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『アリスのための即興曲』Vol.35 学長と生真面目なゴマアザラシ

年末も押し迫ってまいりましたね。
『アリスのための即興曲』というものを書いております。
お時間ありましたら、ぜひお立ち寄りくださいませ。(^^)


初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちらから。


Vol.34  ブラジルの蝶とテキサスの嵐についての考察


本編 Vol.35 学長と生真面目なゴマアザラシ


 30分後、僕は***大学の学長室にいた。そこはモデルルームのようにこざっぱりした部屋だった。窓際には大きな事務机があり、その上に二、三冊のファイルがつつましやかに置かれていた。部屋の中央にはキャメル色の革のソファが置いてあり、そのそばに小さなガラスのテーブルがあった。それ以外に余分なものは何もなかった。ブラインド越しに射し込んでくるひかりでさえ、あらかじめ明るさと強さを調整されているみたいに見えた。




 学長は窓際の事務机の前に座っていた。年の頃は60代というところだろうか。白髪のまじった硬そうな髪を後ろに撫でつけ、黒縁の眼鏡をかけていた。いかにも上質そうな紺色のスーツに淡いブルーのネクタイを締め、胸ポケットからは白いハンカチが覗いていた。躰付きはどことなくワインのたっぷり詰まった樽を思わせた。学長は眼鏡の奥でひとの好さそうな目を瞬き、太い指を組んで僕を見つめていた。

「冬休み中に呼びたててすまなかったね、坂本くん」学長が言った。深くあたたかみのある声だった。
「とんでもないです」と僕は言った。
正直に言うと、出かける前までは呼び出されたことでいらいらしていたが、そのような感情はどこかの空間に吸い取られていったみたいにきれいになくなっていた。それが学長の風貌によるものか、それともこの部屋の雰囲気によるものなのかはわからなかった。
「早速だけど、本題に入らせてもらうよ」



学長は額にわずかにかかっている髪の毛を払い、軽く咳払いをした。そして机の引き出しから何か小さな部品のようなものを取り出し、手のひらに乗せて僕に見せた。僕は思わず声を上げそうになった。それはUSBメモリだった。その小さなプラスチックの物体は、狡猾な虫のように学長の分厚い掌の上におさまっていた。まるで物理の法則を無視した絵画を見ているみたいに、僕は激しい混乱を感じた。

― なぜ、あれがここにあるんだ?いやしかし、これは単なるプラスチックの物体に過ぎないじゃないか。何か別の情報が入っているのかもしれない。―

僕はそのように自分を納得させようとした。けれど僕の躰はそんなことを信じていないみたいだった。月に向かって発射されたロケットのように、心臓がものすごい勢いで駆け巡っていた。空調のぶうんという音がいやに大きく響き、ひどい耳鳴りがした。

「その様子だと、この中に入っている映像を君はすでに目にしたんだろうね」

学長はため息とともにそっと言った。僕は膝の上で震える拳を握りしめた。けれど震えは収まらなかった。震えは腕に、腹に、膝に、そして爪先へと静かに伝わっていった。学長は黙って僕の様子をしばらく見ていた。それからおもむろに秘書室に電話した。しばらくすると秘書が二杯の緑茶を乗せた盆を持って滑るように現れ、恭しく礼をして静かに去っていった。学長は黙って緑茶を僕に差し出した。僕は口をつけず、その温かい湯のみをしばらく手のひらで包んでいた。学長は眼鏡を外してため息をついた。

「坂本くん。誤解しないでほしいんだが、私はあのビデオの内容を信じていないよ」

僕は顔を上げて学長を見た。彼の瞳はろうそくの炎のように明るいひかりを宿していた。
「すまないが、君の入学からこれまでの学歴、それに家庭環境などを調べさせてもらった。君はすこぶる真面目な生徒だし、これまで一度も問題を起こしたことがない。成績だって悪くない。君はおばあさんと二人暮らしだそうだね」

僕は頷いた。もし祖母にこのビデオのことを知られたら、彼女はどんな顔をするだろう。そう思うと胸が締め付けられるように苦しくなった。

「ご近所の方の話では、君はおばあさん想いの優しい青年だという評判のようだ。今、私の目の前にいる君も、やはり真面目そうな好青年に見える。あんな行為をする人物のようには見えない。それで…(学長はここでまた咳払いをした)単刀直入に聞くが、君は本当にあのことを行ったのかね?」

「いえ、やっていません」

僕はまっすぐに学長の目を見て言った。腹の底で原子炉みたいに炎が燃えていた。僕の人生の中で確信を持って言えることなどそう多くはないけれど、アリスの件に関してだけは確かだった。
学長は頷いた。

「そうだろうと思っていたよ」

彼は眼鏡を外し、目頭を指で抑えた。ぶ厚い唇からため息が漏れた。たっぷり三十秒ほどの沈黙が流れた。けれどそれは居心地の悪い沈黙ではなかった。温かい膜のように部屋を潤してくれる沈黙だった。それから学長はこれまでの経緯について語り始めた。ある日、何者かが匿名で***大学宛の封筒を送ってきたこと。その中には例のUSBメモリと一枚の白い紙が入っていたこと。紙にはワープロ書きで「坂本を退学させろ。さもないとこのビデオを公衆の面前にさらす」という内容のメッセージが書いてあったこと。
彼は話し終わると太い指を組み、その上に顎を乗せて僕をじっと見た。



「その封筒を送った人物に心当たりはないかね?」
「いいえ」
「では、その、ビデオで証言をしている女性に関しては?」
「…いいえ」

僕は少し迷ったが、沈黙を守った。アリスをこの話に巻き込まない方がいいような気がしたのだ。どのみち僕が彼女のことについて話したところで、何かの解決につながるとも思えない。
学長は太いため息をついて悲しそうな瞳で僕を見た。彼は事務机の端を指でぱたぱたと叩いていたが、やがて意を決したように言った。

「三か月の停学処分ということにさせてくれないか。君はすでに大方の単位を取り終わっているようだし、三か月後に大学に復帰しても十分遅れは取り戻せる。もちろん、停学中の学外での行動はまったく自由だ。大きな問題を起こさなければ  ―そのような心配は無用だと思っているが― 何をしてもらっても構わない。その代わり就職活動は控えてもらうことになるがね」
「でも、僕の無実を信じてくださったのなら…」
「先ほども言ったように、君が無実だということを私個人、、、は信じている。しかし、考えてもごらん。万一あのビデオが公開されたら君の人生は終わりだ。世間の人々はあのビデオを頭から信じるだろう。いや、彼らにとってはそれが真実かどうかすら問題ではない。好奇心を満たしてくれる刺激的な話題があれば、飢えた獣のように食らいつく。君はまだ若いから知らないかもしれないが、人間というのは時にとても残酷なものなのだよ」

学長はスーツの胸ポケットからハンカチを出し、額の汗を拭いた。

「大学側としても、事が公になるのは避けたい。警察には連絡していないし、これからもするつもりはない。ただ、あの封筒を送ってきた人物を刺激するようなことはしたくない。あの人物がどこまで本気なのかはわからない。もしかすると単なるいたずらだという可能性もある。しかし万一のことを考えると、このまま何も行動せずにいるわけにはいかない。かといって無実である君を退学させるには忍びない。三か月の停学処分というのは、いわば妥協点だ。これは君を守るためでもあるんだ。どうかわかってほしい」
学長の口調には有無を言わせぬものが感じられた。彼の瞳には、同情の色と同時に断固とした決意が見て取れた。僕は操り人形みたいに、首を縦に振った。


 学長室を出ると、どっと疲れが噴き出した。腰から下の感覚がなく、膝に力が入らない。僕は廊下の壁を伝うようにして歩いた。廊下の角を曲がったところに人影が見えた。とても小柄な女の子で、彼女の着ているベージュ色のロングコートにすっぽり隠れてしまうんじゃないかと思うほどだった。それは中山伊織だった。
「坂本くん。今、ちょっと話せるかな?」
彼女は生真面目なゴマアザラシのような瞳で僕を見つめて言った。なんだか世界中の女性が僕にひとこと言わないと気が済まないみたいだ。一体僕が何をしたというのだろう。僕はコートのポケットに手を突っ込んで彼女を見た。ポケットには小さな穴が開いていた。僕の指は穴を突き抜けてむなしくそこらの空気をかき回した。


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