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やじろべえ日記 No40 「想起」

今日はお休みなので一日中寝ていたいところだが練習しないといけない。
私は野良のキーボード弾きである。今日はセッション仲間の浅井さん,伏見さんと一緒にセッション練習をする予定だったが…噂をするとスマホの通知が鳴った。

『浅井です。今日の練習ですが,伏見さんと相談して個人練習にしたいのですが,市村さんも個人練習にさせてもらってよろしいでしょうか。急に申し訳ありません。』

ちなみにこの市村というのは私の名前である。

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断る理由もなかったので個人練習を受け入れることにした。そもそも私も昨日考え事が多すぎて眠れなかったのでちょうどよかった。それに試してみたいことがあった。

そう言って私が向かったのはスタジオである。戸村さんと初めてセッションしたあそこだ。

ここにきて何かが変わるというわけではないのは百も承知だった。ただ,戸村さんが私に何を期待していたのか,それがわからなければ浅井さんや伏見さんの考えも多分意味をなさない。私が向き合うべき問題なのだ。

スタジオの職員さんに話をして私はあの日借りたスタジオを借りることにした。

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とはいえやることなんて一つしかない。ひたすら弾く。
なんでもいい。とりあえず思いついた曲をひたすらに弾いた。前回戸村さんとセッションしたとき,何が足りなかったのかの見当は全くつかなった。情けないとは思う。ただ,あの日,『戸村さんと合わせる』ことに意識を取られてしまっていたのは記憶している。

それで期待外れになってしまったのであれば逆をやってみればいいのでは?という発想から現在の状況に至る。まあ正解かはわからないしそもそも何かが変わるわけでもない。
かといって,何もせずにはいられなかった。

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2時間ほど弾いていただろうか。後ろから拍手が聞こえた。
振り返ると,そこにいたのは戸村さんだった。
「…すごい演奏だったね。」
「…思いついたまま弾いてただけですよ。」
考えたことを素直に口に出した。
「あれから考えてたんです。何が期待に沿えなかったのか。」
「…あの件は本当に申し訳なかった。僕も期待しすぎたんだよ。」
「そうですか。ちなみに期待していたことをもう少し具体的に話してもらうことは可能ですか?」
「どうして?」
「演奏する人間である以上,期待にはこたえたい。…食欲や睡眠欲レベルの話でしょう?」
なんだか若干戸村さんが引いたようなそぶりを見せたが,気にしないことにした。やがて彼は思い口を開いた。
「…建成と3人で演奏したときさ,ものすごく生き生きしてたんだよね。市村さんは特に目立ったパートをやっていなかったのに,曲全体が意思を持った動物のような,そんな感じがしたんだ。もちろん,制御されるところは制御されてたけどね。それですごく楽しそうだって思って。それであの打ち上げの場でセッションを頼んだんだ。」
「なるほど。じゃあ,戸村さんとのセッションの時の私は生き生きしてなかったんですね。」
戸村さんがうぐっと声に出した。声に出してうぐっていう人初めて見たな。
「生き生きしてなかった,というか何かにおびえている感じがしたんだ。まあ初対面だったしこれは僕の采配も悪かったなあと思いはした。だから君が何か悪いわけではないのは本当なんだよ。」
なるほど。悪いわけではないとしきりに話していたのはそれでか。
「そのあと建成に事情を教えられたうえでこっぴどく怒られた。あのセッションは1か月間一緒に悩んだりぶつかったりした結果だ。同じものを一瞬でできるわけないだろうって。」
たしかにあの演奏は一朝一夕のものではない。それは事実だ。
「…君が誰かに合わせることがうまくでいなくてあちこちで一人で弾いてたことも,なかなか自分の癖を受け入れてもらえる人に会えなかったこともその時聞いた。だから,軽々しく期待して失望するなって怒られた。僕,そこまで大きくとらえられると思ってなかったからさ。」
あの演奏だけを聞いてそこまで解釈するのは正気の沙汰ではないだろう。いくらなんでもあの演奏だけで楽しそう,だから一緒にやろうなんて単純な考え,常人なら起こさないはずだ。話を聞いてて思ったことがある。戸村さんも戸村さんで,何かありそうな感じがしてきた。誰かに受け入れられなかった何かが。
「戸村さん,今時間ありますか?」
「いや,もうバイトの時間。」
「なるほど…」
こうなったら。

「明日,セッションしませんか?今度は容赦ないセッションを。」


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