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木洩れ陽の中で (第五章)

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 第五章 心の傷

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翌日、昼前にはみんな連れだって帰って行った。

しかし、しばらくして真希だけが忘れ物をしたと言って戻ってきた。

「何忘れたんだよ、財布か?」

真希は首を横に振ると、バッグから何か取り出した。

「これ、ご両親に渡して」

「なに?」

「クリスマスカード。この前、ご迷惑をおかけしたから」

「何だ、気を遣わなくていいのに」

「たいしたこと出来ないけど」

「うん、わかった」

カードの他に何か入っているようだった。

亮介は、それをサイドボードの上に置くと、

「昨夜は気疲れした?」

と気になっていたことを訊ねてみた。

「え? うん、ちょっとね。せっかく声かけて貰ったから、浮いちゃうとみんなも困っちゃうでしょ。でも、そういう私に気付いてたよね、亮介君」

(真希は、昨夜俺がそういう眼で真希の事を見ていたことにしっかり気付いていた…)

亮介は、真希は自分より一枚も二枚も上手なんだなと改めて認識した。

「真希は何でもお見通しなんだなぁ、賢治達のこともそうだけど」

真希はそれには答えないで、

「ねえ、私、少し後片付けするね、あがってもいい?」

と亮介にとっては予想外の事を切り出してきた。

「え? 何言ってんだよ。いいよそんなこと心配しなくても」

「戻って来ちゃったんだからいいじゃない」

真希はもう靴を脱ぎ始めていた。

「しょうがないなぁ、何でそんなに律儀なんだよ」

真希はじっと亮介の顔を見つめると、

「馬鹿」

と言って二階へと上がっていった。

(馬鹿? 何で?)

慌てて亮介も後を追った。

真希と亮介は三十分ほどかけて部屋を片付けると、ゴミを纏めてリビングに戻ってきた。

使い捨ての食器ばかりで洗い物は殆どなかった。

「真希、もうお昼だよ。どうする?」

「どうしようかな」

「今日はバイトは?」

「今日は一日フリー、明日から毎日」

「じゃぁ、どこか食べに出る?」

「うーん、ちょっと冷蔵庫覗いていい?」

「え? 何する気?」

真希は、冷蔵庫を覗くと、

「よし!」

と言って振り向いた。

「出かけるの面倒でしょ? チャーハン作るね」

と、これも亮介には想定外の事を切り出してきた。

「そっちの方が面倒じゃない?」

「台所借りるよ。そっちでのんびりしてて」

そう言っててきぱきと動き始めた。

亮介は半ば呆然として、真希のうしろ姿を眺めていた。

(何でもこなして律儀な真希のことだから、きっとひとり暮らしの部屋も綺麗なんだろうな、その割には健康管理が出来てなさそうなんだよなぁ)

少なくとも真希は菜穂子とも絵里子とも全く違ったタイプの女性であることは確かだった。

もう少し大人にならなければ支えきれないと美江子が言っていたが、亮介にはまだその実感はなかった。

三十分程度で真希のチャーハンが出来上がった。

「さぁ、どうぞ」

「あ、じゃぁ、あの、頂きます」

「なに緊張してんの? 毒なんか入れてないよ。口に合わないかもしれないけど、そこは我慢してね」

「いや、そうじゃなくて…」

真希は怪訝な顔で亮介を見ていたが、

「じゃぁ、私もいただきます」

と、いって機嫌良く食べ始めた。

真希の食事の取り方はとても丁寧で、食べ方も綺麗だった。

亮介には今眼の前にいる真希がどうしようもなく可愛く見えて仕方なかった。

どれが本当の真希の姿なのだろう、そういう思いをますます募らせていく亮介だった。

真希は、食べ終わるとまたてきぱきと片付けはじめた。

「俺がやるよ」

亮介は真希の隣に並ぶようにして流し台に立った。

真希は手を止めてしばらく亮介が食器を洗うのを眺めていたが、

「亮介君、ほとんどお手伝いしてないでしょ」

そう言うと再び手を動かし始めた。

「え?」

「食器の洗い方、下手」

亮介はしばらく黙っていたが、

「はい、否定はしません」と素直に認めた。

最後のお皿を拭き終わり、真希が亮介の顔を少し斜めに上目遣いに見た時、亮介は真希の体を引き寄せ、抱きしめていた。

真希はじっとしたままで拒否しなかった。

しばらくして亮介は少しだけ腕の力を弱めて、真希の顔を見た。

真希は少しびっくりしたような面持ちで眼を大きく見開き、少し見上げるように亮介を見ていた。

亮介は少しためらいがちに、ゆっくりと真希の唇に自分の唇を重ねていった。

真希の暖かさが伝わってきた。

そう感じた瞬間だった。

亮介は真希の両腕で突き飛ばされていた。

亮介を見る真希の目は明らかに憎悪の色が溢れていた。

「お、俺、ごめん…」

狼狽える亮介を睨みながら、真希は少しずつ後ずさりしていった。

そして崩れるように座り込んだ。

つい先ほどまでとは明らかに別人の真希だった。

真希の全身ががくがくと震えているのが亮介にもはっきりと見えた。

そして亮介を睨み付けていた眼が宙を泳ぎ出したかのように見えた瞬間、真希は激しい吐き気に襲われ、口を押さえながらトイレに駆け込んだ。

亮介は何が起こったのか分らなかった。

つい先ほどまで優しい眼で亮介を見ていた真希の、あまりの豹変ぶりに言葉を失った。

亮介は慌ててトイレの前まで行ってはみたものの、どう声をかけていいのかも分らず、ただ立ちつくすだけだった。

トイレの中で真希が吐いている音がトイレの外の亮介の耳にもはっきりと聞こえてきた。

亮介はふらふらとトイレの前から離れ、リビングのソファに頭を抱えるように座り込んだ。

拒否されるかもしれない、そんな思いは確かにあった。

でも、こんな形で強い拒否反応を示されるとは思いもしなかった。

それは真希の意志というよりも、真希の意志とは無関係に体そのものが突然拒否反応を起こしたように見えた、そう表現する方が正しかった。

それにしてもあまりにも違いすぎる真希の姿は亮介には少なからず奇異に映った。

(彼女の奥底にあるもの、それは何だろう)

亮介はいつか誰もいない教室で彼女が泣きながら宙を睨み続けていた姿を思い出した。

彼女が憎しみのような目で睨み付けていたもの、きっとそれが分らない限り真希とは永遠に心を通わせることは出来ないんじゃないか、そう思わずにはいられなかった。

三十分くらい経ったろうか、静かにトイレの扉が開く音がした。

真希は俯きがちにゆっくりと出てきた。

そしてトイレの前でそのまま崩れ落ちるように、泣きながらしゃがみ込んでしまった。

「ごめん……なさい……ごめんなさい……」

亮介の耳にもはっきりと聞こえてきた。

真希は泣きながら謝っている。

何度も何度も繰り返し謝っている。

そこにはつい先ほど豹変した真希の姿はなかった。

亮介はためらいがちに真希の側まで行き、寄り添うように、弱々しく震えている真希の肩にそっと手をあてた。

「なんで? なんで真希が謝る? …悪いのは俺の方なのに…」

真希はゆっくりと首を振った。

「もう大丈夫? ソファでちょっと休んで」

亮介は真希を支えながらゆっくり立たせ、ソファまで導いた。

「隣に座っても大丈夫?」

真希はゆっくりと頷いた。

亮介は真希の隣に寄り添うように座ってはみたものの、それ以上何をどうすればいいか、なんて声をかけたらいいのか分らなかった。

二人とも何も言葉を交わすことなく時間だけが通り過ぎていった。

気持ちが落ち着いてきたのだろうか、やがて真希はゆっくりと亮介の肩にもたれかかってきた。

真希は、何も聞いてこない亮介が嬉しかった。

ただじっとこうして傍に寄り添ってくれていることが何よりも嬉しかった。

でも何時までもこうしている訳には行かないことも分っていた。

もうすぐ亮介の両親も帰ってくる。

「私…、そろそろ帰るね」

しばらくして真希は亮介から離れ、ゆっくりと立ち上がった。

「真希、近くまで一緒に行くよ」

亮介も直ぐに立ち上がった。

亮介はこのまま一人で真希を帰すことが不安だった。

二人は一緒に家を出たが、駅に着くと真希はここでいいからとそれ以上亮介が付いてくることを断った。

真希は改札を抜けると、亮介の方を時々振り返りながら人混みの中に消えていった。
真希の姿が見えなくなると亮介は我慢できなくなり、すぐに改札をぬけて真希の後を追った。

電車のドアが閉まるぎりぎりで駆け込んだ亮介は車両から車両へと真希の姿を探した。

いくつかの車両を通り過ぎ、少し混み合っている人の隙間を通り抜けて、やっと真希にたどり着いた。

真希は亮介の姿を見つけると、一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに安心したような表情に変わった。

「やっぱり、もう少し一緒に行く」

真希は何も言わずに、右手で亮介の肘をそっと掴んできた。

二人は次の乗り換え駅で降りるまで無言のままだった。

亮介には亮介の右肘を掴んでいる真希の指の力があまりにも弱々しく感じられた。

「近くまで一緒に行くから」

亮介の言葉に真希は何も答えなかった。

電車が真希の住む街に到着して二人が改札を出る頃には、短い冬の日は暮れかかっていた。

「本当にもう、ここでいいから」

「大丈夫だよ、もうここまで来ちゃったんだから。近くまで行っても同じだよ」

「でも…」

真希は少しためらっているようだった。

亮介は真希が住んでいる場所まで行ったら、そのまま帰るつもりでいた。

(真希は俺が部屋にまで上がり込むんじゃないかと心配してるのかな)

「心配しないで、送り狼にはならないから」

「え?」

亮介の家を出てから殆ど亮介の目を見ていなかった真希だったが、この時は驚いたように亮介の目をじっと見つめ返してきた。

亮介が考えていることと、真希が考えていることは違っているようだった。

「ごめん、おれ、無神経なことを…」

亮介には昼間の出来事が思い起こされ、今言った言葉を後悔した。

真希はそれには答えず、

「こっちの方…」

と言って案内するように少し前になって歩き出した。

亮介もすぐに真希の歩調に合わせるように横に並んで付いていった。

駅から歩いて十分くらいの場所に真希の住んでいるアパートがあった。

「もう、あそこだから…」

駅前には大衆飲食店、居酒屋などがかたまっていたが、真希のアパート周辺は人通りの少ない場所だった。

(居酒屋も近いし、夜遅くなると、女性の一人歩きはちょっと危ないかも)

真希は立ち止まったまま、亮介が何か言うのを待っているようだった。

「さあ、もう上がって。真希が部屋に入るのをここで見てるから」

「先に行って。ここで見てる」

「真希が部屋に入ったら帰るよ。昨日から殆ど眠ってないだろ、今夜はゆっくり休めよ」

真希は素直に頷くと、一人歩き出した。

「あ、真希」

亮介に呼び止められて、真希は立ち止まり振り返った。

「…?」

「今夜、食べるものある?」

「大丈夫。普段から自炊してるから」

「そう…」

真希はまだ何か言いたそうな亮介に気付き、そのまま怪訝そうな顔で亮介を見つめていた。

「あの…、アルバイト、次の休みはいつ?」

「一月…二日」

「一週間フル?」

真希はちょっと苦笑するように頷いた。

「一緒に初詣、行かないか? 」

亮介は勇気を振り絞って真希を誘ってみた。

昼間のことがあってすぐだったから断られても仕方ない、そう思っていたが、真希はすぐに、「うん」と頷いた。

亮介は一瞬真希の顔が明るくなったように感じた。

「電話するよ。じゃあ、行って」

亮介は軽く手を振って、真希に行くよう促した。

真希は時々振り返りながら部屋の前まで歩いて行った。

その姿はまるで亮介がそこに居ることを確かめているようにさえ見えた。

真希は部屋の前に着くとそこで立ち止まり、もう一度亮介の方を振り返った。

亮介は早く部屋に入れと手で合図を送った。

真希は少しだけ手を振ってやっと部屋に入っていった。

こんな弱々しい真希の姿は初めてだった。

亮介はしばらく真希の部屋を見上げていたが、すっかり暗くなった道を一人戻っていった。


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