見出し画像

全体を視るということ。

相手に行動変容を求めることは,とっても難しいことなのだとわかっても,僕たちはつい相手に行動変容を要求してしまいます。

自分は正しい行動をとっていると思っているのだから仕方がないと言えば,仕方がないのかもしれません。

僕らの視界に入るのは,自分の言動ではなくて,相手の言動だけなのですから自分の言葉や行動に意識がいかなくてもそれはわりと自然なことというか,当たり前のことなのかなぁとも思うのです。


だからこそ視点を外ではなくて,内側に持つことで,自分の内面に常に意識を払うことで,全体を視ることができるのかなぁと思っているのです。

しかし自分をも視界に含めるというのは,これはまたひどい難問ですね。

自分の目で見ている限り,そんなことできっこないのです。
けれどもそうしなくては,私は正しい,従ってあなたが改めるべきだ,という考え方から離れることはできないのですから仕方がないです。


でも勘違いしたくないのは,相手に変容を求めてはいけないのなら,常に変容すべきは自分なのか?というとそうではないかなってことです。

私の言動が,私の大事な価値観や信念,人生の原則に反しないと自分自身が言ってくれるのならそれでいいのです。

僕がよければ,あなたが悪い。
あなたが悪いなら,僕が良い,みたいな簡単な二元論にはなりませんし,選択肢はもっと無限にあってよいのです。


それだと意見がぶつかることがあるかもしれません。
それもまたよいのではないでしょうか。
場合によってはその取引は中止になるでしょうし,そのまま相容れない関係が続くかもしれませんが,だから,私かあなたのいずれかが間違っているということでもないですから。



全体を視るということは,第3の視点で物事を眺めることでしょう。
俯瞰とか,鳥瞰とか言うのでしょうか。
物理的にそう在ることはできませんから,意識だけ切り離して視るのでしょうか。
もうひとりの自分を持つことができれば,あるいは自分の中にパートナーを持つことができればそれが叶うかもしれません。

こういうバカなことを毎日考えて,毎日訓練していると,自然に全体を視てくれるパートナーが自分の中に生まれます。これは本当。
彼らの声に真摯に耳を傾けたり,時に無視してみたり,そうしてひとは成長していくのだろうと思っています。
いくつになっても成長してもよいのです。
いくつになっても将来の自分を夢見だってよいのですよ。


サポートいただけると燃えます。サポートしすぎると燃え尽きてしまうので,ほどほどにしてください。