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物語はどこまで現実に肉薄できるか

こちらは丹宗あやさんの作品「曖昧に笑うのはもうやめた」への批評noteになります。
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まず、非常に生々しい、現代社会の閉塞感や生きづらさを見事に表現されていると思いました。ああ、たぶん実際にこういう人たち(三人組)、いるんだろうな。学生時代から成長できずに、そのまま親になってしまった類の人。

雨という天候が主人公の心情とリンクして、「憂鬱」の一言では括れない感情を呼び起こします。雨のシーンの描写は私個人的に好きなので、ここはもっと深く(細かく)描いてもいいかなと感じました。

三人組は、自分たちには何の非もなくて、ましてや虐待をしてしまうような親ではないという自負を持っているようです。そしてその自覚(逆説的に、コミュニティにおける愚かな加害者であることへの無自覚)をふりかざして、虐待をしてしまう親を好き放題責めている。物事の本質を見ようとしない現代人の象徴として描かれているように感じました。

主人公も決して強い人間ではなく、自分の子を怒鳴りつけてしまう弱さもありますが、しかしその弱さと真正面から向き合う「強さ」を持っていると読み取りました。

さて、物語はどこまで現実に肉薄できるのでしょうか。あやさんの描かれた物語は、現実に起きてもおかしくないことです。私は、この小説を通じて「現実が物語を生むこともあれば、物語が現実を現実たらしめる」ことを学びました。それは私にとってビビッドな経験でした。

この世に虐待がなければ、この物語は存在しないかもしれない。あったとしても、それはうわべのファンタジーになっていたかもしれない。虐待が存在するという現実をあやさんがしっかり受け止めているからこそ描けた物語なのだろうと思います。

また、主人公はラストで「曖昧に笑うのはもうやめた」決断をしますが、その「曖昧」は弱さや恐れ、陋劣さ、卑劣さと言い換えられるのかなと思います。つまり、それらを手放す「覚悟」をした主人公の心の重要な動きは、タイトルにも現れていたのですね。

強く握り締められたスマホに、主人公の気持ちが如実に現れており、決して綺麗事だけではない現実を見せつけられた気分です。未完であるがゆえのざらざらとした読後の感触、私は好きです。

「虐待」という社会問題を問うと同時に、人ひとりの心の変化を丁寧に描かれた物語と思います。物語がもし織物なら、派手な編み方ではないけれど、一目一目丹念に編んだ、そんな印象を受けました。

主人公が「何、あの顔」「感じ悪くない?」を乗り越えた先に、一筋の光を見出してくれることを願うばかりです。



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