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『アリスのための即興曲』Vol.36 スパイ

年の瀬ですね。
『アリスのための即興曲』、お付き合いいただければ幸いです。


初めての方は、こちらからどうぞ。


Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーはこちら。

Vol.35 学長と生真面目なゴマアザラシ

 

本編 Vol.36 スパイ


   中山伊織と僕は、彼女の行きつけのカフェに行くことにした。冬休み中で大学のカフェテリアが閉まっていたためだ。そこは駅から少し離れた場所にあるこぢんまりとした店だった。店内の壁はクリーム色で、木製のテーブルと椅子のセットが二、三遠慮がちに設置されていた。客は見たところ僕たちだけのようだった。僕たちは窓際の席に腰かけた。窓辺にはレースのカーテンがかかっていて、小さなサボテンの鉢植えが置かれていた。素焼きの鉢植えには蜂蜜色のひかりがまんべんなく降り注いでいた。そのせいで、サボテンと太陽は親密な友人のように見えた。




「なかなかいいでしょ。このカフェ、お気に入りなの」
中山伊織は得意げに言った。
「確かにいいところだね。この界隈にこんなカフェがあるなんて知らなかった」
僕は店内をぐるりと見回して言った。店員がやってきて、水の入ったコップとメニューをテーブルの上に置いた。僕はブレンドコーヒーを、彼女はミルクティーを注文した。店員は一礼すると、滑るようにキッチンの奥に消えていった。

 店員が去ると中山伊織は急に真面目な顔つきになり、まっすぐに僕の目を見つめて言った。
「あのね、坂本くん。さっき、坂本くんと学長が話しているのが聞こえちゃったの。悪いことは言わないから自首した方がいいよ」
中山伊織は真剣な目で僕を見つめていた。眉根をぎゅっと寄せて、瞳は黒曜石のようにひかっている。僕は首筋に刃物でも当てられたみたいにひやりとした。

「…中山さん、誤解がないように言っておくけど」
僕は喉を締められている瀕死の鶏みたいな声で言った。彼女は僕の様子をじっと見つめている。頭の中が真っ白になり、舌が口の中でもつれる。うまく言葉が出てこない。どのようにしゃべればいいのか急に忘れてしまったみたいだ。その永遠とも思える十秒ほどの間に、彼女の唇は奇妙なかたちにゆがめられていった。そして次の瞬間、笑い声が店内に響いた。僕は何が起こったかわからず、目の前の彼女を呆然と見つめた。
彼女は笑いの合間を縫うようにして、声を震わせながら言った。

「ごめん、嘘よ。本当は何も聞こえなかった。ただ、坂本くんが学長室に入っていくのが見えたから、何かあったのかと思っただけ」
「中山さんも人が悪いなあ」僕はほっとして言った。
「宇宙人の仕返しだよ」
「宇宙人?」
「そう、宇宙人。いつか坂本くんに訊いたでしょう。『普段、どんなことを考えてるの?』って。そうしたら坂本くんが宇宙人の話をしたんだよ。覚えてる?」
なんだかそれは古代メソポタミア時代の出来事のように思えた。失われた記憶を思い出すというのはこんな気持ちがするものかもしれない。けれど実際には、中山伊織と宇宙人の話をしたのは一週間ほど前のことに過ぎなかった。

「中山さんこそ、どうしたの?冬休み中なのにわざわざ大学に来るなんて」
僕の心臓はジェットコースターを下りたばかりのように激しく波打っていたが、なるべくさりげなく見えるように努めて言った。
「うーん、そうね、スパイってところかな」
彼女は両手の親指と人差し指を突き合わせて考え深げに言った。僕は彼女の言わんとすることがよくわからなかった。彼女は淡々と続けた。




「あのね、私が知ってるのは、大学にUSBメモリが送られてきたことと、その内容がどうやら坂本くんに関係あるらしいということ。それ以外は何も知らない。本当よ」
「ちょっと待って。何で中山さんがUSBメモリのことを知ってるの?」
「だって、学長、つまり中山源二郎げんじろうは私の父だから」
彼女はきっぱりと言った。僕は口を開けて彼女の顔を見た。中山伊織が、学長の娘だって?彼女はほんの少しきまり悪そうに言った。
「別に隠していたわけじゃないよ。ただ、裏口入学だのなんだのってへんな噂が立つのが嫌だから、普段はあまり言わないようにしているだけ。もちろん入学試験はきちんと受けて合格したよ」
「疑ってないよ」
僕がそう言うと彼女は少しほっとしたようだった。彼女は前髪をちょっと触ってから、事の経緯を話し出した。

「三日くらい前かな、父がピリピリした様子で帰宅したの。『学生課に妙なUSBメモリが送られてきた』と言った後、すぐ書斎に閉じこもってしまった。父はあの通り穏やかなひとで、イライラしているのはめずらしいことなの。それに普段は家で仕事をしないんだけれど、その日はめずらしく書斎にこもりきりで何かしている様子だった。部屋の外から立ち聞きしてみたら、女の人の声がしたわ。初めは映画でも観ているのかと思った。でも、それにしては父はひどくうろたえていたみたい。部屋の中を行ったり来たりする足音が聞こえたから。嫌な予感がして、私、扉の外でじっとそのまま聞き耳を立てていたの。何を言っているかはっきりとわからなかったけど、その女の人が坂本くんの名前を呼んだような気がしたの。最初は聞き間違えかと思った。でも…(彼女は唇を噛んだ)。父は今日、冬休み中だというのにスーツを着て出勤していった。スーツを着るなんて入学式か会議の日くらいなものよ。それで、これは何かあるんじゃないかと思ってこっそり後をつけていったの」
僕は唖然とした。どこの世界に父親を尾行する娘がいるのだろう。僕は椅子の背もたれに躰を預けてため息をついた。
「ねえ、坂本くん。いったい何があったの?」
中山伊織は黒い瞳でじっと僕を見た。その瞳は学長のそれと似ていなくもなかった。あたたかいが、何かただならぬ力を備えた眼差しだ。それは溶鉱炉のように、どんな頑なな心をも溶かすと決めているような瞳だった。




 そのとき店員がブレンドコーヒーとミルクティーのカップを載せたトレイを持って現れた。店員は馴れた手つきで飲み物をテーブルに置き、一礼して去っていった。僕はブレンドコーヒーのカップを手に取り、手のひらで包んだ。そして肺の奥にたまっていた息をゆっくりと吐き出して言った。
「とても長い話なんだ」


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