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【歴史夜話#12】たったひとりで帝政ロシアを斃(たお)した男「明石元二郎」

 もちろん明石がひとりで、ロシア帝国との戦いを制したわけではありません。
 明石元二郎は、日露戦争(1904~1905年)当時のロシア帝国公使館付陸軍武官で、開戦後は中立国スウェーデンのストックホルムを本拠として、情報収集や工作活動を行った軍人です。

 平ったく言うと、スパイ。エスピオナージですね。
 戦争において、スパイ活動の貢献に対する評価は分かれるようです。しかし明石が従事したのは、破壊工作ではありませんでした。
 当時芽吹いていた、ロシア帝国に対する反政府勢力をまとめあげ、資金を供給して内部から瓦解させる活動です。
 さっそうとしたスパイであるジェームズ・ボンドやイーサン・ハントではなく、スパイ界のコロンボとも言うべき、愛すべき日本のスパイ明石元二郎の逸話です。
(見出し画像はOpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像)

イラストACより

一個師団に匹敵する

 ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世は、『明石一人で日本軍20万人に匹敵する成果を挙げた』と述べた。
 また当時の参謀次長・長岡外史をして「明石の活躍は戦場における一個師団に匹敵する」と言わしめた。

 日露戦争は1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて、大日本帝国と南下政策を行うロシア帝国が衝突した戦争(Wikipediaより)だ。
 朝鮮半島や満州の権益を巡る争いが、原因であった。

 満州南部の遼東半島や、奉天(現瀋陽市)が主戦場だった。
 また海戦では、ロシアが誇るバルチック艦隊を、日本海軍が丁字戦法やら東郷ターンやら波動砲やらを繰り出して破った、歴史的な戦いが繰り広げられた。

 開戦直前の1月、明石は参謀本部次長だった児玉源太郎から「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに情報提供者を配置」せよ、と指令を下される。
 オデッサと言えば、ガンダムが黒い三連星と戦った地である。
 アムロがニュータイプとして目覚め始めたこの場所で、明石も諜報工作員としての才能を開花させていった。

いらすとや より

語学の天才

 パーティの席上、ドイツの士官が明石にフランス語で「ドイツ語わかる?」と訊いてきた。明石が「わかりまへん」と答えると、彼はドイツ語でロシア士官と情報交換を始めた。
 しかし明石はフランス語、ロシア語、英語に加え、もっとも難しい言語である日本語や関西弁まで完璧にこなしたので、彼らの話は筒抜けだった。

 このエピソードが本当なら、明石が利口と言うより、このドイツ士官がアホである。
 明石の語学習得は実戦的で、座学だけでなく飲み屋で労働者たちと会話して身に付けたらしい。

 そのため会話に品がない、と批判されたこともあった。
 しかし文学を志すわけではない。彼はこの語学習得術で、一般庶民から忌憚のない情報も得ることができた。
 庶民が政府を語る意見には、高官から得られる情報以上のニュアンスが含まれることもある。
 大衆は意外に敏感なのだ、国が傾きかけている予兆などに。

 陸軍幼年学校時代の明石は、お稲荷様のお供えを盗んだり夜中にボートを漕ぎ出して転覆させたり、とイタズラ三昧だった。
 昭和、平成、令和と閉塞感が高まるこの国に、おおらかさがあった時代の話である。

イラストACより

猫好きの運動オンチ

 明石は陸大時代に下宿で猫を一匹飼っており、軍服に毛が付いたまま講義に出席していた。
 しかし日露戦争後高官となった後は犬派に転じ、薄汚い布団で犬を抱きながら寝ていた、というエピソードが伝わっている。

 服装について無頓着であり、陸軍士官学校時代にはへそを出しながら、ズボンの裾を引きずって歩いていた。整理整頓にも無頓着で、台湾総督時は官邸を一切掃除させなかった。
 風采の上がらないヨレヨレのコートを引っかけて、「ウチのカミさんがね・・・」と話しかけながら、鋭い推理を展開した。

 何かに熱中するとほかのことを忘れる。
 山県有朋と対談したときも、話に夢中になって小便を垂れ流した、と言われる。
 秀吉の参謀だった竹中半兵衛も、自分の講話中にトイレに立った弟に対して、失禁するくらい集中しろ、と諭したという。
 軍師とか参謀が、なぜこれほど失禁が好きなのか、謎だ。

 協調性に欠けていて風采が上がらず、また運動音痴であったとされている。

 これらのエピソードを読むにつけ、明石よりも周囲、時代の寛容さに驚く。
 もし現在このような人物がいたら、周囲はつまはじきにするか、矯正しようとするか、一律の価値観に従わせようと躍起になるだろう。

イラストACより

偽名はアバズレーエフ

 ユーモアに欠ける日本人のなかにあって、明石はときに大胆なイタズラをやってのけた。
 彼がロシアで使っていた偽名「アバスレーエフ」は、もちろん行儀の悪い女性を指す「あばずれ」からきている。漢字では「阿婆擦れ」と書くらしい。

 ワンマン・アーミーだった明石は、また巨額の工作資金を消費した。
 当時の国家予算約2億3,000万円の内、100万円(今の価値では400億円以上)が工作資金だったのだ。
 しかし彼は、私生活では清廉だった。
 工作資金の100万円のうち27万円が残ったので、明細書を付けて参謀次長の長岡外史に全額返済している。
 100ルーブル不足していたが、列車のトイレで落としたことまで記載していた。

 いっぽう戦争遂行の責任者であった児玉は、政府首脳の意見を早期戦争終結の方向にまとめる活動を早々に行っている。
 児玉の調整と周旋で、新興国のアメリカを仲介役として早期講和をはかることで意見がまとまった。

 当時の新興国アメリカにとっても、講和の仲介を果たすことによって、世界における自らの存在を誇示できる、というメリットがあった。
 このときの大統領セオドア・ルーズヴェルトは、東洋の蛮国と考えられていた日本を、国際社会に迎え入れるのに好意的だった。と同時に、この若い国が将来暴走するリスクまで見越していた。おそるべし。

 次期総理を嘱望されていた明石だが、台湾総督在任中の大正8年(1919年)10月、病を患て郷里の福岡で病没した。満55歳だった。
 その遺体は、遺言によって台湾に埋葬された。

 明石が播いた種は、1917年の帝政ロシアの終焉、ソビエトの誕生と崩壊。そして振り出しに戻る、という花を咲かせるのだった。

 型破りなエピソードが多い明石ですが、その功績を賞揚した陸軍将校に対して「俺の功績が日露戦争の正史のどこに書いてあるか」と返した、と言われます。
 やはり軍人であるからには、スパイという日陰の存在ではなく、陽の光の下で働きたかった、という願望があったのでしょう。

 戦争という行為は、言うまでもなく許されないし、繰り返してはならないことです。
 しかし、プロジェクトとしてこれを見たとき、明石の諜報工作や下瀬火薬 など、日本は知恵を絞った印象です。日本人はこのときを頂点に、精神論という安直な思想に傾倒し、今に至ります。
  
 また児玉のような周到な人物がいない限り、戦争を終わらせるのは始めるよりはるかに難しい、ということもよく理解できます。
 昭和以降の流れは、人は歴史に学ばないことを裏付けているようにも感じられるのです。

#明石元二郎 #スパイ #落花流水 #帝政ロシア #日露戦争


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