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Back to the world_021/そこかしこでテントをおっ立てた衝動、逃走、ミステリー

 母が叩く宗教の団扇太鼓の音も、今日は聴き慣れた心地よいリズムとして耳に入って来るーー。純は部屋で腕を組んで、鏡に自分の姿を映して見ていた。中学生の頃より髪も伸び、顔の輪郭も大人びたような気がした。
慶子は純から逃げた形にはなったが、そのはにかんだ笑顔には可能性が感じられた。今日の再会は特別な力が働いたせいだと思えて来た。

 純は『でん、でん、でん、でん、、、』という団扇太鼓の音に合わせて顎でリズムを取りながらいそいそと着替えると、文庫本やティッシュ箱などをセカンドバッグに入れて玄関を出た。
その姿を見たバンは犬小屋がきしむほど張り切って暴れ出す。純は大げさな動きで近づいたり離れたりを二、三度繰り返して焦らしたのち、笑顔満面の雑種犬を散歩に連れ出した。

水中を泳ぐように意気って走るバンに先導され、新緑で盛り上がった山へ向かう。
山道へ入って進んで行くと、やがて雑草が茂る農地跡へ出た。
「お前また目をひん剥いて。そんな嬉しいのか」
ハッハッ、と荒い息で答えるバンの散歩用リードを外して自由にしてやった後、純は不法投棄された家電や家具に登ったり、それらを蹴り飛ばしたりしながら進んだ。
バンは全速力で走りまわり、戻って来て純のまわりをぐるぐる回ったりした。

雑種犬が落ち着きを取り戻すと、純は大きな木の根元に腰を下ろして『ガープの世界』の文庫本を適当に開いて読み始めた。純粋に、楽しみとしてーー。電車の中で人目を意識して格好つけるわけでなく。
 純が初めてこの小説を知ったのは中学生の時だった。新聞広告の中に違和感のある字面が目に止まったーー『ガープ』。
そこには衝撃的な内容が紹介してあったのだ。
ーー看護婦の母が初対面の瀕死の兵士に跨って妊娠し生を受けた主人公。父親の忌の際の言葉から『ガープ』と名付けられたーーなどという、自分の常識や想像力をはるかに超えた内容を見て、純は一瞬理解できずに放心してしまった。ーーしかしすぐに、これはもしかして劇的な出生を持つ自分のための物語なのではないかーー?!そんな直感が働いた。

この小説はアメリカではベストセラーになっているらしく、その後も度々広告を見かける事になったーーそしてそのつど勃起して、生物教師の谷が言うところの『そこかしこでテントをおっ立てて』しまう事になる。
ガープの出生と同様に、そこに至る特殊な性行為もまた多感な中学生の上と下の感覚機能に大きなインパクトを与えたのだ。

純はどうしてもこのジョン・アーヴィングという作家の本を手に入れなければならなかった。当時は本屋に置いていないものはそこで取り寄せる事が一般的だったので、始めて書籍を注文する事になる。
個人書店のおばさんが文学小説の内容にまでいちいち目を光らせるはずはなかったが、中学生の純は内容に引け目があったために値段の安い技術家庭のポケット参考書を一緒にレジに出したのだった。
おかげで技術の期末テストではクラスで唯一100点を取ってしまう事になる。この小説を読み始めた純には、微妙な位置付けの教科でいきなり満点を取った事さえも面白い運命のように感じられた。
この授業で習うまでなじみのなかった『こば』と『こぐち』という言葉ーー、切り出された板の各部名称とその図でさえもいとおしい!ーー当時の純は滑稽に見えるほど気持ちを昂ぶらせて物語にのめり込んだ。実際に気に入った箇所が出て来ると、本を抱えて走り出した事もあった。ーー世界がつながって行くーー嗚呼!

そして膨大なページ数を読み終えた事に自分自身驚いていた。ここまで興味を惹かれなければとても読めなかったとも思った。
巻末の『ホテル・ニューハンプシャー』の紹介文もまた純を虜にした。今度はこの上下巻のみを取り寄せると、熊、そして不思議な運命を淡々と生きる家族の話に心酔した。
純はまだ16年しか生きていない自分の人生ーー悲喜劇が編み合わさった特別な人生(と自分では思っていた)が肯定され、指標となるものを示してくれるはずだと感じたのだった。

今日は主人公のガープが不幸な事故から立ち直るべく海辺の家に身を寄せるくだりを再読していた。元フットボール選手の性転換者ロバータ・マルドゥーンがニューヨークからやって来た粗暴な男にタックルを決める。そして顎の怪我で喋れないガープは、倒れた男の胸に自己紹介を書いた紙を置くーー。

「いいなあ!最高だよ、わかるか?」

地中に埋まったぶ厚いビニールを引っ張り出す事に夢中になっていたバンに語りかけると、純は立ち上がって無茶苦茶に踊り始めた。
「お前はー!わけのわからないビニールがー!本当に好きなんだな!」
バンは純の動きに呼応して、まるで無邪気な弟のように飛び跳ねて走りまわっていたが、突然咳き込んでかがみこんだ。

「だ、大丈夫か?!お前!どうした?!」
バンは二、三度身体を震わせるようにしてわけのわからないビニール片を吐き出した。
「…ダメだぞ、二度とわけのわからないものを口に入れるなよ」
雑種犬は申し訳なさそうな表情で、背中をさすってくれる純を見上げた。

 木の根元に座り直してふとあたりを見回すと、この広い場所に自分と雑種犬しかいない事が改めて感じられた。静かだった。
風の音に混じって、山中を走る縦貫道からかすかに車の音が聞こえる。純はなんだか、抑えきれない衝動が湧き上がって来るのを感じた。身体の中で、自由がそれを押し出そうと跳ね上がって来ている。
勃起が収まらなくなり、いてもたってもいられなくなって来た。愉快だ、とても愉快だと思った。
股間にテントをおっ立てたまま走り回ってみる。生の喜びを感じ、命の火が燃え盛るような気がした。
純は着ていたトレーナーを脱いで振り回しながら走り出した。ーー開放感。そのまま流れるような動きでそれをくぬぎの木に投げつけるように勢いよく巻きつけた。
そして柔道の背負い投げのように何度も引っ張ってみる。ーー力が漲って来る。
純が愛読していた70年代の漫画雑誌にはスポーツ根性ものが多く、こういった自然の中で特訓する主人公の描写は少なくなかった。

勢いづいた純は何を思ったかトレーナーをしっかり幹に結びつけてその背中側を自分に向けると、最近買ったばかりのチノパンツのベルトに手をかけて一気にずり下げた。
そして屹立した股間を太陽に向け拳を握りしめると、そのテントはエネルギーを取り込んでいるように見えた。身体を大きくのけ反らせるとその反動を利用するようにしてパンツも下ろし、なぜか横一回転して素早くくぬぎの木に抱きついた。
幹に掴まるまでの一連の動作はボタンひとつで掃除機の長いコードが収納されるさまに似ていた。
くぬぎを抱きしめると目を閉じて、ゆっくり腰を上下させてみる。
「!」
純は意外な発見に目を見開いた。その表情はバンが初めて焼き芋を口に入れた時のそれと同じだった。
初物に対する不安と確認、それから(しめた!こいつはいい!)という光が目に宿り、欲望に支配されたバンはむせかえりながら一気に芋を胃袋に入れたものだった。

本日の奇異なるイベントは、ティッシュ箱を丸ごとセカンドバッグに入れた瞬間から予定されていたのだ。ただ若者にとっての始まりは衝動的なタイミングで行われる。大木を抱きしめた純は思いの丈をありったけぶつけながら腰を動かした。
顔が上気し気分は上々、表情は万能感に満ち溢れている。
「思ったとおり本物だよこれは。きっと…」
そうつぶやいた時、ガサッ、とどこか上のほうで木の葉が揺れる音がした。
純は誰かに笑われたように感じてびっくりして動きを止め、トレーナーを掴んで縮こまった。キジバトらしき鳥が飛んでいった。

「ふう…」
軽くため息をついて気を取り直し、パンツを脚に引っ掛けたままティッシュを取りに横這を始める。
脛が引っかかってつんのめってしまうが、その勢いでままよとばかりにパンツを脱いで放り上げた。純はそうしながら自分自身、猫が塀からずり落ちた際に毛繕いしてごまかすところを想起して可笑しくなった。
新しいチノパンツは素早く畳んで木の根の上に置き、セカンドバッグからティッシュ箱を引っ掴むと素早くくぬぎのところへ戻った。勢いを殺したくなかった。
さらに激しく腰を上下した純はワイルドに引き抜いたティッシュたちを股間にあてがうと、幹ににもたれかかって果てた。
「…ふう~」

満足した純はくぬぎに巻いたトレーナーと自身との間に挟まれた約10枚ぶんのティッシュを注意深く抜き取ると、今度は雑に丸めて藪に向かって放り投げた。
くつろいでいたはずの雑種犬にスイッチが入った。舌を出して笑いながら一気に丘を下って来る。土煙が上がり、乾いた腐葉土の埃っぽいにおいがした。バンは純の背後で弾けるようなジャンプをして、獲物を狩るべく藪に飛び込んで行った。

「バカ!待て!」

雑種犬は予想通りティッシュをくわえて走り出した。しばらく休んだせいかそのスピードは最高速に近く、やる気に満ちている。
反応したのはタンパク質のせいに違いない、ーー純はそう考えながら急いでパンツを履くと、注意を惹くべく食べ物を持っているふりをしてみるが、遊ぶ気満々の雑種犬には全く響かなかった。
むしろこちらの気持ちを知ってか知らずかこの遊びに集中しきっている。誘うように振り向いて止まっては、また逃げて行く。純はTシャツを着た。
「バン!止まれ!おい、いいか?ふざけてるんじゃないぞ!俺は本気だぞ!」
自分の分身を愛犬に喰われてしまっては寝覚めが悪い。

バンは完全に調子に乗っていて、自分の走力を誇るように走って行く。
「いいから待てって!」
純の叫びを遊びの合図と勘違いした雑種犬は加速した。その耳をぴったりなびかせ、嬉しそうな砲弾へと変化して山道を突進して行く。
あっという間に目の前から遠ざかったそれを、純は苦々しい思いで必死に追った。

山菜採りの帰りと思しき、腰の曲がった皺だらけの老婆とすれ違った。
「元気だねえ」
木のうろのようになった老婆の目からは真意を読み取れなかったが、微笑んでいた。ーーどういう意味だ?もしかして『くぬぎの木とのあれ』を見られていた可能性はないだろうか?そういえば人の気配がしたようなーーズボンを履いていない雑種犬の飼い主は一瞬のうちにさまざまな考えを巡らせた。
「いろいろあって!こういう…」
老婆に振り向いてそれだけ言うと、純は息を切らせながらバンの後を追った。

飼い主と遊びたい雑種犬はスピードを緩めたが、簡単には追いつかせてくれない。
(俺がロバータ・マルドゥーンだったらお前を簡単にタックルしてやるのに!)
純は長い追跡によって久しぶりに肺と横腹が痛くなって来た。
ーーと、そこへ偶然、左前方の崖からイタチが1匹降りて来て鉢合わせた。
のんびりと降りて来たイタチは疾走し迫って来るペアを見てあわてふためき、そのまま先頭を走る形になった。
バンの走りが攻撃的に変化して、突然の乱入者にされてしまったイタチに照準を合わせた事が伝わって来る。
イタチ、雑種犬、その飼い主と続く順列は守られたまま、山道から外れて木々の間を縫って走る事になったーー。

「いい加減にしてくれよ!なんで俺はこんな事してんだよ?!」
純は走りながら情けなくなって来ていた。
しかしそこで雑種犬が吠えたために、あっけなく、『ぽそん』とティッシュが落ちた。ーーようやっと、自由になった分身を回収する事ができたのだった。

イタチはコナラの木に登ると細かく何度も首を傾げながら、眼下で吠えるバンを見下ろしている。
純は落ちていた枝で穴を掘ると、ティッシュを埋めてその上を何度も踏み固めた。

「ありがとな」
イタチの姿はもう見えなかったが、純は樹上に向かって礼を言った。
そしてまだ興奮冷めやらぬバンの頬を掴んでぐいっと自分に向けた。
「このやろう、何でも口に入れるなよ」
長い逃走劇が終わった。
リードをつけられたバンは名残惜しそうにコナラの木を見上げていた。
「もうどっか伝って行ってるよ、まぬけ」
歩きながら純は、(このパンツはトランクスだから老婆にはジョギングパンツに見えたはずだ、変には見えないーー)そう自分に言い聞かせていた。

今までここで他人とすれ違った事はほとんどなかったが、気をつけて農地跡まで戻った。もちろん老婆もすでに姿を消していた。
木の根元を見てみると、驚いた事に買ったばかりのチノパンツもセカンドバッグも消えていた。
「ええ〜っ!ちょっと、マジかよ〜?!」

                ○

 夕食は天丼だったので、てんこ盛りの1日にふさわしいメニューだと思った。家庭で揚げた天ぷらは少ししんなりしていたがそれが好きだった。

 結局純は陽が落ちるまでキリキリしながら農地跡でチノパンツを探したが、見つかったのはくぬぎに巻いたトレーナーと、その下のティッシュ箱だけだった。
暗くなるまで待ってから、内心ではジョギングを装い全速力で帰宅した。トランクスだけの格好では気が気でなかったが、夕飯時のせいか誰にも会わずにすんだ。

純は買ったばかりのチノパンツを失って、絶望的な気分でバンをつなぎに小屋へ入った。
すると驚いた事に、小屋の中に設置された犬小屋の上には山で失くした荷物が全てきちんと置いてあったのだ。
心臓が止まりそうになったーー。
チノパンツは純が畳んだ時よりもきれいに畳まれ、下に青焼きのコピー紙が敷いてある。
「ええ?こんな…ええ?」

純たちが長い逃走劇を繰り広げているうちに誰かが届けておいてくれたのだろうが、狐につままれたような気分だった。ーー(一体誰が?!)すぐに『くぬぎの木とのあれ』を見られていたのではないかという不安も広がった。
面識はないと思っていたが山菜採りの老婆が自分の事を知っていたのかもしれない。チノパンツが汚れないように置かれた青焼きのコピー紙はビニルハウスか何か農具関係の設計図のようだったので、もんぺを履いていた老婆である可能性は高い。
間違いない!純にとってはそれが一番の希望だった。
失礼な話ではあるが、相手が老婆ならズボンを届けられてもそれほど恥ずかしくは感じない。ーーもしそれ以外の者だったとしたら?いや、やはりいずれにしても顔から火が出るほど恥ずかしい!

かなりの衝撃を受けたものの、届け主が誰であろうと悪い人間ではないと見積もっていた。犬小屋の三角屋根の上にバランスを取って置かれたセカンドバッグとチノパンツはかなり不自然だったが、盗まれないようにきちんと届けたいという意思と、やや強迫的な丁寧さを感じ取れたからだった。
純はこのやり方に自分との共通点を感じた。
おそらく犯人はすぐ発見できる置き方を熟考し、その上でこういう置き方をしたのだと推測した。感覚的にまったく悪意は感じなかったが純は自分を知っている誰かに尻尾を握られているようで落ち着かなかった。犯人は他人の人生に寛容な老婆であってほしい、そう願うよりほかなかった。

純はチノパンツを履くとバンの鼻をひとなでして母屋へ向かい、一度深呼吸してから勢いよく玄関の扉を開けた。
「ただいま、参ったよもう、バンを放したら逃げちゃって!」
「遅いねえもう真っ暗よ、ごはんできてるから」
「そうか、バンは楽しかったろうな。あいつ道路で轢かれたカエルを食べなかったか?ははっ、こないだはほんとに困ったよ、何をひっぺがしてるのかと思ったら…まあタンパク質には違いないからな」
「やめて、ご飯の時に」
「失礼、ははは」
叔父はビールを飲んでいた。チノパンツを届けた来訪者は誰にも気づかれていないーー純は2人の表情を窺いながらそう思った。

 母親たちにこの話は伏せ、すっかり見た目の変わってしまった昔馴染みの上級生『ラブリー』の事を話した。
「え?山﨑って言った?小学校の辺の団地の人?」
「うん。かわいい笑顔の子供だったんだけどね」
「ぷっ、子供が何言ってんのよ」
「真実述べてるだけだろ」
「真実!ほっ」
叔父が笑って、いとおしそうに目を細めたが純は無視した。

「あんたたち同じ高校だったの?」
「え?知ってんの?」
「山﨑さんって…小学校の体育館でインディアカやってたでしょ私」
「ああ」
「あれか?羽根のついたやつ。あれはいい具合に主流のスポーツを一般の層に落とし込んであるな。気軽に楽しめるように」
「そうなの?また適当な事言ってない?」
「適当?何が適当だ?基本バレーやらバドミントンやらから派生して…」
「も、それいいからさ、山﨑くんの母さんと知り合いなんだ?」
「そう。インディアカで一緒でね。おととし矢追さんがアキレス腱切ったあたりから会は消滅したんだけど。久しぶりに電話でもしてみようかしらん」
「やめてー」
「やめて、って何よあんた、何が困る?」
「いやー、だって、うん…」
「あそこかわいいシーズー飼ってたのよね、頭にリボンちゃんつけた」
「リボンちゃん、ははっ!室内犬だな、その名前。なるほどなるほど」
「…別にそれが名前じゃないから。名前知らない、何だっけ」
叔父はすでに結構飲んでいて上機嫌だった。

「あの子優しいねー、その犬が死んだ時に泣いてたのよ。私がつい『かわいかったよねえ』なんて言っちゃったから…」
「へえーっ、やっぱりラブリーだ、いつ頃の話なの?」
「『やっぱりラブリー』か、ほほっ、そりゃあいいな。そりゃあいい」

「さあー?えー、おととし?」
「おととし?おととし!…おととしつったら高1って事?!えへーっ?!」
「何笑ってるのあんた嫌な子ね。いいじゃないよいくつでも」
「あ、いやそうじゃなくて…そうじゃないんだ」
純も、バンになにかあったら泣くだろうと思った。
「ラブリーが中身、ラブリーのままだったからだよ」
叔父がグラスを掲げた。
「『少年、ラブリーに生きる』、か。いいっ。ははは、乾杯!」
普段は気の利いたユーモアも持ち合わせていて落ち着いた雰囲気の叔父だったが、酒が進むと話がくどくなり、教師のような理屈っぽさと善人のつまらない部分が混ざったような話ぶりになる。なんだか現国の桑ジイを連想して、面映く感じた。
「ごちそうさまでした。行くね。美味かった。おじさん、また」
純はそそくさと2階の部屋へ上がって行った。
「風呂はー?」
「俺、一番後にしてー!」

 純はFMラジオをつけると髪にデップをつけ、ドライヤーでトップを念入りに立たせ、前髪につないで流れをつけてみた。
鏡の前で真剣な顔、笑顔、陰りを帯びた顔、を順繰りに作ったのちにTシャツを脱ぎ、肩の筋肉を叩きながらチェックした。
そして帰りに『スパー』で買ったファッション雑誌を手に取ると、ぱらぱらと捲り始めた。
しばらくは『セカンドバッグを持ったダサい若者』のイラストをのぞき込むように見ていたが、次に純が興味を惹かれて手を止めた恋愛特集のページーーそこにはこう書かれてあった。

『注意!!好きな男と嫌いな男に対する態度は同じだ!!』

ーー鈍器で殴られたようなショックを受けて、目の前が真っ暗になった。
『はにかんだり恥ずかしがるような仕草、あのヒトの前から思わず逃げてしまうーーそう、それはまさに恋する乙女の行動なのです♡!んがしかし読者の諸君!安心するのはまだ早い!彼女たちはなんと、大嫌いな男に対しても同じような態度を取っているはずなのです!!もう一度確認してみよう!我々が入手した今ドキの女のコたちのリアルなデータによると…』

80年代雑誌の恋愛ルポの文体は明るく軽いイメージだったが、純はもうその先を読めなかった。
客観的に見れば思い当たる節は確かにあるーー恥じらう『意中の彼女』の左右に並んだ美男子と不細工な男を誇張したイラストが目に入った。哀れな純は、駅のホームでの慶子との出来事を反芻して心に暗雲が立ち込めて行くのを感じていたーー。
「風呂沸いたんだけどさー、あんたやっぱり先入っちゃってー!」
母の声がした。

 風呂場で純は天井の水滴を見上げながら今日1日の事を反芻していた。
赤レンジャー気取り、慶子との再会、ラブリーの正体、くぬぎとの抱擁、動物たちとの逃走劇、消えたチノパンツーー。純は抜け殻のような表情で湯船に潜って行った。

 疲れ切ってはいたが16歳の好奇心は健在で、寝る前に『LARK』というタバコのロゴが入ったゴミ箱にトレーナーを巻き付けていろいろと探究を試みた。冷たく滑りやすいスチール缶とは相性が悪く、くぬぎの木ほどはしっくり来なかった。
「俺はやっぱり自然の人なんだなあ…」

純はつぶやくとベッドに入り頭の後ろに手を組んであくびをした。
今日の出来事についていろいろ不安はあったが、ジョン・アーヴィングの物語とつながっているような気がしたし、『案ずるな』ーー誰かが耳元でそう言っているように感じた。
そして月明かりに浮かび上がる吊るされたチノパンツを眺めながらゆっくり眠りに落ちて行った。
「まあ、面白かったよ…」▪️

とにかくやらないので、何でもいいから雑多に積んで行こうじゃないかと決めました。天赦日に。