのきっかけ、それらは私には非はないと、今ではいえる。彼女には因果応報があれば良いと思うくらいには、意地悪も言える。

「私は悪くない」を覚えると同時に、自分の力ではどうしようもないことがこの世にあふれてる、といつも意識するようになった。

私は悪くない。とはいえ誰かが悪いわけでもない。

これが、いまの私の最前線の、生きるための技術だ。

楽な方に流れてきた

向いてないと思った専門職を辞めたこと。
居場所がなくて後ろめたさを感じなくて良いように努力したこと。
「彼女」を悪者にしなかったこと。
休職・退職したこと。
自傷行為も、自殺未遂も。
新しい何かではなく、できることをお金に換えようと思ったこと。

全部、私にとって楽な方だった。

きっと周囲は、なんでそっち選ぶ?!と理解できないこともあったと思う。
外からみたら泥水飲むような努力もしてるっぽいけど、自分では努力も苦労もなかったといえるのは、それが自分自身で選んできたことだから。楽だと思って選んだから。

向いてないと思っても頑張ってあのまま専門職続けてたら。
居場所がないと感じたときにすぐ辞めてたら。
「彼女」が悪いと社内に知らしめていたら。
病気になんてならなかったら。
新しい資格や技術を身に着けていたら。

こういう妄想をすることはしょっちゅうある。
あのときああしていたらどんな人生だっただろうって。

でも、いま、ひどい人生だけど悪くないとも思ってる。

それなりに稼ぐ力をもって、息子が生まれて、猫が3匹いる。

楽な方選んで、のらりくらりやって、いまここまで来ちゃった。

ただそれだけ。







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