オオカミ少年の嘘

オオカミ少年の物語がある。

狼が来たぞー! といつも皆を驚かせる少年。
ある日、本当に狼がやってきたときに、狼が来たぞー! と言っても誰も聞いてくれなかったというお話。

このお話の教訓は、日ごろから嘘をつくのはやめましょう、という感じになっている。


最近、このお話について思うところがある。

このオオカミ少年は、本当に悪いやつなのか、と。
嘘が大好きで、いたずら好きな子として描けれているけれど、本当にそうなのだろうか、と。

事実は、オオカミ少年が、毎日狼が来たぞ! と狼が来てもいないのに村中に言って回ることである。
オオカミ少年は噓つきだ、というのは、周囲の解釈であって、事実ではない。
オオカミ少年の真意が何だったのかは、本人にしかわからない。

狼が村にとって怖い存在である、というのも事実である。
村で買う羊は、村にとって貴重な財産であり守るべきものである。
羊が狼に食べられてはならない。
狼はいつかはやってくるかもしれない、備えるべき相手なのだ。

結果的に、日々、村人は、突如、狼が襲ってくるという恐怖を疑似体験したことになる。
それでいて、本当に狼が来た時に備える準備ができていたかというと、本当にやってきたときには、誰も逃げなかったのだから、備えられなかったということになる。

狼が襲ってきたときに備えられたのは、オオカミ少年だけだ。
日々、狼の恐怖に真剣に向き合い、実際に狼がやってきたことに気が付くことができたのはオオカミ少年だけだった。

オオカミ少年は、悪い子だったのだろうか。

世の中には、あらゆる情報が流れている。
大抵の情報は、それが事実かどうかは、直接には確かめようがなかったりする。
例えば、宇宙にはたくさんの星があって、無重力で、真っ暗で、宇宙は無限に広がっている、と言われても、僕には確かめようがない。
誰かが見てきたことや、撮影してきたことを見たり聞いたりして、そうなのかもしれないな、と思うことしかできない。
僕が捉えることができるのは、あくまで、目の前の現実の体験を通してでしかなく、その一次情報はきわめて小さな範囲だ。

だから、たくさんの情報は、何が真実なのかは把握のしようがない。
ある人は言う、これは非常に怖いものだと。
ある人は言う、これはとてもいいものだと。
双方の主張を人々は、ほとんど聞こうとはしない。
どちらかが真実で、どちらかが嘘だ、と思ってしまう。
テレビで、こっちは嘘と言っていた。テレビが言うことが正しいんだ、と思う人もいる。
信用している人が、こっちが真実だと言っていた。だから、そっちを信じるんだ、という人もいる。

物事は、何が正しいか正しくないか、何が正義か非正義かで判断をしてはいけないのではないだろうか。
オオカミ少年と同じなのだ。
オオカミ少年にとって、狼に対する恐怖は真実なのだ。
オオカミ少年が、普段、どんな態度であろうと、オオカミ少年にとって狼が怖くて、狼が来た時には襲われてしまう、という危機感を持っているということは真実なのだ。

村人はどうすればよかったのだろうか。

狼が来た時に備えて、柵を作ればよかったのかもしれない。
オオカミ少年の代わりに、誰かが交代で見張りをして、狼が来た時に、村中にベルを鳴らすような、警報システムを構築したらよかったのかもしれない。
オオカミ少年よ、これで安心だろ? 狼が来たってへっちゃらさ、と大人たちは笑ってオオカミ少年に語り掛けるべきではなかったのだろうか。

オオカミ少年は言うかもしれない。
見張りがうっかり居眠りしている間に、狼が来たらどうするんだ! 狼はやってくる! と。
そうしたら、大人たちは、じゃぁ、見張りを3人体制にしよう、誰かは起きているはずだ、と新しい防災手段を提案していけばいい。

オオカミ少年の嘘は、現実的に村を狼から守る防災システムの構築につながる最初の一歩になり得たのだ。
でも、物語では村人は誰も聞き入れなかった。

意見が対立して終わるのであれば、何の発展性もない。
何が真実なのかを見ているだけでは、本当に大切なものから目がそれてしまう。


世界中でたくさんのことが起こっている。

何が正しい情報なのかが見えなくなってきている。

そうであるならば、それぞれが恐れていることに目を向け合って、それぞれの立場から、それぞれの恐怖を回避できる方法を共に模索したらいいのだ。

国も、メディアも、誰もそういう方向性には持って行かない。
一人一人が声を上げるしかないのだ。


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