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23年ぶり、叔母のほほえみ

92歳の母親介護、シアワセな親子関係

「今日、お母さんが会いたいらしい」、わたしが世界で二番目に大好きな従弟は、むしろ幼友達に近い関係だ。母の実家は三大続いた酒屋で従弟はその三代目だった。人付き合いがよく、小さい時からいつも人気者だった。3代目に似つかわしいと思われていた。
 
母親と二人三脚で商売をするのは容易くないが、母子はそれが自然だった。けれど同じ町内にできた業務スーパーのあおりをうけて、代々続く得意先との良質な関係も、共同仕入れでコストを思い切り下げる商戦に太刀打ちできず、厳しい経済状態が続いたと聞いた。それは実家だけに限らず、多くの業態で同様の不透明な事態が連日報道された。同じく、わたしたちの会社も黒字のまま、困った状況が続き、ついに会社を休眠させることになった。
 
それまで業界のパーティや流行の異業種交流会、ゴルフコンペなどは暇がなくて断ってばかりだったが、つきあいの名のもと不参加でも参加料を支援してきた。そういう流れは業界の世話役的な取り巻きが段取りしていた。しかしひとたび会社が休眠となると、蜘蛛の子を散らしたようにまわりは空っぽになった。しぶしぶアルバイトで時間を埋めながら、再建への道を探っていた。
 
その酒屋は祖父が一代で発展させ、四条河原町の高島屋の対面の店や、何店かの支店ができ、借家をあちこちに建てるほど繁盛していた。祖父は商売は手間ひまかけることだと母に教えた。その祖父も齢にかてず、手塩にかけて育てた酒屋の跡継ぎである息子と方針が異なり、代替わりとともに酒量が日々増え続け、最後には酒で自殺したと疑われるような無謀な飲み方をして逝ったのだった。石川県で一番の神童と呼ばれた祖父にふさわしくない最後だった。祖父を崇拝していた母には、つらい別れだった。
 
叔母は15年前に夫を亡くし、今は次男と一緒に店を切り盛りしていた。しかし叔母はいつも夫をたてて、こっそりとすべきことを一手に引き受けてきた。舅と姑を送り出し、夫と息子二人にも決して自分を主張せず、いつも気配りの人だった。母は「下(南)の家」と実家で呼ぶ、京都の南に10件ある借家の管理人で、無料の家を提供されていた。それはわたしの父にはありがたくもあり、みじめでもある選択だった。かといってそれをはねのける父ではなく、「もらえるものはいただく」の精神で生涯家賃を払うことなく居候のような人生を歩んでいた。そのおかげでいくばくかのお金を残すことができたが、一人前の扱いをされない母の実家を嫌悪していた。
 
さて会社を休眠させたとき、わたしは新しい人脈とクライアントへの売り込みに京都や神戸に足を延ばしたが、奇跡は簡単に起こるわけがない。京都に行った帰り、疲れた足を引きずり、叔母と従弟がいる母の実家を訪ねた。従弟は留守だったが、叔母は歓迎してくれた。帰ってこない従弟を待っていたが、帰る時間がせまっていた。叔母はわたしに5キロの米袋を含み、ほかにもいろいろな食品をわたしに持たせた。言葉の中に飲み込んだわたしの生活レベルの困窮を理解して、何も言わずにお土産を用意してくれた。
 
わたしが20歳になる時は、母の兄にあたる叔父、叔母の夫はわたしに着物を作ってくれた。隣の家のお得意さんが呉服屋だった。いつもお酒を買ってくれるお客さんだ。隣同士はお互いが客であり、得意先として存在していた。着物と酒ではコストがあわないが、そういう大胆なことをする叔父だった。
 
わたしに会いたいと言ってくれた叔母とは、わたしが東京に移って以来会っう機会がなく、23年ぶりの再会だった。叔母は娘がいなかった代わりにわたしを大事にしてくれた。「会いたい」と言った叔母の意図はわからないが、叔母は脳梗塞を患い、重度の認知症になり、息子である従弟が24時間体制で介護している。「認知症でも、92歳まで母親と一緒にいられるのはシアワセや」、これはわたしの本心だ。
 
母は68歳の誕生日の一週間後に逝った。わたしは母から学びたいことが山ほどあった。母と一緒にいた時間は少なかった。わたしは留学してその後も海外にとどまった。母は病弱で入退院を繰り返し、幼い頃から母は時々いなくなった。小さくても、母がいつか亡くなることを覚悟していた。そしてついに母がいなくなったとき、ぽっかりと穴があいた《ロス》を体験した。

にっこり「ごはん食べていく」にキーン

「きぃちゃん」弱々しい声で叔母がわたしの名を呼んだ。「あ、覚えてるの?」とわたしがいうと叔母はうなずく。従弟はいやいやと首を横に振る。叔母は髪をグレイに染めて、素敵なヘアスタイルできれいだったが、手足に触れると収容所の患者のように痩せて骨ばっていた。叔母は車いすに座っていたが、あまりに痩せているので車いすはグスグスだった。従弟はわたしと会ったことも、2時間後には忘れていると言うが、それを叔母に確かめると子供のようにわたしの名前を呼び、「忘れない」というのだった。

叔母はわたしの話しがわかっているのか、微笑むだけだった。ヘルパーさんがやってきたのでわたしは早々に帰ることになった。「おばさん、また来るね」とあいさつすると、叔母はにっこりと一番いい顔をして手を握り、「きぃちゃん、もう帰るの?ご飯食べていく?」と言う口調は、かつての叔母のように力強かった。

母が亡くなって以来、年配の女性からやさしい言葉をかけられることはめったになく、心にガツンときたが、従弟は今言っていることは1時間後に忘れてると自信満々に言う。けれどその一瞬、叔母は確かにかつての叔母だった。それがわたしには、母親の代わりに叔母が言ってくれたようでうれしい日になった。
 

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