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チバユウスケの訃報によせて。

2023年12月5日の正午、チバユウスケの訃報を目にしてから、私はそれまでの何かを埋め尽くすようにミッシェル・ガン・エレファント(以下ミッシェル)を聴いている。

間違いなく私はチバの声を渇望していたのだろう。チバが無事、病から快復したらThe Birthdayのライブに行く気でいた。チバと同じ病に罹患したミュージシャンは多いが、皆、ステージに戻って来たからチバも絶対に乗り越えられると信じていた。信じていたのに。
ただでさえミュージシャンの訃報が年の始めから多かった2023年。そんな年が終わろうとしている所で止めを刺されてしまった。こんなことがあっていいのか。悔しくて、無力感、脱力感、喪失感に打ちのめされた。そして、暇さえあればチバのことを考える日々が続いた。

2003年10月にミッシェルが解散して以来、私はしばらくチバからは離れていたけど、もっとライブに行けばよかったのかもしれない。でも、ミッシェルの存在が大きすぎて、ROSSOにもThe Birthdayにも興味がわかなかった当時の私自身の気持ちも理解できる。2009年にミッシェルのギタリスト・アベフトシが亡くなってからの数年間は、ミッシェルを全く聴く気分になれなかった。でも今は聴きたい。とにかくミッシェルが聴きたい。そんな気持ちで年を越した。

これから書くのは、1990年代後半のことである。バンドの曲を聴いただけで人生が変わるだなんて、信じてもらえないかもしれないけれど、あの日たまたま聴いていたラジオで流れたミッシェルがそれだった。雷に打たれたかのような衝撃を受け、こんなの聴いているなんて親に知られたら怒られるんじゃないか?などと、何だかいけないことをしているような気分になった。ドキドキした。日本人のロックバンドでこんなにかっこいい音楽をやっている人達がいるのかと驚き、とにかく興奮した。もちろんロックバンドというものは知っていたけど、それはテレビの音楽番組の中にいる人達であって、ミッシェルのようにテレビには出演せず、ライブハウスを中心に活動しているロックバンドがいることを私は知らなかった。

「たぶんこのロックバンドを知っている人は、クラスにはほとんどいない」

当時、高校生活がうまくいっていなかった私にとって、この気持ちが支えになった。ミッシェルを聴いていたことで、私はどんどんロックバンドに興味を持つようになり、のちにスーパーカー、トライセラトップス、GRAPEVINEにくるりといった多くのロックバンドと出会うきっかけにもなった。そしていつしか「バンドを組んでみたい!」と憧れるようになり、高校卒業後に私はその夢を叶える。夢も希望もなかった高校生活が「早く終わって欲しい」と毎日思っていたけど、私と近い音楽趣味を持つ友人もできた。きっかけは、隣のクラスにいた彼女が私に声を掛けてくれたことで、その交流は25年以上経った今も続いている。ミッシェルと出会わなければ、私は高校には行かなくなり、だたの引きこもりになっていただろう。そして、どんな未来を生きていたのかわからない。恐ろしくて想像もしたくない。

ミッシェルのメンバーの中で誰が好きというのは特になかった。メンバー4人とも魅力的だった。彼らがライブで常に着用しているのが「モッズスーツ」で、音楽雑誌の取材で着用している皮のジャケットが「ライダース」という名前の洋服であることを知った。身長のない私には一生縁がなさそうなそれらに身を包んだ彼らはフォトジェニックで、どの写真もかっこいい。当時、ミッシェルは毎号のように音楽雑誌「ロッキン・オン・ジャパン」に掲載されていたので、その記事を私は舐めるように読んだ。そして、ジャパン誌に於いて長年彼らのインタビュアーを務めていたのが、編集長の山崎洋一郎氏である。

チバの訃報が発表されてから、続々とSNSにアップされたチバと近い場所にいた人達の言葉をいくつか読んだ。だけど、私が一番読みたかったのは山崎編集長の言葉だった。翌日、ロッキング・オンの公式サイトにアップされた「山崎洋一郎の総編集長日記」に綴られた文章を、私は何度も何度も読んだ。高校生の頃と同じことしている私は、歳は取ったが、根本的には何も変わってないのかもしれない。山崎編集長は、ミッシェルのメンバーとのインタビューには相当苦戦したそうだが、そんな彼らとのやりとりを読んでいた私はとにかく面白かったことを良く覚えている。

山崎編集長のテキストの中で印象的だった部分を抜粋する。

ミッシェルが登場したことで、日本の音楽シーンは一気にロックの色に染まっていった。だがべつに、ミッシェル以外に多くのロックバンドが登場して盛り上がったわけではない。ミッシェル・ガン・エレファントという一つのバンドの力で、それが起きたのだ。当時を知っている人には、それはわかるだろう。とてつもないバンドであり、事件ですらあった。

ミッシェルがやっていたことを言葉にしようとするのは、ロックというものを言葉にしようとするのと同じ無謀なことだった。そして、ミッシェル・ガン・エレファントもまた、ロックそのものであろうとする無謀な試みだった。だが、なんと彼らはそれを実現してみせた。今思ってもやはりそれは奇跡と呼んでいい。

2023/12/06 山崎洋一郎の総編集長日記
「チバユウスケが亡くなった」より

あの時代を知っている人にはわかる感覚だろう。チバが亡くなってから、彼のバンドの曲を多くのロックバンドがリスペクトを込めてライブやフェスでカバーしていたことがその証であり、いかにミッシェルがとんでもないモンスターロックバンドだったのか、チバユウスケがたくさんのバンドマンに多大な影響を与えていたかがわかる。

私自身、高校生活や親との関係性がうまくいっていたら、ミッシェルに出会うことはなかった。胸に思い描いていたキラキラな高校生活を送ることができたのなら、どんなに良かったことか。惨めな思いもせず、卑屈になることもなく、日々明るく楽しく生きることができていたら…と、何度も想像してきたが現実はそうではなかった。だからこそ、偶然ミッシェルという「事件」とミッシェルが実現した「奇跡」を体感したひとりとなり、私は私なりの希望や夢を見出した。それは大変幸運なことだ。大袈裟でもなく命拾いしたのだから。こんな風に自分の過去を捉えられるようになれたのは、ミッシェルから贈られた最大のギフトであり、40を過ぎてようやく過去を受け入れることもできた。

だから、あんまりメソメソしたくない。チバが亡くなったことでミッシェルのメンバーは今はもう2人しか生きていないし、ROSSOは永遠に活動休止中になってしまったし、The Birthdayはバンドを畳むらしい。だけどチバは私の中では永遠だ。

チバユウスケは私が一番憧れたロックスターであり、10代の頃の私にとっては「ロックの神様」みたいな存在だった。だから、きっと、いつまでも、私はあなたが生み出した音楽を聴き続けるだろう。あなたが歌う映像を見続けるだろう。今はまだ時々寂しさや喪失感に襲われるけれど、きっと乗り越えられる。だってあなたは私の大切な原点だから。原点ほど偉大なものはないのだから。



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