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木洩れ陽の中で (第四章)

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第四章 クリスマスパーティー

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亮介は、次にみんなが集まる心理学の講座で、クリスマスパーティーの話を出すことにした。

心理学の講座を選んだのは、真希が一緒にいるからだ。

誰かが真希に声をかけることを期待していた。

あんなことがあった直後なので、真希がどんな顔で出てくるかと心配していたが、真希は普段と何も変わらなかった。

亮介は、真希が来たのを確認して切り出した。

「イヴに予定がない寂しいやつは俺の家に集まれ!」

亮介の声に誰も反応しなかった。

亮介は少々焦った。

「え? 何? みんな予定あり?」

亮介が泣きそうな顔をしていると、しばらくして菜穂子が小声で話しかけてきた。

「ちょっとぉ、そういうことは小さな声で言ってくれない? ここで返事したら、みっともないじゃない」

亮介は賢治の方を見た。

賢治は菜穂子の言葉に、うん、うんと頷いていた。

その時絵里子が、そうだ、と言った表情で真希の方を振り向き、

「ねえ、あなたも来ない?」

と真希を誘った。

(絵里子、えらい。君は天使だ)

亮介は計画が思惑通りに進んで、内心飛び上がって喜んだ。

真希はきょとんとした顔で、絵里子を見ていたが、

「せっかく誘っていただいて悪いんだけど、その日はバイトが入っているの」

「えぇ? イヴにバイト? 若い娘が?」

「ごめんなさい」

真希は苦笑しながらそう答えた。

「そっかぁ、じゃぁ、しょうがないか」

絵里子はあっさりと諦めた。

(絵里子、もう諦めるのか、もうちょっと粘れよ)

亮介は必死に心の中で叫んだ。

「バイト何時に終わるの?」

今度は賢治が話しかけた。

「夜九時には終わると思うけど?」

「じゃぁ、終わったら来なよ。どうせ次の朝までみんないるんだ から遅れてきても全然平気」

(賢治、偉い、そこが君の素晴らしいとこなんだ)

「そうよ、そうしなよ」

絵里子が復活した。

真希は、しばらく躊躇していたが、

「じゃあ、お邪魔するわ」そう言って笑みを見せた。

(やったぁ)

亮介は計画がうまく進んで笑顔満杯だったが、菜穂子がじっと亮介の表情を観察していたことには全く気付いていなかった。

亮介は、自分の家の住所と電話番号を書いた紙を真希に渡した。

真希は一瞬亮介の顔を見たが、何も言わずに受け取った。

講義が始まってしばらくすると、絵里子がノートの切れ端に何か書いて回してきた。

『彼女のあんなかわいい笑顔、今まで見たことない。何かあった?』

亮介が驚いて絵里子の方を見ると、絵里子も亮介を見ていた。

亮介は、何もないよというふうに首を振った。

(菜穂子といい、絵里子といい、女って怖い)

亮介は脇の下に汗が滲むのを感じた。

二十四日 

大学は次の日から冬休みに入る。

真希が遅れてくるので、今年は二十時スタートにした。

二十時前になると徐々にみんな何かしらのお土産を持ってやってきた。

料理は面倒臭いのですべて出前にした。

賢治がやや遅れてきたが、ほぼ予定通りに始まった。

「それじゃぁ」

「寂しいもの同士!」

「よけいよ」

「乾杯!」

乾杯と同時に絵里子はいきなりグラス一杯飲み干した。

「う・ま・い!」

みんな呆気にとられた。

「去年は賢治だけだったからね。今年は堂々と飲めるわ」

「絵里子、その飲みっぷり、今までから結構飲んでたんだろ?」

「だから、今年は堂々とって言ったじゃない」

絵里子は悪びれる様子もなく、二杯目のビールを自分で注ぎ始めた。

「菜穂子は大丈夫なのか」

「私は、強くもなく弱くもなくってところかな。亮介君は?」

「俺は、飲めないことはないけどあまり強い方じゃないかな」

「注いでいいよね」

菜穂子は亮介のグラスに二杯目のビールを注ぎ始めた。

「俺には誰も聞いてくれないのか?」

賢治が不満そうに言葉を挟んだ。

「はいはい。賢治君は大丈夫ですか?」

「はい。僕、頑張ります」

賢治と絵里子のいつものやりとりに、亮介と菜穂子は顔を合わせ笑った。

「それよりさぁ、昨日の学内掲示板見た?」

「ああ、見た見た。尾崎一也と、今井紀子って言ったっけ? 二人が行方不明なんだって?」

「らしいな。俺と同じ教育学部だ。二人とも以前に何度か話したこともある」

「私も知ってる。両親が探してくれって言ってるんでしょ? でも私、つい最近二人が学内でビラ配っているの見たよ」

亮介と同じ学部の菜穂子も二人の顔は知っていた。

「行方不明というより、親に住むとこ隠してるだけだろ?」

「そんなとこだろう。闘教連合の仕業か?」

「鬱陶しいよね。闘教連合」

「全統教会系の一派だろ?」

「私聞いたんだけどさ、若い女の人が学内のあちこちで声かけてるでしょ? うっかり付いて行くと拉致されてさぁ、洗脳されるんだって」

「あっ、俺もその話、聞いたことある。比叡山のどこかに監禁して、睡眠取らせずに徹底的に教義をたたき込むんだろ?」

「何、それ、犯罪じゃないの」

「それで、戻ってきたらどこかのアジトに身を隠して、時々学内に現れるようになる」

「時々、学民連ともやりあってんじゃない」

「選挙なんかあるとヒートアップするよね」

「他にエネルギー使えばいいのに、学生運動の真似ごとかよ」

「せっかく大学入れても、親も大変だわ」

「最近は青婦同だの新闘連だの訳のわかんないサークルが増えて迷惑だな」

「それってサークルなの?」

「みたいなもんだろ。就職間近になると急におとなしくなる」

「今時、あの連合赤軍のような革命思想を持って活動してる奴なんていないよ」

「私たちのスポーツ研究会は真面目に活動してるよね」

「何の研究もしてないだろ?」

「まずは、体験することから始めるの」

「なるほど。素晴らしい解答だ」

「最近、歎異抄研究会ってのもよく声かけてくるよね」

「いる、いる。『あなたは、真実が存在すると思いますか?』ってやつだろ?」

「そうそう。この前、そんなもの存在するかって答えたら、『真実は存在しない、という真実が存在すると思いませんか?』だって。頭痛くなってきた」

「政治とは関係なさそうだよね」

「鬱陶しいことには変わりない」

「ねえ、ねえ、それよりさぁ」

絵里子がそんな話もういいよって感じで別の話題を振ってきた。

「中里さんって、ちょっと謎だよね」

亮介はビールを吹き出しそうになった。

(そっちの話はちょっと…)

「そうそう、周りの女性とは全然雰囲気違うもんね」

菜穂子も乗ってきた。

「そうか? あっちが本来の姿で、お前たちの方がチャラチャラしすぎてるって見方もあるぜ」

「何よ、それ。私たちのどこがチャラチャラしてるってのよ」

絵里子はお酒が回ってきたらしい。

「どこがって、チャラチャラが服着て歩いてるみたいなもんだろ? 絵里子なんか特に」

「なあに、喧嘩売ってるの? 爺くさいよりましよ」

「二人とも仲いいわね。 で、心理学、最後まで続けられるの?」

「もちろんよ。あの教授、見返してやる」

「絵里子、見返すも何も、座ってるだけで単位貰えるんだぞ。いい先生じゃないか」

「心理学だからって、人の心、弄ぶなっていうの」

「絵里子、ペース早くない? 中里さん来る前に終わっちゃうよ」

「そう言えば、彼女、あのとき友達って言ったわよね。どういう心理学?」

「絵里子、日本語おかしくないか?」

「だから、何でそう答えたのかってこと」

「別にいいじゃん、そんなこと。友達って答えて自分が損するわけでもないし、友達じゃありませんって答えたら、いつも一緒に座ってる亮介が馬鹿みたいじゃないか」

「え? 俺のため?」

「そうだよ、お前に恥かかせたくなかったんだよ」

「そういう心理学なんだ」

「だから日本語がおかしいって」

「うるさいわね。菜穂子はどう思うの?」

「さあ、どうかな。でも中里さん、雰囲気変わってきたよね」

「そうそう、私もそう思う。でも今でも時々、とっても冷たい瞳するときあるよね。何ていうか…、体温が感じられないって言うか……」

亮介は、絵里子が言いたいことが何となく理解できた。

その時、呼び鈴がなった。

「彼女じゃない?」

「ちょっとみてくる」

亮介は部屋をでた。

「きっと何かあったよね」

亮介が出て行った後で、絵里子が念を押した。

賢治も菜穂子も頷いた。みんな意見は一致しているようだった。

扉を開くと真希が寒そうに立っていた。

「入って」

真希は、お邪魔しますと言って中に入ってきた。

「ここ、すぐに分った?」

「一度歩いてるから。でも、この前と方向が逆だから、ちょっと不安だった」

「ごめん、気が付かなくて。電話くれたら駅まで迎えに行ったのに」

「ううん、みんなが変に思うでしょ」

「悪い。みんな上で待ってる」

そう言って真希を二階の自分の部屋へと案内した。扉を開けると、いきなりクラッカーが炸裂した。

「うわっ!」
「きゃっ!」

その瞬間真希は左手に抱えていた箱を落としてしまった。

入口で二人が怯んでいると、

「いらっしゃーい、真希ちゃん。私、待ちくたびれちゃったぁ」

と、すっかり出来上がった絵里子が、甘えるような声で歓迎の意を表した。

「まるで、新郎新婦のご入場みたいだな。さあ、入って。これは?」

亮介は真希が落とした箱を拾いあげながら尋ねた。

真希は呆然とした顔で、
「割れたかもしれない」と答えた。

「なに?」
「メロン」
「え?」

「何してんの、早く入りなよ」
絵里子が催促した。

取りあえず亮介は真希を部屋に入れて扉を閉めた。

「ここ、座って」

菜穂子が、座っている位置をずらして真希の座る場所を作った。

「じゃあ、そこ座って」

亮介に促され、真希は菜穂子の隣に座った。

「中、見た方が…」

「うん」

亮介はすぐに箱を開き始めた。

「どうしたの」

菜穂子が怪訝そうに尋ねた。

「クラッカーにびっくりして落としたんだ」

箱の中を見ると、メロンがぱっくり二つに割れていた。

「あちゃー」

「よし、今すぐ食べよう」

「私、切ってくるわね。台所借りるわよ」

菜穂子はすぐに箱をかかえて下に降りていった。

「賢治、お前か、考えたのは」

「うん。早くメロン食べたかったから」

「私も」

絵里子と賢治は悪びれる様子も無く答えた。

「みんな、お酒飲んでるの?」

「え? 中里はまだ未成年?」

「来年、三月が誕生日だから」

「早生まれか」

「いいんだよ、大学二年はもう大人扱い」

「絵里子は黙ってろ。ジュースかウーロン茶にするか?」

「少しくらいなら大丈夫よ」

「そうこなくっちゃ」

程なく菜穂子が綺麗に切り分けたメロンを持って戻ってきた。

賢治は真希にコップを渡し、

「さあ、練習は終わり。今から本番入ります」

と言って、ビールを注ぎ始めた。

「私もそろそろ本気で行きます」

絵里子が同調する。亮介と菜穂子は、顔を見合わせ苦笑した。

「それじゃぁ改めて」

「新しいお客さんに歓迎の意を表して」

「乾杯!」

絵里子はまた一気に飲み干した。

「絵里子、本当に知らないぞ」

「まだまだこれからよ」

「賢治とどっちが強いんだ?」

「本気出せば俺の方が強い」

「ねえ、取りあえず自己紹介しない? 私たちはともかく、中里さんとはまだちゃんと挨拶してないわ」

菜穂子は真希が浮いてしまうのを心配してそう切り出した。

「そう言えばそうね」

「じゃあ俺から」

賢治が先頭を切った。

「ええ、山下賢治、二十一歳。工学部。神戸からやって来ました。独身です」

「そんなこと誰も訊いてないよ。次は私、村山絵里子。好きな飲み物、アルコール入り麦ジュース、ビールとも呼ぶらしいけど。人文学部、埼玉出身の純な女の子」

「何が純だよ。チバタマのくせに」

「言ったわね、賢治だって、神戸なんて言ってるけど、六甲山の裏側のそのまた向こうの山の裏側の猪が住んでる所じゃない」

「止めなさいよ、二人とも。ごめんね中里さん、二人はとっても仲がいいの」

「え、ええ。よく分ります」

「じゃあ今度は私。浅香菜穂子、教育学部。横浜生まれの横浜育ち、もちろん純な女の子」

「賢治?」

「何だよ」

「突っ込まないの?」

「何で?」

「いつも私のときばっかり」

「絵里子、何ひねてんだよ。ごめんな中里。二人はとっても仲がいいんだ」

「え、ええ。本当によく分ります」

「次は俺、山内亮介。菜穂子と同じ教育学部。東京生まれのもちろん純な男の子」

「何でみんな私の真似するのぉ?」

「お前が可愛いからだよ」

「今、嘘ついたね!」

絵里子は賢治を睨みつけた。

「じゃあ、最後は中里さんね」

菜穂子が促した。

「あ、はい。中里真希といいます。これからは真希って呼んで下さい。法学部、山口県出身の純な女の子です」

「あなたまで…」

絵里子ががくっと項垂れた。

「すげえ、今夜は純な女の子ばかりに囲まれて、俺サイコー」

「賢治ってイヤミねぇ」

菜穂子が溜息をついた。

「ところで、今年の冬休みはみんなどうする?」

亮介はみんなの予定を訊ねた。

「去年はみんなでスキー行ったよね」

「私は今年の冬は家族と旅行なの」

菜穂子はごめんねと首をすくめた。

「成人式もあるしね」

「俺は去年だった」

「誰も聞いてないから」

「真希は?」

「え、私? 私は郵便局でずっとアルバイト」

「ずっと? なにそれ」

「田舎には帰らないの?」

「うん、どうしようかと考えてる。帰省の旅費も馬鹿にならないしね」

「山口ってそんなに遠かったっけ?」

「おまえ、山梨と混同してない?」

「それでよく、大学入れたよな」

「同じ日本でしょ」

「山口のどのあたり?」

「萩の近く」

「遠いね。私たちは電車ですぐだもんね」

「賢治はどうする?」

「俺はどうにでもなる。まあ一年以上も帰ってないし、久々に帰るのもいいか」

「猪も寂しがってるわよ。帰りな」

「何だよ絵里子、まだ飲み足りないのか?」

「まだ始まったばかりでしょ。ちょっとトイレ借りるね」

絵里子は少しふらつきながら出て行った。

「ねえ、真希、亮介君って変だと思わない?」

真希は、怪訝な顔をして菜穂子を見た。

「何言い出すんだよ、菜穂子」

「変に決まってんじゃん」

「賢治、お前が言うな」

「変って?」

「だって、教室で突然隣の席に座るんだよ。普通気持ち悪くない?」

「ああ、それ。うん。最初は気持ち悪かった。逆らったら何されるか分らないし、ずっと生きた心地しなかった」

「ほらね。亮介君。良かったわね、通報されなくて」

「何だよ、賢治じゃあるまいし。俺は教師を目指してんだぞ」

「最近、変態教師多いんだってよ」

「もういいだろ、そのお陰でこうして今は真希も一緒にお酒飲んでるんだし」

「真希、こっちに同じ田舎の人っているの?」

「ううん、誰も」

「サークルにも入ってなさそうだし」

「毎日アルバイトに明け暮れてるから。バイト先で知り合いは増えたけど、学内は全く。だから亮介君には感謝してる」

「なるほど、それで謎は解けた」

「なぞ?」

「ほら、心理学講座で、こいつら君の友達かって教授が訊ねたとき」

「ああ、はいはい。友達ですって答えた時のことね。でも先生、こいつらとは言わなかったような」

「いいんだよ、こいつらで」

「でも助かったよね」

「そうかな?」

「だって、最後まで居なきゃ、試験だよ」

絵里子が戻ってきた。

「だからぁ、そういう心理学なの」

「絵里子、日本語になってない」

「やっぱり酔ってるの?」

「いや、この前しらふでも同じ事言ってた」

「何だ、普段から酔ってるときと変わらないってことか」

「な、なによ、みんな寄ってたかって私を虐める気?」

「普段から言葉に嘘がないってことでしょ」

「真希! あなただけよ。本当の私を理解してくれてるのは」

「何を言ってる、本当のお前を知ってしまったらそれこそみんな逃げてくぞ」

絵里子は賢治を睨み、急に涙声になった。

「賢治なんか、賢治なんか猪と結婚すればいいんだ」

突然涙目になった絵里子に、部屋の中はいきなり何で? という雰囲気が漂った。

真希はすぐに賢治を睨んでいる絵里子に静かに寄り添うように座り直した。

そして何か小声で絵里子に話しかけた。

絵里子はうんうんと小さく頷いていたが、急に笑顔を取り戻し、

「真希、乾杯しよ」

そう言ってまたグラスにビールを注ぎ始めた。

その様子をキョトンとした顔をして見ていた菜穂子と亮介に、真希は「えへっ」というそぶりをして見せた。

菜穂子は亮介の耳に顔を寄せ、

「何を言ったのかしら?」と小声で訊ねてきた。

そして、

「可愛いね、彼女」

と意味深に笑いながら付け足した。

「何だよみんな急に。俺だけ仲間はずれかよ」

「賢治が悪いんでしょ」

菜穂子が睨んだ。

「俺もトイレ行こ」

菜穂子に睨まれて賢治はそそくさと逃げ出した。

「絵里子、真希に何て言われたの?」

「な・い・しょ」

「教えてよ。ねえ、真希、さっき絵里子に何て言ったの?」

「真希、教えちゃ駄目よ」

「じゃぁ、黙ってる」

真希はクスクス笑いながら賢治の空いたグラスにビールを注ぎ始めた。

しばらくして賢治が戻ってくると、真希は

「さあ、飲みなさい」

と言ってグラスを差し出した。

「な、何だ?」

「いいから飲みなさい」

菜穂子の代わりに今度は真希に睨まれて、賢治はそのビールを飲み干した。

真希はその空のグラスを奪い取ると、またビールを注ぎ、再び賢治に差し出した。

「ま、また?」

真希はニコッとして頷いた。

賢治はそれを受け取るとまた一気に飲み干した。

真希はそのグラスを奪い取ると、更にまたビールを注ぎ始めた。

そしてもう一度それを差し出すと、

「絵里子を泣かさないって誓うなら、それ、飲み干して」

「え? え? 逆? 誓うなら許してあげるとかじゃなくて?」

「私のお酒が飲めないの?」

低い声で再び真希が睨むと、賢治はしぶしぶそれを飲み干した。

「ね、絵里子、これからは絵里子が泣けば賢治君は何でもいうこと聞いてくれるよ」

賢治は頭を抱えて座り込んだ。

「真希がさっき絵里子に話してたのはこのこと?」

菜穂子がしょうがないわねといった顔で訊ねた。

「違うよ。今のは真希が仕返ししてくれただけ」

「絵里子、許してあげてね。賢治君吐いちゃうかも」

「この程度で吐くか! 俺をなめるなよ」

賢治は自分で更にビールをつぎ始めた。

真希は今度は賢治の耳元で何か囁いた。

そして、「私もトイレ借りていいかしら」と腰を上げた。

真希はしばらくその場に立っていたが、

「あの、トイレの場所…」

と呟いた。

亮介は慌てた。

真希はあくまで初めて亮介の家に来たという態度で行動している。

それなのに、亮介は真希がすっかり知っているつもりになっていた。

亮介が立つより早く、菜穂子が、「私が案内するわ」と腰を上げた。

二人は、連れだって階下へ降りていった。

「ねえ、真希、さっき賢治君には何て言ったの?」

「別に、たいしたこと言ってない。たぶん絵里子は悲しいときでもすぐ冗談で誤魔化して、滅多に泣くような子じゃないと思うから、涙見せたときだけは思いっきり甘えさせてあげてねって言ったの」

確かにさっきのような絵里子は今まで一度も見たことがない。

冗談ばかり言っていつでも元気で明るく振る舞ってきたし、菜穂子は自由に振る舞える彼女を羨ましくさえ思ったこともあった。

「さっきは、あんな事で泣き出すとは思わなかったわ」

「それはただのきっかけ。あの二人、まだつきあっていないんでしょ?」

「え? ええ。そういう話は聞いてないわ」

「彼女は、賢治君から告白されたがっているんだと思うわ。

いつまでも何も言って貰えないから、今まで押し込んでたものが急に溢れてきたんでしょうね。

お酒もかなり入ってるみたいだし」

「あ、ここよ。ライトのスイッチはここ」

「ありがと。先に使う?」

「ううん、私はいい」

「じゃあ」

「私ね…」

「え?」

真希はトイレの扉を開けたところで立ち止まった。

「私ね、亮介君とつきあってるんだ」

真希は、一瞬探るような目で菜穂子を見つめ返した。

「そうなの? そんなふうには見えなかったけど……」

「先に上がってるね」

菜穂子は会話を断ち切るかのように一人二階へと戻って行った。

真希は、菜穂子がこれを言うためにわざわざトイレの案内役をかって出たんだろうか、彼女の後ろ姿をみつめながらふとそう思った。

菜穂子も、今自分が真希の眼にはどう映っているんだろう、私の心も見透かされているかしら、亮介君の心の中はどんなふうに見えているんだろう、そんなことを思いながら部屋に戻ってきた。

この夜の真希は、徐々に酔っていくかのように振る舞い、みんなによく歩調を合わせていた。

初めてだからそうなのかもしれないが、でもそればかりじゃしんどいよ、亮介はそう感じながら真希を見ていた。

結局みんな朝まで一緒に亮介の部屋で過ごした。

疲れたら適当に仮眠を取ったり、起きているもの同士で話し込んだり、真希にはそれがとても珍しく映った。

少なくとも他人とこんな風に肩が触れるほど間近で過ごした事はなかった。

自分だけの広い部屋、大きなテレビやオーディオ、優しそうな両親と気楽な友達。

自分には無いものがここにはすべて揃っている。

真希はいいようのない寂しさに包まれていく自分が厭でどうしようもなかった。


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