越中詩郎

私的プロレススーパースター烈伝⑨越中詩郎

今回は「ド演歌ファイター」越中詩郎選手のご紹介です。越中選手はもともと全日本プロレスに所属しており、ジャイアント馬場さんの付き人も務めていました。

若手時代に、のちに平成維震軍で同志となるザ・グレート・カブキさんからは試合展開の細かい組み立て方を教わっています。こうした中1981年2月19日の福島大会で、デビューから245戦目にしてようやく初勝利を挙げます。

この年に因縁深い三沢光晴さんがデビューしていますが、その対戦相手を務めたのも越中選手です。以後三沢対越中は「前座の黄金カード」と呼ばれ注目を集め、テレビでも異例の取り上げられ方をされたこともあります。

1983年4月22日、ルー・テーズ杯争奪リーグ戦で三沢さんを破り優勝し、翌年3月、三沢さんとともにメキシコへ遠征し、サムライ・シローの名で活躍しました。

1984年7月に、馬場さんは三沢さんだけを日本に戻します。いうまでもなく三沢さんは二代目タイガーマスクとして凱旋帰国したわけですね。

このことに越中選手は危機感を抱くようになっていき、1985年2月に坂口征二さんの誘いで、新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国します。この時はすぐに新日本に移籍せず、まず当時設立したばかりのプロモーションだったアジアプロレスに移籍して、そこから新日本に上がるという形を取っています。

新日本プロレスと全日本プロレスの違いに関して越中さんは「全日は相撲部屋のような縦社会。新日は体育会系の部活のようなノリ」「馬場さんはガイジンと対等にぶつかり合う大きな体が必要と考えていたが、猪木さんは自分から攻めていくことを要求した」という趣旨の感想を述べています。

1986年2月6日、IWGPジュニア王座決定リーグ戦の決勝でザ・コブラを破り、初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得[します。その後、旧UWFから戻ってきた高田伸彦選手のキックを、愚直にも正面から受けるファイトスタイルで越中人気が沸騰。UWFびいきのファンからも支持を集め、一躍人気レスラーとなった。

そのキックや関節技を主体とした攻めの高田さんと、「耐える美学」「人間サンドバッグ」とまでいわれた受けの越中さんのシングルマッチは「ジュニア版名勝負数え唄」と形容され、当時のプロレスファンの圧倒的な支持を得ました。また、1988年2月7日、第1回トップ・オブ・ザ・スーパージュニアでも優勝し[、ジュニアでは敵なしの状態にまで上り詰めました。

ヘビー級転向後は、1990年9月7日に大阪府立体育会館にてグレート・ムタの日本での初対戦相手を務めた際に、メキシコ修行時代のリングネーム「サムライ・シロー」を名乗っています。

ヘビー級時代の転機はなんといっても誠心会館との抗争に始まると思います。小林邦昭さんと共闘した越中選手は、新日本プロレス選手会と対立しヒールに転向します。

1992年7月31日、頭を剃り上げて反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成]し、一躍中堅からトップ戦線へ躍り出ます。1994年11月13日、東京ベイNKホールで平成維震軍旗揚げ戦を行い、タイガー・ジェット・シンと対決しています。この時期、1995年のG1 CLIMAX初戦でIWGP王者(当時)武藤敬司を破るという実績も挙げているのですが、この試合は現地において生で見ております。

フリーランス転向後の2007年には、「アメトーーク!」でのケンドーコバヤシさんによる越中さんのネタから「越中ブーム」が発生します。それも背景に同年5月2日、11年ぶりにIWGPヘビー級選手権試合に臨みますが、ベルト奪取まであと一歩のところで、王者・永田裕司選手のバックドロップ・ホールドに散りました。

60歳を超えた現在も現役として往年と変わらないスタイルで闘っている越中選手は、いつも元気なファイトスタイルで我々に元気を与えてくれています。プロレスリングマスターズでは平成維震軍を再結成し、暴れまわっています。これからも若々しく元気でいてほしいですね。


両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。