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願いをかなえた折鶴

きっかけはコーディネータの「オ・リ・ズ・ル」


ある夏の日、一番の仲良しが3歳の娘とともに姿を消した。夫は茫然とたたずんでいた。ちゃぶ台にはさっきまで夕飯を食べていたように、ご飯が半分茶碗に残っていた。持ち物を物色した様子があらわで、衣服やアクセサリーが散乱していた。嫁入りの民芸風箪笥の引き出しが開いたまま、着物や洋服が貝のベロ(舌)のように引き出しから垂れ下がっていた。この光景はこの出来事を思い返すと、時間の経過とともぼんやりとくすんでいった。

わたしは海外の街や村で、文化交流や撮影の現地コーディネイターとして活動していた。活動の合間に町の顔役を通じてあちこちを探したが、見つけることはできなかった。そんな時、日本からスペインへ、慶長遣欧使節団派遣400周年にあたる2013年~2014年にかけて、「日本スペイン交流400周年事業」が開催されることになった。そして、この事業のスペイン側コーディネイタからナバーラ地方、ロンカル渓谷に住む日本人画家がいるという情報が寄せられた。しかも折り紙で瞬時に鶴を作るので、あたりの村では爆発的な人気だという。

この情報を確かめたい。キーワードはナバーラ地方、ロンカル渓谷、単なる噂か判断できない。そして折り紙。「そうだ」、彼女は折り紙の趣味があり、バックによく忍ばせていた。「こんな四角い紙から鶴や、動物が出てくるなんて素敵でしょ?」そんな口調で語る彼女を思い出した。すぐにコーディネーターに確認し、自治体とネット情報を探したが、わからなかった。そしてある日、彼女が好きだった「折紙」と「折鶴」をキーワードに探してみたら、小さな記事がヒットした。「日本人画家、折鶴画廊」と小さい写真とともにブログで紹介があり、メールアドレスが添えられていた。すぐに自分のアドレスを添えてemailを送った。そしてネット通話を試した。

「折鶴」に願いをかけるように、コールを待った

コールが続く。つながった。「わたしは京都で仲良くしていたメイちゃんです」というと、しばらく間があった。「あら、コンサートとかの仕事していた知り合いはいたけど…」あまりに昔のことですぐに記憶がつながらないらしい。いろいろと話してみると、「あ、メイちゃんって」、彼女の叫び声。「京都にいた頃、メイちゃんという親友がいたの」、それを聞いて折鶴を思った。「わたし、小さな画廊を持っているの。折鶴というのよ」音声マイクを握りしめた。願いをかなえる折鶴は本当だった。

それから毎日、わたしたちは失った時間を埋めるようにあらゆることを語り合った。彼女の絵が大好きだった。画廊では毎週、地域作家の展覧会を開催していた。画家としてはコンテストに出品、また遠くの村で絵を教え、相変わらずの人気だった。自治体の地域紹介テレビに出演したり、世界的に有名なイベントやお祭りにブース展示したり、文化人的活動も多忙だった。

それからしばらして、世界的に権威ある画家協会が彼女を会員に推薦してくれた。それから瞬く間に売れっ子画家として各国の展覧会、日本でも巡回展が各地で展開されるようになった。それにしても、この一連の急展開は「折鶴」にはじまった。折鶴との縁を今も感じている。





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