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『愛の美学』 Season2 エピソード 9 「愛の展開」(2558文字)

「愛の方向」には目指すべき道があった。

その「道」は、ひらかれていく。「フィロス」もまた、「ソフィア」によって開かれる。「愛の展開」とは、まさに、自分がその「フィールド」に立ち、そこから、様々な方向に展開するプロセスを指す段階なのである。「愛」を実践するため、自身の「身」を活かすため、そこから発展するため、そのためにどのような「場」が用意されているのか。

それでは、早速みていくことにしよう。

1)いましめの言葉


世に「戒め」がある。モーセの「十戒」は有名だ。ここで十戒について述べることはしない。なぜなら、いずれの道も開かれていくのは「愛」の力であることに間違いないからだ。

本来の戒めとは、以前、徳目として掲げた「美徳」を、自らの戒め「自戒じかい」に従い「道」を開いていくこと。それを、一人ひとりが自覚することから始まる。物事には、理由がある。一方で、それを納得できるか。そこにこそ本来の「ソフィア」の真髄が満ちている。

前回も触れたように、「愛」は「理性」でもなく「感情」でもない。

一神教の時代は、長きに渡り私たちの意志を問いただしてきた。自らのこころの声に耳を傾け、その声を諭すように、あるときは快く、そしてあるときは懐疑に満ちて聞こえたに違いない。しかし、その声の主は、はたして「自分」であったのか、あるいは「己(自身)」であったのか。

2)自分自身とは


「自分」とは、然から仮にかれている存在を指す。「分身」というように、自分が自然から仮に分かれたものであるなら、「身」も自然の一部だが、「分身」は「己」により「身」が分けられ、「自身」とは、「己」に包まれた存在を指す。構造的には、中央に「自身」その外側に「自分」そしてそれを分かつ「己」があり、最外殻に「自然」が存在する。その働きを指す存在が「我」である。

そして、「主観」が「身」であり、「分身 ※1」を仮に「客観」としておこう。そうすると、「自然」は「分身」であるということだ。

緩衝帯とは、今、自分が空間を占有している物理的心理的な空間である。単純には自身の行動範囲といっても良い。自分と自身の境界にある「己」は、特に精神的な境界を示し内部環境を指す。また、自分と自然の境界の「己」は、肉体的な手足(拡張子)によって動かせる領域で、自分の守備範囲、知識や実生活の実践のために必要なフィールドを示す、「自然」と「自分」、「自身」を単純化したシェーマだ。

※1 「自分」「分身」は「自分/分身」というように「自/分/身」の順序になっている。自身を分かつ、分け目に「己」があると認識すると、自分も分身も、客観としての視点となる。つまり「自/己/身」のような認識だ。「我」は、「己」が活動している様を示し、欲求により活動が生じる。己の働きにより「われ」に帰る。

視座はいつも「自身」の中央に存在する「自我」の領域を見つめている。実は、「自分」と「自身」の主客の関係性は、「自分」は主観から客観の橋渡し、「自身」は主観を司る。

挿絵さしえに、モーセが「道」を切り拓く様子が描かれているが、この挿絵を挿入した意図は、これをみているのは「誰」か??という単純な問いによる。それは、民衆その他大勢の「誰か」なのか、あるいは、「(自分)自身」なのか。

この視点を見出すことは大切だ。

その他大勢としてみる場合を、客観的な「自分」とし、「自身」としてみる場合を「主観」的な「自分」としよう。

過去に紹介した「基本四象限」に、一人ひとりの「道」が存在する。四つの象限マトリックスの中央に一つの存在が生じ、それが「己」の核となり、その働きによって、中央に「道」が拓かれていくことを示した。

私たちが、物理的空間を占有したその瞬間から、その事象は活動を始める。中央に自分の空間が現れ、これが一つの構造を生み出していく。四つの象限を全て持ち合わせているのが「自分」の存在である。

私たちは「身体」を持ち、「社会」に従属し、集団に関わりながら「心理」を持ち合わせ、内面には個々の「精神」活動がある。

そして、さらにマトリックスは四象限の縦横の軸が「帯化」して、九つの枠組みになっていく。ここでは、中心より近いところの私(私人性)から公(公人性)へ向かう構造を示している。「帯化」した部分が緩衝帯となる。このように、展開していく中心に「愛」の力が働いている。

中央の部分に「己」の核が存在する。ここは、言動、行動に伴う意識の交流の「リアクター」が存在する。今回は平面的な解釈ではあるが、この「まんじ」模様は一つの象形を表している。

それは、一つの流れであり、巡りの顕れだ。次回「愛の回転」で触れる。

3)それを見つめる存在は


さて、モーセを自分ごとと捉えるにはどうしたらよいのか。つまり、モーセ自身の視点に見えるものは何かを問うことだ。モーセの十戒を石板通りになぞるのとは違い、自らの自戒を胸に刻むことでもある。

そして、これは単なる場所でもない。立場を通して、あるいは役割を通してモーセ自身の「身」に及ぶさまざまなことを、まさに「身につまされる想い」で想起するのである。

視座はいつでも前向きであり、本来、私たちは、今まで一度も前向きを失ったことはない。視線の先に必ず視点があり、その視点は常に前にある。視座もまた、その位置を変えたことはただの一度もない。

自身から自分、そして自己に至るまで、その中心は一貫した視座の奥行の只中にある。それを見つめる存在は、もう一人の自分、自分を見つめる自分、すなわち「我-汝」の関係にある他者である。

この延長線上に、あるいは、この線上に「愛の美学」のテーマ、「愛の矢」が進む意図がある。

モーセは決して、役者としてではなく、自らが演じる主役として我が身に映ることが望ましいのだ。これは他人事ひとごとではない。

改まる展開として、希望と勇気、そして少しの悲しみや陰性感情を伴うことがあるなら、そのことが愛のあかしとなり得る。

「愛」とは「存在」のあかしを見出す「命の根源」であり、命とは循環の中にある力、一つの回転であると言える。次回、愛の流れ「愛の回転」について記す。


つづく







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