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「桐板 トンビャン」は本当に幻なのか?

「かつて琉球には桐板(トンビャン)という白く輝く美しい布があった」。

沖縄の芭蕉布工房で働いていた時に初めて聞いた「トンビャン」という不思議な響きの言葉。日本民藝館でガラス越しに見た桐板の藍型(エーガタ 藍染の紅型)はその地の白さと藍の発色、光沢が美しく心に残るものでした。竜舌蘭から取った繊維と言われている..でも材料が何の繊維か分からない、今は誰も作れない「幻の布」

昨年2020年10月にNHK沖縄で、12月にNHK BS1にて「幻の布 桐板を求めて〜琉球染織紀行」という番組が放映されました。このドキュメンタリー番組で「桐板」をはじめて知った方もいらっしゃるかもしれません。
(現在NHK WORLDでアーカイブが見られます。2021/11/07まで)
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/ondemand/video/3004681/

日本を代表するテキスタイルデザイナー、NUNOの須藤玲子さんが、首里城が焼けてしまって約一年後、コロナのパンデミックの2020年9月の沖縄へ向かいます。沖縄の染色・染織に関わる人達と出会い、「幻の布」と呼ばれる桐板を追っていく、という内容です。

また、2021年7月23日、このドキュメンタリーに関するオンラインイベントがJapan House Londonで行われました。番組ディレクター土江真樹子さん須藤さんによる対談です(英語)。
https://youtu.be/f480AbwrNos


ドキュメンタリーの中、須藤さんは、こんなに科学技術の進んだ現代にあってもまだ解明出来ない布がある、夢があるよね、と仰います。またJapan House Londonの対談では、できればいつまでも桐板は謎のままで私たちに永遠にインスピレーションを与えて欲しい、それが自分の夢だとおっしゃいました。

それを聞いて、なんと無邪気で、そして残酷な言葉だろうと私は個人的になんだか悲しくなってしまったのです。

沖縄の失われた歴史を取り戻そう、繋げていこう、と人生を賭けてきた人たちの歩みをこのドキュメンタリーで追ってきたのに、謎のままであり続けて欲しいと言えてしまうのか、と。自分は専門学校時代に新井淳一先生に教わったこともあり、須藤さんのNUNOの布はずっと憧れでもあり、そのお仕事はインスピレーションに溢れ、素晴らしいものだと尊敬しています。が、しかし…

現在自分はリハビリ中で織りや染めの作業をバリバリ出来ない状況なのですが、頭はフツーに元気で時間はある..というわけで、モヤモヤを解消すべくnoteを書くことにしたのでした。


「桐板(トンビャン)とは何か?」

結論から言うと、長年の多くの沖縄の人達の努力により今はその真相に迫りつつあり、幻の布ではなくなりつつある、と言えると思います。

謎はいつまでも謎のままで・・・それは抗い難い魅力的な欲望。しかし当事者である沖縄の人達が懸命に真相に迫っているのに、その成果をきちんと評価せず、ふんわりとした「謎」というイメージに押し込めておく他所者、本土の人間にはなりたくない…。まあそれも私のエゴによる自己満足に過ぎませんけれど。


断定はできませんが、2021年の今、桐板について解っていることをめちゃくちゃ簡単に言うとこういうことになりそうです。

・桐板(トンビャン)とは中国福建省の苧麻糸を使って織られた布である。

・また、福建省産の苧麻とは異なる素材で作られた「トンビャン」と称される布も存在し、それが混乱のもととなっていると考えられる。

このNHKのドキュメンタリー番組を追いながら、脱線もしつつ、話を進めて行きたいと思います。


ドキュメンタリー「幻の布 桐板を求めて〜琉球染織紀行」


番組に登場したのは以下の方々です。

ナビゲーター 
須藤玲子氏(テキスタイルデザイナー)

城間栄市氏(紅型) 
城間栄順氏(紅型)
大城一夫氏(染織家)
祝嶺恭子氏(染織家)
宮城奈々氏(染織家、研究者)
柳悦州氏(染織家、学者)
又吉光邦氏(学者)
ルバース ミヤヒラ 吟子氏(染織家)
運天裕子氏(染織家)



廃藩置県、琉球処分による琉球王国の終焉、そして太平洋戦争での地上戦、戦後の混乱….その間、多くの命だけでなく、文化財も失われ、散逸してしまいました。

番組には、琉球の、沖縄の、自分達の歴史・文化を取り戻し、前に進んでいこうと努力を続けてこられた沖縄の布に関わる人たちの姿がありました。冒頭に登場された城間びんがた工房城間栄市さんのお話からは、2019年の首里城の火災そしてパンデミックの最中の現在と、先々代の城間栄順さんが沖縄戦、首里城焼失という苦難から立ち上がっていく道が重なって見えるようでした。


1879年(明治12年)、明治新政府による琉球処分により尚泰王は東京へ連行され、琉球王国は日本と併合され終焉を迎えます。その5年後の1884年、琉球文化の消滅を危惧した1人のドイツ人が540点余の琉球・沖縄の民俗資料を日本政府に依頼し収集して持ち帰ります。ベルリン国立民族博物館の初代館長、アドルフ・バスティアン(Adolf Bastian)氏です。

それから100年余経った1994年、ドイツ・ベルリン国立民族博物館にて、首里織の染織家、祝嶺恭子先生は6ヶ月にわたって埃を被って保管されていた100点以上の琉球時代の染織品を研究されます。祝嶺先生の、すべてを持って帰りたい、がむしゃらだったという言葉の重み。織物という「物」ではなく「人」に会ったのだ、布一点一枚にその背景がある、それを読み取る、感動ばかりだった、という言葉から、実際にご自身の手で糸を扱い、布を織る人だからこその重みを感じました(祝嶺先生は何点もの過去の名品の復元をなさっています)。その中には7点の桐板もあったが、原材料の解明に繋がる資料はなかったとのことでした。

参照:ベルリン国立民族学博物館所蔵 琉球・沖縄染織資料調査報告書
〈資料編・図版編〉
執筆・監修:祝嶺恭子
発行:一般社団法人 沖縄美ら島財団
2014.12.1
https://oki-park.jp/shurijo/blog/detail/696


バスティアンの琉球コレクションと東京国立博物館


話が少し脱線しますが、先にも書いたこの7月のJapan House Londonでの対談でディレクターの土江さんも言及されてたのですが、琉球王朝時代の手工芸品は欧米各地にかなりの点数存在しているようです。多くの貴重な琉球沖縄の物品が戦火を免れ各国に分散している…しかしその全容は未だ掴めていないのが現実のようです。

参照:The Smithsonian Institution’s Museum Support Centre (MSC)における 1887年所収の琉球コレクション 與那嶺一子 2017年
https://okimu.jp/sp/userfiles/files/page/museum/issue/bulletin/hakukiyou10/008.pdf


今回、この1884年のバスティアンの琉球コレクションについて検索していて面白い記事を見つけました。

「琉球資料の東博の解説を解読する」motobei’s diary 2011年9月22日
https://motobei.hatenablog.com/entry/6352805

琉球民俗資料について、東博のHPは、
「明治17(1884)年に当時の農商務省が沖縄県から購入したものが基本となっています。また、明治15(1882)年にドイツ人類学会が研究用の参考資料として琉球の民俗資料の収集を農商務省に依頼してきており、当館にはドイツに資料を送られた後に東京へ送られてきたもの、複数ある資料の一方を東京に残しておいたものが移管されました」と書いてある。

理解しにくい文章に、頭が痛くなってしまい、ネット検索して調べたら、ヨーゼフ・クライナー法大特任教授の分かりやすい文章に行き当たった。
 欧州に所蔵されている沖縄の資料を述べたもので、「ドイツのベルリン民族学博物館の初代館長バスティアン(Adolf Bastian)のコレクションが中心です。1884年,バスティアンは日本政府にお願いして,沖縄の紅型など500点のコレクションを体系的に収集しました。当時の沖縄県令は非常に頭がよく,ドイツに送るものと同じものを日本のためにも集めました。それが東京の国立博物館に収蔵されています」
http://homepage3.nifty.com/okinawakyoukai/submenu3/kenkyukai/150kai/150kai-2.htm (西川注:残念ながらこのURLはリンクが切れています)

ドイツ人類学会(当時は民族学会)のバスティアンが収集し、東博に保管されたのは、沖縄の県令の機転のおかげ、ということになる。

この沖縄県令は、あの「上杉県令巡回日誌」の上杉茂憲なのだろうか。上杉は、最後の出羽米沢藩主で、英国自費留学から戻った1881年に2代沖縄県令になった。交通網が未発達のなか、沖縄の全島を視察し、教育に力を入れ、謝花昇らを県費で東京留学させた人物だ。

しかし、バスティアが依頼した1884年には、上杉は県令の職を追われていた。1883年4月に政府と対立して解任されたのだ。1884年当時は、西村捨三が県令を務めていた。

このあたりの事情も知りたい。東京国立博物館も、過去の寄贈者の遺徳を記しつつ、詳しくしらべてほしいものだ。

東京国立博物館に存在する琉球コレクションが、1884年にドイツに渡ったコレクションと同等の片割れである、ということは周知の事実なのでしょうか?自分も詳細を知りたくなりました。その中にはドイツに渡った7点の「桐板」と同等のものもあるのでしょうか?またバスティアンが「依頼した」のは1882年と書かれていますから、上杉茂憲沖縄県令の時代と考えられそうです。

さらに続いてまた脱線でありますが、上杉茂憲第二代沖縄県令は、上杉謙信の流れを汲む旧米沢藩最後の藩主。沖縄で敬愛されている人物の一人です。こちらの資料も大変面白く興味深いです。


『第二代沖縄県令 上杉茂憲関係資料について』沖縄県立博物館紀要 1994
https://okimu.jp/sp/userfiles/files/page/museum/issue/bulletin/kiyou20/20-6.pdf



ルバース・ミヤヒラ・吟子先生による桐板の研究と復元

さて、番組に戻ります。染織家でもあり研究者でもある宮城奈々さんによると桐板の特徴は「白く、透明感がある」こと。その糸・繊維を拡大してみると、芭蕉と比較して平らで反透明の繊維であることがよくわかります。白く輝くシースルーの桐板...本当に究極のお洒落です。

そして桐板の研究と復元に生涯をかけた首里織のルバース ミヤヒラ 吟子先生。人間国宝、宮平初子先生の娘さんです。ルバース先生は、1981年沖縄県立博物館での「沖縄の美 日本民藝館蔵展」で、普段なら展示会に足を運ばないような男性が「桐板 トンビャン」を見て懐かしい、もう一度着たい、と口々に言うのを聞き調査を始めたといいます。多くの資料をあたり、福建省の苧麻が「桐板」ではないかと仮説を立てます。中国にも足を運ばれて研究を重ね、その仮説を証明されました。そして福建省の「桐板」の糸、つまり苧麻の糸を手に入れ、見事なトンビャンの絣布を再現され、しかしその後まもなく2018年に68歳という若さで急逝されてしまいます

番組の中で見た桐板の糸…福建省の苧麻は、宮古の少し茶味がかった苧麻糸と比較すると、青白い透明感があり、一目で違うとわかります。ルバース先生のお弟子さんである運天裕子さんは、織るのが本当に大変だった、霧を吹きながら、最初は一日1センチ、2センチしか織り進められなかったと。

番組は、ルバース先生が急逝され、工房は閉じられ、桐板は織り手を失い再びは幻の布となった、と結びます。

原材料の糸が何か解った今、その糸が作られているのあれば、今も織れる人はいるはずなのですが...番組としては結局「幻」のままにしておきたいのか....ひっかかるエンディングと個人的には感じます。しかし、丁寧な取材と沢山の発見、見応えのある番組でありました。

「幻の桐板」の混乱に迫る又吉光邦博士の研究


さて、番組の中盤で、沖縄国際大学の又吉光邦博士が、ご自身が実験して竜舌蘭から白く美しい繊維を取り出したものを見せてくださっていました。

この実験はネットで又吉先生が公開されています。
「トゥンビャン繊維の簡易取得法」
https://www.okiu.ac.jp/gakubu/sangyojoho/teacher/matayoshi_mitsukuni/kaken-16k02101/tonbyan-jpn

その又吉先生による「桐板」についての研究発表が2021年6月28日にオンラインで開催されました。私も視聴参加したのですが、そのお話は大変興味深く、新たに突き止められた内容はショッキングとも言えるものでした。


【南島研】第214回 シマ研究会「桐板とトンビャン」
桐板を一般的にトンビャンと発音し、その素材については、幻の布/幻の繊維などという表現がなされてきた。報告者は、古文書や明治期の新聞、そして実際に残されている貴重な古布裂を調査した結果として、大きくトンビャンと発音される植物繊維には2種類あり、その一つは中国産の麻系の繊維、もう一つは沖縄産のリュウゼツランの繊維があることを見出した。研究会では、それらについての知見をデジタル顕微鏡の写真などを用いて報告する。
https://www.okiu.ac.jp/news/46751


この研究発表はライブのみでアーカイブは存在せず、正式な文書もネット上に今はまだ出ていません。詳細は公式な発表を待ちたいと思いますが、ざっくりとその内容を。

NHKの番組の中での又吉先生は、竜舌蘭は方言で「トンビャン」と呼ばれている、と仰っています。しかしそれをこの6月28日の発表でご自身で覆えされたのです。

又吉先生は、過去の記録を丹念に辿りながら、琉球沖縄ではもともと竜舌蘭のことをトンビャンとは『呼んでおらず』、ロゥガイ、ルガイ、トーブなどと呼んでいたことを見出します。そして、戦後まもない時期、ある日本人研究者がその著書で『桐板トンビャンという竜舌蘭の繊維』と記し、そこから竜舌蘭=トンビャンという言葉が置き換えがはじまり「幻の」というブランド化、混乱がはじまったのではないか、との見解を述べられました。

混乱のもとは、悪意はなかったにしても、権威ある一人の日本人の研究者の思い込みから始まったのかもしれないのか..と思うと、複雑な気持ちです。世の中には私たちが気づいていないだけで、こういう事例はあちこちにあるのかもしれません。


又吉先生による、2年前2019年の報告書は下記で見ることができます。ここではまだ「竜舌蘭=トンビャン」呼称の前提で話が進みますが、中国産の苧麻である「桐板」と、それとは異なる素材で作られた「桐板」が混在しているのでは、という見解がすでに述べられています。

https://okiu1972.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2890&item_no=1&page_id=13&block_id=21

“実は桐板布なのだが、現在、我々はそれを桐板布として認識していない布が多数ある。また我々が桐板布であると認識 している古布・古裂の中に、当時、中国から輸入された桐板と異なる材料で作られた布が混在している可能性もある” となる。 おそらく現在の桐板をめぐる学説の混乱 は、この “当たり前の考え方 ” で整理できると著者は考えている。

現在、桐板と分類されている古裂を調査 したルパーズ・ミヤヒラ吟子による「桐板 に関する調査研究(その1)」ならびにルパーズ・ミヤヒラ吟子・ 高漢玉・春木雅寛による「桐板に関する調査研究(その2)」において、桐板は「中国産苧麻と考えられる」と科学的に同定されている。私自身、竹富町にある喜宝院蒐集館にある桐板で作られたと口伝されている形付衣装を調査した が、その糸は明らかに麻系の繊維で作られ ていた。そしてそれは、沖縄産の苧麻とは 異なり繊維の黄色への変化がなく、地質の白さが際立った繊維であった。

「桐板と記される 繊維、あるいはトンビャンという音に似た 名称を持つ異なる繊維が少なくとも2つ、 あるいはそれ以上存在した」という考え方 は論理的に支持されよう。また、その説明 の過程で混在論、すなわち「実は桐板布なのだが、現在、我々はそれを桐板布として認識していない布が多数ある。また、我々が桐板布であると認識している古布・古裂 の中に、当時、中国から輸入された桐板と異なる材料で作られた布が混在している可能性もある」を提唱し、その正当性を論理的に説明した。そして最後に、緯糸に龍舌蘭の繊維を用いた古布裂を示し、沖縄でトンビャン布と呼ばれていたものが、すべて中国由来の麻糸の桐板布であるとの反証を示した。


「桐板=竜舌蘭」異論説は50年前にも

さて、改めて調べてみると、桐板=竜舌蘭説はおかしいのでは?という考察は以前からあったようです。著名な沖縄出身の植物研究家である多和田真淳氏による「桐板(トンビャン)とは何か:その調査追跡報告(予報)1974年」。一つ一つ丁寧に検証していく過程は読んでいてとてもワクワクしますが、最後の方にこう書かれています。

https://hosei.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=16&lang=japanese&creator=多和田+真淳&page_id=13&block_id=83

…したがって福建からの竜舌蘭繊維の輸入はない….数々の事実を考え合わせると、沖縄で「桐板」といって使用した綛は南中国産のイチビ(莔麻 ボウマ・青麻)が原植物である。沖縄でルグゥイ・ドゥグヮイもしくは間違ってトゥンビャンと称えているアオノリュウゼツラン(青の竜舌蘭)は真正の桐板ではないので、今後区別するため「仮桐板(カトゥンベン)」と称えた方がよいと思う。…. 

…. 桐板と(その人達が)称する材料を(4種)戴いた。以上の四材料をプレパラートに作り… 拡大して検鏡した結果、カラムシ(方言マーウー)繊維なることが判明した。..... 今後、民間に温存されている幾多の桐板と称する材料の検鏡と、最終的には尚家の品(これこそ正真正銘の桐板と目されている)によって解決されるものと思われる。… 今の調査の段階では、桐板といわれるものの中に中国産の莔麻(イチビ)の繊維は見出されていないので、桐板は莔麻だとするも早計である。誰かが出かけていって葉一枚でよい原植物を取ってくればすぐ解決する問題である…. ここまで書いて後を振り返って我ながら唖然たらざるを得ない。問題は一歩も前身していないのである。…..

この文章が書かれた1974年といえば、沖縄本土復帰から2年、日中国交正常化からも2年。まだ中国本土に気軽に研究に行かれる状況ではなかったと思います。

イチビ(莔麻 ボウマ・青麻)はアオイ科で、苧麻とは全く異なる植物ですので話がまたまたややこしくなりますが、それはここでは置いておきます(ルバース先生の研究で福建省産の苧麻であると現在は証明されています。ただ、イチビの可能性がゼロなのかは私にはわかりません…)。

ここで重要なのは、桐板=竜舌蘭説には無理があると50年ほど前にすでに論考されていることです。中国から輸入された糸で織られた「桐板」と、それとは別に竜舌蘭で織られた「仮桐板」とでも呼ぶべき布があること。また、竜舌蘭はルグゥイ・ドゥグヮイと呼ばれていて、トゥンビャン(トンビャン)と呼ぶのは間違えだ、とさらっと書かれていること。これらは又吉先生の説と繋がります。

二種類(以上)の「桐板 トンビャン」


さて、又吉先生の見解、
桐板には
(1)中国福建省産の苧麻の織物
(2)桐板 トンビャンと誤って称された竜舌蘭(等)の織物

がある。これが最終的結論なのでしょうか?

真っ先に上がる疑問の一つは、竜舌蘭を意味するロゥガイ、ルガイ、トーブなどと称される織物の記録が、何時ごろからどれだけ残っているのだろうか?ということでしょうか。

何はともあれ、例えば電子顕微鏡での検鏡やDNA鑑定でかなりすっきり色々なことがわかるような気がするのは素人考えなのでしょうか。沖縄科学技術大学院大学(OIST)で芭蕉布の研究がされていますが、桐板のことも調査対象にならないかな?などとこれまた勝手なことを思います。

「猛暑乗り切る先人の知恵 〜芭蕉布の製造工程を科学的に解明〜」
OIST 2017年 野村陽子博士他
https://www.oist.jp/ja/news-center/press-releases/32205


ちなみに、桐板はパイナップルの繊維ではないか?という論考もあるようです。

沖縄の織物「トンビャン(桐板)」の原材料であるパイナップル(鳳梨)繊維についての考察―貿易からみた可能性― 米村 創 2011年
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2011s/0/2011s_0_91/_article/-char/ja/


「幻」のままではいられない

桐板(トンビャン)は、現在は作られていない、という意味では確かに「幻の布」です。一方で、桐板の謎に迫ろうと長年努力を続けてきた方々の成果が、実を結びつつあることも確かです。

事実を丹念に積み上げ、研究を進めている人たちがいるのに、勝手に「幻の錦」を押し着せることはもうやめたらいいんじゃないでしょうか。そんな「夢」や「ストーリー」からくるインスピレーションはいらない、と私は思います。

桐板の謎が解けるにつれ、博物館などにある琉球・沖縄の布の再鑑定・検証が必要になるでしょう。同時に、海外や日本各地に分散している琉球・沖縄の物品の調査が進み、明治期の混乱、地上戦、戦後の混乱、首里城焼失などにより失われた遺産が、沖縄の人たちの手に戻る、また直接沖縄に戻らなくとも、デジタルアーカイブなどによりアクセスしやすくなることを願っています。

そして、どうやらトンビャンとは別の名の?竜舌蘭の糸の布、これからその製作技法の実験と研究が進み、きっとまた再現される日が来たら....と思います。そしてそれを実現してくれる人がいると勝手に思っている私です。いつか私も織ってみたい!!(笑)


追記

この文章を書き終わった後、ルバース先生の桐板についてのこんな記事を見つけました。桐板は幻の布なんかじゃない、と宮平初子先生もルバース先生もおっしゃっているではありませんかっっ!!(我が意を得たりで鼻息が荒くなりそう 笑)
ただ、この記事によると、福建省の、あの白くて美しい苧麻糸はもう作られていないのかもしれません。

「幻の布なんかじゃない。沖縄で途絶えた「桐板」を、ある母娘が8年かけて復元した情熱」2018年 中川政七商店
https://story.nakagawa-masashichi.jp/65523




トップ画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫よりお借りしました。
https://www.library.pref.okinawa.jp/archive/contents/cat38/2/2-17.html
桐板浅地紅入藍型鶴亀蟹藻岩文様裂
素材
経糸:桐板
緯糸:桐板
海底に藻が揺れ、亀を見つめる蟹、さらに花、鶴が舞うのどかな桐板(トンビャン)に紅型を染めた珍しい裂地。

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