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友人へのメッセージ

ちょっと前に嬉しいことがあった。

それは大学からの友人が送ってくれたメッセージに書かれていたこと。

「1年前にAYUがくれたメッセージに勇気をもらうの」
「Facebookでくれたメッセージを手書きで残しててん笑」

そういって、ちょうどそのとき彼女に紹介した本の上に、その手書きのメモが置いてある画像を送ってくれた。

彼女にそのメッセージを送ったとき、どうやらわたしはヨガのクラスをうける前だったらしい。

その手書きのメモには、丁寧に「じゃ、ヨガしてきます〜」という、わりとどうでもいいシメの言葉まで写されていた笑。

自分がおくった言葉を、そうやって大切にうけとめてくれていたことがとても嬉しかった。そして、じんわりと感動してしまった。

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だれかに何かを打ち明けてもらったり、相談されたりするとき、いつもなにか大いなるものに試されているような気がする。

どれだけ背伸びしようとも、人は自分の器におさまるものとだけ向き合っているのだと思う。

だから、なにか人の心の奥深いものと対峙するとき、わたしはいつも自分の器をつきつけられるような気がしている。

そして、その方の相談事や告白をどうこうする前に、今自分がその人のその話を受け止めることになっている因果みたいなものに戦慄する。

目の前の他人の話であっても、それを認識し解釈した時点で、わたしの脳のフィルターを通したわたしの現実の一部なのである。わたしの創造物が、いやでも無意識にはいってしまう。

だから、自分のフィルターのくせを知るために、瞑想したり、日記をつけたり、いい先生がいると聞けば自身もカウンセリングを受けてみたりする。

それでも、本当の本当に、純粋で完璧に、目の前の人や、その人の話を知る事はできない。程度の差こそあれ、自分の認知や解釈の影響が入ってしまう。

そんな完全に純粋ではない状態の言葉や問いの中に、人は何らかのきっかけを見出して、自分で勝手に変わっていく。それってなんだかすごいよね。

友達との会話でも、カウンセリングでも、究極的にこちら側でできることは、不完全な自分でも最大限に相手と向き合おうとする覚悟だけなのかもしれない。

もちろん様々な心理技法や思考法やワークをすることで劇的に変わることもある。けれど、同じそういったツールを使っても、カウンセラーによって全く効果が変わるのは、前述の覚悟(あるいは受け止められる器)みたいなものの違いなのではないかとも思える。

精神論っぽい結論はあまり好きでないので、この「覚悟」をもっとわかりやすくブレイクダウンしていくのが、今後の課題であーる。



thank you as always for coming here!:)