何もしないことに頑張る日々

 「何もしない」、それが本当は難しい。支援者という職業を選ぶ人は、基本はおせっかい。世話を焼き、相手の状態が良くなることに喜びを感じる傾向があります。それが一方的になり、大きなお世話になることもありますが、支援者は何かをすることに価値を求める。でも、私はひきこもり支援を本格的に行うようになり、何もしないことに価値を求めるようになりました。どういうことだろう?以下、一人の男性との関わりから見ていきたいと思います。

 男性は30代。高校を卒業後、人との関係に苦手さを感じ、自宅に籠るようになり、家族以外とは話をしない生活を送ってました。家族は両親と兄弟。両親は働いており、経済的には困っておらず。そのため、焦らず、本人のペースでの思いから、これまで本人のことで相談に行くことはありませんでした。それが、同居の兄弟の結婚が決まり、家族の形に変化が見られるようになると、このままで良いのかと思いが強くなり、私のところに両親が相談に来ました。

 両親からは、本人が私のところに来るのは難しいが、私が自宅に行けば、本人には会えるとの話があったため、私は訪問しました。本人には話をしてあるとのことで両親に促され、本人の部屋に入ると、本人はつけられたテレビを見ていました。私が部屋に入っても、私の方を見る気配はありません。耳には大きなヘッドホンが付けられていました。どういうことだろう?私は状況がつかめずにいました。

 私はこれまで他の人への訪問でもしているように、自己紹介とこれから定期的に訪問させてもらいたい旨を伝えました。本人からの反応はなし。受け入れられているのか、拒否をされているのか、分からない中で、そのような訪問が何回か続きました。

 訪問をしていると、両親より本人が日中、自転車で外に出ているとの話を聞きました。外に出る意識があることを知り、動くかもしれない。そう思いました。その当時、果樹栽培をしている農園より通える人がいたら紹介してほしいとの話を私は受けていました。彼に紹介してみようと思いました。訪問時に本人に話をしました。勿論、その時の返事はありません。その後、母にも同様の話をし、母から本人に話をしてもらいました。本人にどうするかを確認した母からの返事は、「まずは見学を」とのものでした。私は農園に連絡を入れ、見学日を調整しました。
 
 見学日。待ち合わせ、一緒に農園に行くと、挨拶も早々に、農園主より軍手と長靴を渡され、体験開始。他に作業している人たちと一緒に1時間ほど作業しました。「できるかもしれない」、作業している姿を見ていて、そう思いました。母に体験した感想を本人に聞いてもらうと、「週1回、半日だけだったら」との返事があり、翌週より週1回、農園に通うようになりました。

 大丈夫だろうか?気にはなるものの、あまり私が色々言うのもどうかと思う。でも、気になる。私は他にも通っている人がいるため、その人のことも含め、農園主に連絡を入れてみました。

私:「もしもし。いつもお世話になっています。通わせて頂いている方々、いかがですか?」
農園主:「頑張っていますよ。よく動きますしね。言葉数は少ないですが、話もしますよ」
私:「え!話をしますか?話を・・本当ですか?」
農園主:「話しますよ。本当はもう少し農園に来てもらえるとうちは助かるけど、急がせてもダメだしね」
私:「ありがとうございます。今後も宜しくお願いします」

 私には話をしないけど、自分が役割を果たさなければいけない場所では話すことができる。複雑な気持ちになりましたが、でも素晴らしいなと思いました。その後も、農園主や他に通う人たちとの関わりを通じて、原付の免許を取得し、購入した原付で農園に通うようになりました。

 支援者と呼ばれる人は自分たちが何かをすることを気にする。なぜか?何かをしないと、支援者である自分たちの存在証明ができないから。何かすることで、支援者としての役割を果たせたと満足感を得る。安心するように思います。そう考えれば、今回、私は本人に対して何ができたのか?何もできなかったように感じます。満足感ということで言えば、終始満たされることはありませんでした。でも、考えたら、支援を通じて、支援者が満たされる必要はない、満たされてはいけないようにも感じました。

 私が支援者の役割を果たそうと前に出ていたら、おかしくなっていたように感じます。「じゃまをしない」、私ができることは最小限。元々、支援者は必要ない存在。であれば、表にでない方が良い。「何もしない」が本当は一番の支援になるのかもしれない。私はそう思いました。

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