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最初の月命日に

恩師である平良敏子先生が2022年9月13日に永眠されました。享年百一。
今日は10月13日、最初の月命日になりました。


実は今月10月30日に喜如嘉で先生を囲んで内々に同窓会を開こうと沖縄在住の先輩と後輩が動いていたところでした。ほんのちょっと間にあいませんでした。でも先生がひと月早くに同窓会を開いてくださいました…ずっと会いたかった先輩、後輩、お世話になったおばさんたちと再会できました。現地に滞在出来たのは3時間ほど。後ろ髪を引かれる思いでやんばるを後にしました。


「やんばる同窓会」という、喜如嘉で芭蕉布を学んだ同窓の集まりを私が呼びかけたのは昨年2021年1月。最初は喜如嘉での開催を考えていましたが紆余曲折あり、最終的に今年5月に横浜三溪園「日本の夏じたく展」の一角ではじめての展示を行いました。その展示の様子を冊子にし、敏子先生への感謝の言葉を添えてご報告出来たこと。先生が喜んでくださっていると人づてに聞けたこと。先生にみんなの感謝の気持ちを何かの形にして伝えること、ぎりぎり間に合った..と思いたいです。


大宜味村在住のやんばる同窓会メンバー、大城あやさんから訃報の連絡をもらい、同じくメンバーで本土在住の坂口智美さん、滝沢都さんと沖縄入りをすぐに決めました。滝沢さんとは羽田から一緒の飛行機で那覇に入りました。那覇から名護にむけて高速バス、途中から後輩である宜野座の鈴木芭蕉布工房の鈴木隆太さんの車に乗せてもらい喜如嘉に向かいました。


9年間過ごした沖縄を私が離れたのは2006年の春、数えれば16年余前です。懐かしいオオシマゼミの金属的な鳴き声を聞きながら、新しい道路が、建物が、お店があり、変わったなあとかここは変わらないね、懐かしいなあなどと話をしながら車の外を眺めていたら、ふと、先生はこの1世紀の沖縄の激しい変貌をずっとずっとここで見てこられたのだ....という思いがどっと押し寄せてきました。この58号線はいつ舗装されたのだろう、ここはいつまで自然の海岸線だったのだろう...戦前の沖縄、戦後すぐの沖縄。アメリカだった沖縄、日本に返還された沖縄....人が一人亡くなる、というのはそのすべての記憶、経験が瞬時に失われることなんだ、と。


沖縄から戻ってすぐ、先生の昨年2021年1月30日、100歳のお誕生日直前(先生は1921年2月14日生)のインタビューを見つけました。このような動画を残してくださった先生や関係者のみなさんには感謝しかありません。子供の頃のお話から女子挺身隊として倉敷へ向かった時のこと、那覇に戻ってきた時のこと...細かい心の動きや日付までも詳細に覚えていらっしゃることに驚きます。
先生は若き日に倉敷でお世話になった大原総一郎氏、外村吉之介氏への深い感謝と恩義を胸に20代半ばから100歳を超えるまでずっと、芭蕉布に人生のすべてを捧げてこられたのだ、と。先生のその道のり一端を改めて聞くと、最後の若い人達への言葉が深く胸に刺さります。

http://www.peace-museum.okinawa.jp/testimony/archive/168/


7年前の2015年10月、高校生になった息子と一緒に訪ねたのが私にとって先生と直接お会いした最後になりました。芭蕉布会館の2階に上がると先生はまず息子の名前を呼んでニコニコと9年ぶりの再会を喜んでくださいました。もうすぐカジマヤー(数え年97歳のお祝い)だからね、お世話になった方々に贈るためにカジマヤー(風ぐるま)を織ってるんだよと機を見せてくださいました。私が芭蕉布工房・会館で働いていた1997年から2002年当時、先生はすでに後進の指導に専念されていたので、私が先生がご自分の機を立てて織っている姿を見るのははじめて。なんだかすごくドキドキしたことを覚えています。機の上にはピシャリと絣のあったカジマヤー。

その時のカジマヤーを先生とのお別れの日に見ることが出来ました。



先生、

長い長い間

本当にありがとうございました。

私たちも頑張ります。









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