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癒したいは、癒されたい

ちょっと前にオーストラリアに旅をした。
もともとオーストラリアに行く代わりに、ハワイとLAに行こうかと思っていたのに、急な方向転換があったのだ。

それは、ある人との会話がきっかけだった。

「君が誰かを癒したいと思う時、まずは自分を癒さなくてはいけないよ」

オーストラリアにいたイギリス人の友人からそんなメッセージがきたのだ。
その友人は世界中で演奏をしているアーティストで、気功やヨガの先生でもある。

「誰かを強烈に癒したくなった時、それは自分がとてもとても癒されるべき時なんだ」

友人の言葉を、自分なりに反芻してみる。
禅問答みたいだけど、合ってる気がしなくはない。

でもしっくりこない。わたしは充分に元気なんだから。癒される必要ない。それでも、癒しが必要な人はやたら目につく。

それでも、友人の言葉のいわんとするところは、様々な体験をもってして、後々わかることになる。いつか書くかもしれないオーストラリア旅行記の中で、シェアしていけたらいいなぁ。

その体験をふまえて、さらに友人の言葉を咀嚼すると、

「誰かに何かして(癒して)あげたい時、純粋にその何か(癒し)に関わりたい自分がいる。その何か(癒し)を求めたのは自分である。」

ということかもしれない。

世界が自分の内面の投影だと仮定してみる。

癒しが必要な人が目につくとき、

安心が必要な人が目につくとき、

豊かさが必要な人が目につくとき、

これらは、無意識に自分のセンサーが選別して、さらに脳のフィルターで解釈した情報である。

だから、癒し、安心、豊かさ、何でもいいんだけど、何かが必要だなぁって誰かに見出すとき、それは自分の内面が欲しているものの投影であるかもしれない。

最近はいろんな世界の人とお話するようになった。そして、1人の人の中にある、色んな世界をみることができるようになってきたと感じている。

そんな中で、人間って、あまりにも多面体で多彩で、つかみどころのない生き物だなぁと改めて思う。

だからこそ、ある1人の人とあっても、人によって、場所によって、タイミングによって、様々な要素がでてくる。

「あなたの目の前の人は、あなたの鏡だよ」って昔ながらの格言があるけど、本当にそうだと感じている。

では、最近のわたしは、人様に何をしてあげたいと思ってるのだろう。要するに、自分は何を欲してるのだろう。

日記をみてみると、「もっと自由にやればいいのに」って書いていた。誰かに対して。

それはきっと、その人のための言葉でもありながら、さらにもっと自分が自由になれることの前兆でもあるのだと思う。




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